第15話 研修合宿 一
かんかん照りの太陽、土の匂いに満ちたあぜ景色。市民バスを借り受けて向かうのは農村だった。
舗装もされてない道路をゆきながら、唯一の涼みである風にあたる。
「もうすぐだよ、元浦くん」
「はーい」
音無先生は、いつもと違い、シンプルなパンツと半袖の装いだった。座席の幅を超えそうなトランクを抑え、麦わら帽をかぶる。これまたつばの広いものだった。
ほかに乗車している人はおらず、やはり先生とのペアにおさまったのだ。
わたしも荷袋を首にかけて腰をあげる。
「元浦くん、やっぱりおばあちゃんみたい……」
「やーですねー先生。風呂敷ってトランクみたいに、やたら革や金具、クッション材を必要としないにも関わらず、たった一枚の布でまとめられるんですよ?」
安く、包めるものは多く、持ち運びもしやすい。これ以上を求めるのはブランド価値だろう。その証拠に、トランクは値段がピンキリである。
胸を張ると、大きく車体が揺れる。
運転手が腕を出してきた。
「もうつきますよ〜」
このゆるさ。あの校に通う人材を踏まえれば、国防の必要性も、内乱の心配も少ないのだとさまざまわかる。
少しして見えてきたのは、山のふもとにある民家だった。規模にして百余りの人口、これといった特徴のない。ごく普通の農村である。
先生が出入り口に待機し、少し立派な屋敷の前でバスは止まった。
「運転、ご苦労様です。では、三日後にまた」
「こちらこそ、頑張ってくださいね」
運転してくださったのは老先生。帽のつばをつまみ、会釈してくださった。そうして、土埃をあげるバスを見送った。
音無先生は先に屋敷を訪ねたようで、玄関先で話していた。
ずり落ちそうな風呂敷をよっこらなおしていると、角向こうからあほ毛がはみ出していることに気づく。反対側からは、目がのぞいていた。
もの珍しいのだろう。仕事に追われないだけのどかというものか。
門をくぐって先生の後ろにつく。
「で、この子が今回の研修生です」
「元浦トシです。三日間、よろしくお願いします」
頭を下げる。この辺りは洋装もあまり馴染んでいないのだろう。甚平姿のおっさんは高笑いした。
「はっはっは、よろしゅうな。こっちこそ」
出迎え役らしい男。分厚い手の皮で、普段から土いじりしてるらしい。わらじも汚れてるし、爪は黒ずんでる。中年の男にしては下っ腹が出てる様子もないから、自堕落な程ではない。
目線が先生に釘付けなのは、教導への注意か。あるいは単なる欲望。
普通は女子のみということもある。それを踏まえればおかしくないのだろう。都会からきた身綺麗なものに、目を引かれる。
前世ならわたしは出迎える側だったな。
「じゃあ二人とも、泊まる部屋に案内するのでついてきてください」
「「失礼します」」
板張りの廊下をゆき、時折家人らしき女性の方々と顔を合わせ、挨拶する。そうして通されたのは角の部屋だった。客間というわけではなく、まあ普段は物置なのだろう、畳の湿っぽさが隠せていなかった。
「では、音無先生はこちらに」
「あ、はい」
「ちょっとすいません。音無先生、こっちきてください」
おっさんに断りを入れ、角隅でくっつく。
先生は心底訝しげだった。
「どうしたの?」
「おかしいと思いませんか。この座敷間、明らかに普段は物置です。和室に住んでるから、そのあたりなんとなくわかるんですけど、物置をあけるって、部屋割りするのも苦しいはずなんですよ」
セットにされても困るが、これはこれで不自然だ。
先生は考え込むが、すぐに振り向いた。
「多分、問題ないから気にしないで」
「わたしの方はどうとでもなるんですよ……」
「失礼しました」
「いえ、なにか気になるところでも?」
「そんなことは。ただの合わせです」
「はあ」
警戒してないのは先生の方なんだよなあ。
複雑に思いつつも二人を見送った。荷物を置いて縁側の戸をあける。迎えがくるまで待っていろ、というのが家にあがるときの指示だった。
庭先は垂れ柳と石垣、目立ったところはなかった。柳だけでも、夜はうすら気味の悪い音を鳴らすというのに、これは新手の嫌がらせか?
備え付けのようなかやりを垂らし、遠くからの風鈴に涼む。
戸によりかかり、息をつく。
「ほんと、わたしの方はどうにでもなるのに」
農業体験というのは名目に近い気がする。近隣農村との繋がりと、血の濃ゆくなる循環を希釈するためのイベントなのだろう。
いわば派遣男娼。体のいいボランティアか。
それでも、先生たちだってその可能性がないとは言えない。特に農村部に関しては、男の数も少ない。そこで起こるのは、子ども男の生産。万能感任せに、よそから来た女性に無理やり迫る姿が浮かぶ浮かぶ。
あのおっさんもそうだし、他の男子の度合いを見ながら判断するか。
しばらくして襖が開く音がした。
「元浦くん、今日は予定通り、夕食とお風呂いただくことになったから。明日一日が本番だね!」
「元気ですねえ、先生は」
のろまに歩み寄り、なかに手招きする。するとすんなり従ってくれるところ、前世とは根本的に女性の意識が違うのだと思った。
並んで腰を下ろす。
「時間はたっぷりあるようで」
「だらけちゃうよねえ。こう、キビキビした感じがなくて」
「脇が緩みすぎて精のつくものなんて盛られないでくださいよ?」
「それは私のセリフじゃ〜ん」
後ろに倒れ、伸びをする先生はほんとうに気抜けしているらしい。
気持ちはわからんでもないが、それをわたしという生徒の横でするのはどうなのよ。膝に頬杖をつき、小声に切り替える。
「真面目な話、水、食べ物、あとはお風呂とかには注意してくださいね。変な味や舌触り、香りやその他諸々。わたしは慣れてるので避けられますけど、先生の方は流れ弾くらいそうなので」
「ん〜、考えすぎと思うんだけど」
「先生は、男なら見境なくウェルカムな派ですか? なら今夜ここで一緒にいて、夜這い防止にと考えていたのも、無駄かもしれませんが」
「ちょちょ、待ってね。いま真剣な頭に切り替えるから」
ぐりぐりとこめかみを揉んだのち、起き上がってきた。勢い足らず、倒れそうになったところ、腕を支えに抱きつかれてしまう。
すぐに離れるも、どうにも気まずそうだった。
「はあ、気にやしませんって。それより、どうするんですか?」
「……まあ、迫られるシチュに誘われるものはあるけど。私先生だし、なにより、事前の準備もなくというのは」
「乗り気なんですね」
「いや、そういうわけじゃない」
体をくねらせていたのに、急に声音も姿勢も落ち着いた。期待に誤る返答をしたようで、がっかりした様子だった。
そういうの、他の人にしてもらえません? 見繕うぐらいならできるから。
大きなため息をついて、先生は横になった。
「元浦くんはやっぱり朴念仁だね」
「欲に飲まれるのはいいですよ。でも病気とか、後々の処理の準備くらいは済ませておいてください」
「え、じゃあ」
「あのおっさんが、ねえ。ないといいですねえ。おそらくこちらの男子への、または“から”だから許されてる側面ありますから……ていたっ!」
脇腹をつねられ、体をひねる。すぐに離してもらえたが、さすってもなかなかひかない。
「もう、なにすんですか。音無先生」
「っふん」
「はあ、とかく、先生も気をつけてくださいね。わたしが背中を預けてもいいと思えるくらいには」
「それって」
「先生という役割への信頼ですよ。あるいは教師という概念への期待でしょうか。どちらにせよ、わたし以上の理解を期待しますよ」
鼻先をおして笑いかける。
先生はムッとするが、とくに非難らしい言葉はなかった。
「元浦くんの感じる世界って、どうしても寒々しいように見える」
「実際、なにもかもを“対象”として、切り分けて感じる必要がありますからね。限りなく精密な理解には、それなりの代償というものが必要です」
「学知、に見えるけど」
「残念ながら、先生も知る通り頭は良くないです。いろんなこと、覚えても頭に残らないんですよねえ」
頭をかく。
「こんなに対応できるはばが広いのに、おかしいものよね」
「きっと、外から与えられる言葉というものに、本能的な疑いがあるんでしょう」
「その心は?」
「頭になんにも定着しないから泣きたくなる!」
先生は苦笑をこぼし、顔にかかる髪を払った。
先生なら、役割を信じると言ったところ、傷つくと思ったんだけど。気づいてない? いや、そこまで鈍かったらわたしは話すらしない。
「元浦くんはさ、本音を語るよね」
「はい? まあ基本的には」
「でも、さっきみたいな反応するとき、決まって余る感じがするの」
「余る?」
余剰、それはわたしへの推定がなった上で築かれる高度な感性。意外かも。先生にわたしへの注意を割く理由はなかった。
それは生徒平等なんて理念と反するはずだし。
「大学時代、ずっと本やコミュニケーションについて研究しててね。本にのめり込んだ時期もあったの。詳しいことはわからないけど、なんとなく言葉から人格を捉えられるようになったの」
「へえ、磨き抜かれた言語センスというやつですか」
「ううん、表現じゃなくて、分析や直感として。だからわかる、僅差まで。元浦くん、感情を盛ってるよね? いつも」
なにもかも溶かしてしまいそうな暑さは、秘密の蓋すら溶解させてしまうのだろうか。普段の音無先生なら、怖がって絶対に触れないことだった。
横目を向けられた。指先で、規則的にたたみを叩いては止めた。
「だから、なんだというんですか」
「言葉も噛み砕いてる。これは教えるものとしての同族だからわかるのかな。それらを踏まえてると、不思議なほどきみの評価は評定と一致しないの」
「人間が作った“テスト”という形式は、まだまだ不全だったわけですね。不可解に思える現象を前にしたとき、その多くは既知から欠落した要素や前提を持っています。先生が違和感を抱いて、その実を理解したいというのなら、今までとは違った観点から分析するしかないのでしょうね」
あいにく、わたしという生き物は無意識に流れるがまま形成されてきた人間とは違う。心の枝葉の一枚まで、自らの苦悩で神経を通した結果の産物。
だのに一目でわかると言えるのは、きっと傲慢というものだ。
先生は考える貌をしていた。人間の知性はここまで荒々しく無作法なのか。舐めるような目はむしろ獣の値踏みに思えた。
「踏み込んでみたかった。聞いてみたかった。きみの、素の言葉を」
「はっ、そういうのは五十年来の夫婦が交わす会話ですよ」
「……だよね」
肩を落とす先生に、なにも言ってあげられない。拒絶のニュアンスが強すぎただろうか。でも克明に示しておかないと、絶対地雷踏むし、この人。
「人は、言葉をすべて共有することはできません。わたしのは、その、誤解を生みやすい言い回しが多いので。先生であっても、十年くらい付き合いないと気兼ねなく話すのは無理なんです。生理的に」
「ぐふっ」
「正直、平易な語彙に縛ってるので、今の先生にわたしの素を求められても、頭に入りませんよ? 藍いわく、四次元思考前提の言語解析を必要とするそうですから。なので、ちょっと思い上がってるのかなって」
「ごふっ」
なぜだろう。先生がミミズのように伸びてしまった。
みっともない顔をしてるので、あごを閉め、うすら開いたら目を閉じる。これで、客観的には美人の寝姿程度にはなっただろう。
にしても、先生にも研究者気質はあったらしい。もとは大院までいってるそうだし、おかしくはないのだけど。
そうして橙に染め上げられた空に変わるまで、ゆっくりしていた。
「失礼。おお、音無先生もこちらにおられましたか」
「いま、少し疲れてるので寝ているようです。御用は?」
「もうそろそろ風呂をたくので、先に入ってもらおうと」
おっさんは至極まともな口調である。しかし端々に断定というか、粘り強い意志がにじむ。苦手な類の頭でっかちの可能性があった。
嫌ながらも、答えないわけにもいかず、適当に相槌をうつ。
「わかりました。先生を先に、その次わたしが入ります。ご配慮感謝いたします」
膝を向かわせ、平に頭を下げる。
おっさんは肩をすくめて戸を閉めた。小さくため息をついて顔を上げる。
先生の時間に乱入はなし。むしろわたしの方が気をつけないとか。湯冷めするかもだけど、脱衣所で先生に待機してもらうしかないかな。
身だしなみを整えるついでに、思わず頭を撫でてそのままだった。先生は本格的に寝入ってしまったらしいので、起こさなければならない。
普段からの激務を知っている身としては気が引けた。
「先生、お風呂ですよ先生」
ゆすると、ぽやぽやしながら寝返りをうってきた。
「……おふろ?」
「そうですよ。お疲れでしょうけど、起きましょうね」
「う〜ん、もう少し」
「夜はよう寝られるようにしますから、いまは起きてください」
うなる先生を抱えおこす。
手櫛で整え、シワを伸ばす。
「わたしは脱衣所で待機しておくので、ゆっくりしてくださいね」
「なんか至れり尽くせりぃ」
「そーですねー。お世話になってますし、下手に疲労を溜められて病むのも困りますから。はい、これでよし。髪触ったの文句言わないでくださいね。こっちだって気色悪くって鳥肌立ってんですよ」
先生の手を引いて座敷間をでる。着替えを持ってこさせ、家人に風呂場を聞いてむかう。
年若い娘、といっても肉体的な成長が乏しいようで、きっとわたしより年上なのだろう。愛想のいいその方についていく。
「亜門さんのこと、やっぱり警戒してます?」
寝ぼけた先生を送り出し、廊下に腰を下ろしたところに声をかけられた。
亜門? あのおっさんかな。
「どうでしょうね。知らぬ土地、知らぬ人、万が一わたし等が教師に性病でもうつされては業務に支障をきたしますしね」
目を丸くした娘は眉尻をさげた。
「変わっているとはお聞きしてましたが、こんなふうとは」
「変人扱いですか? それもまあ、普通の男に比べれば態度もやってることも奇妙なのかもしれません。お気にさわりましたか?」
「いえ、なんというか。男の人は一方的に命令してくる方が多いので」
例年ならそうなのだろう。しかし今年の各地域への割り当てはけっこうばらけている。わたしは余りみたいなもので、つながりが薄いか、問題が起きやすいと判断されたところに配属されたと思ったんだけど。
この子の態度も、みたところの健康も問題はない。受け入れ人数が少ないこと以外、まともそうなところだけど。
「その、花に手を出すような真似をされないので、一同困惑しているといいますか」
「盛るより別のことに精魂を尽くしているだけです。あなたは、ここに入って間もないのですか?」
「二年ほどに。ただ、私は亜門さんの妾子なのでヤッたことなくて」
恥じらいこそあるが、いい淀むほどではなかった。娘は腹芸を知らないらしい。ひねりも婉曲さもない。素朴、ゆえに無垢とも言える。
二年ということは、去年も男子は来なかった。もしくはこの子を手折らなかった。姿勢や着物の手入れ具合的には細やかな真面目さが伺える。
感情豊か、というわけでもないのだろう。わたしたちみたいなもの珍しいものがいるから、興奮してるだけかも。
「そうですか……亜門さんは、来客にちょっかいかける心配でもあるんですか?」
「どうでしょう。微妙といったところですかね。元浦さんや私がここに待機してるのは、そういうことを防ぐためでしょうから」
ずっと突っ立って辛くはなかろうか。
気遣うだけ無駄な気がする。風呂場に、他に侵入できそうなところはなかった。お湯に気化した変なものも嗅ぎ取れなかった。
起こらないならそれでいい。平和に越したことはないのだから。
娘はしきりにちらと見てくるが、反応する気力はなかった。
「元浦さんはその、お嫌いですか? まじりは」
「乱入沙汰はごめんですよ。もし問題が起これば即、この村との関与を絶たせてもらいます」
「……はい」
「期待させたのなら謝りますよ。でも致し方ないと思いません? 薬物混入、寝所侵入、性的侵襲の危険がみられる場に、大事な生徒を預ける教育機関はありません」
そんなのがあったらまともな運営ができてるとは言えない。
しかしどうしてか。
自分でも建前すぎる虚ろな感は否めなかった。娘にはわからないだろう。だからいい。それでいい。
娘は複雑そうに、手を組んではほどくを繰り返す。思いきったようで、わたしの隣に膝を折った。目線の高さが合うと、わたしの方が年上のように思える。実際そうなのだけど。
「わ、私小治栞と言います!」
友達からうんぬん、そんな言葉が脳裏をよぎる。けれど勇気を出した子を笑う趣味はなかった。
攻め方を変えた。どのみちヤる目的は変わらないのだろうが、わたしはこっちの方が好きだ。
「元浦トシです。見ての通りしがない十五歳です」
「な、なんか雰囲気と年が噛み合ってない」
「よう言われます」
「尼さんなわけ、ないか」
言葉を、特に繊細な感覚を形にして出すには、ある程度の語彙力が必要になる。
この娘に限らず、頭が良かろうができない人はできない。そこまで“表現”する意味が、もっと穿てば伝える必要がないのだろう。
だから雑に尼さんだの妖怪だの言ってくれる。わたしゃ常識人なのよ。
目が合うと、すいとそらされた。
「ご、ごめんなさい。お気にさわりましたよね」
「はあ。いえ、あなたに求めるだけ過ぎたものです。人は、当人にとって不可解なものに出会うと、大概異端の札付けをしてそれ以上考えません。労を惜しむという点では納得できます。ですが、相手を理解する意思という、関係の第一歩を自ら破棄しているとも言えるんです」
「……ごめんなさい」
「小治さん、愚問ですが、問わねばならないようです。わたしになにを望んでるんですか?」
九割九分はこの問いに沈黙する。人は自分のことを、自らの言葉によって知ろうとしないという、人類規模の傾向なのだろう。
小治さんは目を泳がせていた。
「えっと、それは、その……」
「できないですか、当然でしょうね。はじめてだろうから」
「はい」
「残念がることなんてないですよ。答えを必要としていたわけではありません、望ましいと思ってました」
「それはどういう」
体を寄せ、指を立てる。
「あなたはいま、わたしへの期待を問われて自分の中をまさぐったようなものです。そもそも期待という言葉を明確に、自分の中で定義できていなければ、なにに注目すればいいのかも曖昧になり、結果として言葉にすることすらかないません。あなたができなかったのは、試みたという結果をたしかなものとして伝えてくれました」
試みない人は論外、そういう人は考えたふりして、結局濁す。素直にできなかった。問いに答えられなかったという事実に、羞恥や罪悪感をみせれば、試みたとみられる。
純朴なだけかもしれないが、自己紹介して数分で絶縁しなきゃいけない事態にならなくてよかった。
ほっと胸をなでおろした。
小治さんはいまいち理解できていないようで、小首をかしげる。
「はあ、これでよかったんでしょうか」
「大事なのは、あなたの中でそれが必要と感じられたことです。今治さんは言葉にしようとした。それもほとんど反射的に。ならなおさら良いことです。建前だけじゃなくて、心でも納得している行動なのだと感じられますから」
「やっぱり、変人ですよ。元浦さん」
緊張もほぐれてきたらしい。ただ受けて反応するだけではなく、わたしへの再解釈をはじめた。
思案する今治さんから目を離し、廊下の突き当りからきしむ振動へとうつる。
いつからいたのかはわからない。家人かおっさんか。知るところでないものの、こちらをうかがっているのは間違いない。
まどろこっしいのは面倒で、出てきてほしいが、今治さんを止めたくもない。
この子は絶賛成長期なのだ。
「元浦さんのように、言葉そのものにこだわる人は、ここにはいません」
「大丈夫です。世の多くの人はそもそも言葉がどう人や心に働くか、明確に知ろうとしません。自分のことなんてなにも知らない。言葉にしようともしない。それでなんの不自由もないから」
「じゃあ、あなたはなんなんですか。変です、普通じゃない」
恐れるような言い回しでも、離れるそぶりは一切ない。
問うこと、解明することに集中しているのだろう。
「わたしは、相手から拒絶されることが多かったんです。真に穿つ言葉というのは、どうしても重いらしく。それでも努力はしてきました。軽く装ったり、なぜ相手が重く感じるのか、再三自分というものを探究してきたり。結果として今治さんみたいな人にとっては、理解しがたいものになったのかもしれません」
一言におさめられない過去がある。ただそれだけ。人そのものを直で見たとき、はたしてこの子は自分の知らないものを目にした。
無知を恥じているわけではない。すぐそばに得体のしれない未知があるのが怖いんだ。今治さんの心内は手に取るようにわかった。先達の特権というやつだ。
「いま言葉を交わしているのは、わたしと今治さんだけです。それは今治さんがわたしだけを理解しようと試みることができる。そんな得難い機会なのです」
「……あなたと話してると、あたまが痛くなります。喉に突っかかります。胸のもやがほどけていきます。なんなんでしょう。透き通った感じがするんです」
「塗れる、という言葉があります。泥にまみれる。粉にまみれる。それと同じく、わたしは感情にまみれる、願望にまみれる、欲望にまみれると言います。泥は凝り固まれば砂岩になります。自分の感じる世界を疑わねば、きっと全部固まってしまいます」
わたしは与えることはできても、関係することはできないだろう。楽しくこの子に語れる。それもひと時。胡蝶の夢、娼婦の夜売り、たとえならいくらでも浮かぶ。でもきまってだれもが恐れ、ふたをする。
光彩を輝かせる今治さんのこの一瞬も、続けるなら苦痛でしかない。
意味を見出せるかすら、わたしは驚くほど期待してない。
水音はすでに止んでおり、先生はとっくにあがっているはずだ。出てこない理由は自明だろう。
腕に込める力をつよめ、今治さんはじっと正面を凝視した。それは遠くを見つめているようで、焦点があっていない。
「世界は硬い。とても窮屈なものと思ってました。誰かに従っていれば、多くを失わずに済む。口を酸っぱくして言われてきました。それも確かだったんです」
「一理あります。ここで生きるならむしろそのほうがやりやすいでしょう。でも、あなたはわたしに関わった。それを望むなら、わたしという未知を自ら究明しなければなりません。厭うならすぐにやめた方がいいです。これも関わる代価のようなもの。あなたのなかにある心地よい安全圏は吹き飛びます」
良い人は、その裏にある利得の学習によって形成されることを知る。悪い人は、そのもととなる悪意にさらされたことのない無知をさらす。さて、それらを知って、ただそうだと飲み込めるだろうか。
見て見ぬふりは汚らしい大人の常套だとしても、子供でもやることだ。残酷とは言うまい。総じてそうなりやすいのなら、その行為に抵抗を覚えないのなら幼少期から繰り返している可能性が高い。
知れば世界は鮮明になる。でも目を焼く。胸を裂く。信じる土台を際限なく壊していく。
板張りの廊下を見下ろす。
今治さんは知る意思がなかった。けれど、わたしに関与しようとする過程で、わたしの見ているもの、見え方に触れざるを得ない。わたしに関わるだけで失うにしては、いささか割に合わないだろう。
「やめて、おきます」
「怖いですか?」
「……はい」
「まあたしかに、合宿中だけの関係と見越していたあなたにとっては、思いもよらない事故でしょうから。怖がるだけ無鉄砲に踏み込まないことは、ある種理性的なのかもしれません」
戸をノックすると、タオルをかけた先生が出てきた。乾きはじめ、少し不満そうだった。
「長い」
「すいません。ほんの言葉遊びですよ。ね、家人の娘さん」
今治さんはうなずくだけだった。それを見とがめるほど、わたしも先生も厳しくない。着替え袋を抱えて先生と入れ替わる。すれ違い間際に小声を交わす。
「右手廊下奥、人影あり。注意されたし」
「わかった。心配性ね、きみも」
「条件がそろえば、あとは人の意思次第ですから。わたしはそこまで人のこと信用しきれないだけです。では見張りお願いしますね」
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