第12話 うらぎりもの ※ 元浦藍

 物心ついたときから、兄さんは兄さんだった。

 私の前を歩いて、世界を言葉にしてくれて、なにより邪険にしなかった。はじめからネガティブに思ってしまうのは、きっとそれより幼い頃から、目に見える愛情も示されず、ときに邪魔として扱われてきたから。

 お母さんたちは余裕がない。お父さんは変な目で見てきて、兄さんに諭されて顔をしかめ、消える。その繰り返しで、とても世界は狭かった。

 

「ねえ藍ちゃん、それ長くなる?」

「は? そっちから聞いてきたんでしょ。兄さんの印象、私からみた兄さんという人を」


 この女、いささか自分本位が過ぎる。兄さんにマッチングしてもらったこと、忘れたのか。

 弁当箱を開けつつ、再開する。


「ある時兄さんが言ったの。なんでもわかるためには、なんでも疑わないといけないって。歩くのは、本当に歩いているのか。歩いていても、本人にとっては体調が悪くて走れないだけかもしれない。走っているつもりなのかもしれない。そも、見て、それを言葉にするとしても、言葉と行動が一致してるとは限らない。わかるとは、知覚した現象の起こりから結果まで、論理的に頭で構築できること。それがあってるか否かは推論する本人次第だけどね」

「頭痛くなってきた。それがトシさんとどう関係あるのよ」

「ひとつの行為に対して、兄さんは人が知覚できない無意識の意味合いまで含めて見てるってこと。それができる。ひとつ兄さんについて理解できたでしょ」


 同輩の箱島ノノに箸を突きつけると、苦笑して距離を取られた。


「まあまあ、わかったから」

「そもそもなんで私が、貴方みたいな愚物とお昼をとらないといけないのよ」

「うわー、普段おしとやな分だけショックが」

「そんなの貴女たちのイメージの押し付け、私がどう振舞おうと私の気分。てか兄さんの世話になったんだから、これ以上関わる必要ないよね? 秋田なにがしとの仲も問題ないと言ってたし」


 兄さんに興味? ないない、この女、兄さんのことパッとしないとか言ってたし。兄さんに関して意識をさくきっかけすら不明なんだよねー。


「ちょちょ、そんな怖い目で見ないでよ。本当に興味本位なのに」

「……はあ。で、なんで兄さんに」


 ノノはまぶたを震わせ、目をそらした。

 

「トシさん、最近会ってくれなくて。アッキーがまた他の女に色目使うから、どうすればいいかって」

「なんだそんなことか。ねえ愚物」

「愚物ではないと思うけど」

「秋田なにがしが他の女に目向けるってのは、愚物が兄さんを頼りにしてるのと、ほぼ変わんないのよ」


 どちらも欲も目的も違うが、代替を欲していることに変わりない。雑な認識だ。

 けど、こんな些事に兄さんを付き合わせるとか、恥晒しでしかない。面倒だけど、話くらい聞いてやるか。

 ノノは唇を噛み締めていた。ため息をついて肩をつかむ。こちらを向かせた


「兄さんは忙しいの。愚物が経国の美少女程度にでもなれば、その秋田なにがし程度、首っ丈にするのは簡単でしょ。兄さんをわずらわせないで、低脳」

「そんなの」

「できないとは言わせない。美は顔や声、体だけじゃない。仕草、所作、言葉選び、声音の使い分けに話の流れの制御、ありとあらゆる手段を尽くして、その秋田なにがしにとって目の離せない少女となればいい」


 性的嗜好の誘導も調教も、洗脳だって手っ取り早い手法だけど、兄さんに止められてるし。なによりその結果を見られてわたしがはしたないとか思われたら死ぬ。

 理解できないでいるようなノノは、やはり考えるという行為の基盤がなってないらしい。

 つくづくお花畑だ。


「つまり、受け取られ方を支配すれば、一般の傾国にならなくても、秋田なにがしを狂わせる美少女程度にはなれるということ。幸い、顔立ちはおっとりして端正、肉体の成長具合もわたしよりは良い。兄さんにその手の恋愛指導の基本くらいは教えてもらってるでしょ」

「……だいたいは」

「九割は覚えてないと。まあいい。低脳に一対一の情報伝達率なんて期待してないし、新規フレーム生成の気づきなんてもってのほかか。栄養がその肉付きの良さに行ってんじゃない?」

「ちょくちょく毒を挟まないといけないの⁉︎」


 肩を押してご飯に戻る。

 あ、兄さんまた焼きが甘い。卵焼きの甘さが一段増してる。やっぱ舌が働かなくなってるのかな。過ぎたるは色んな弊害を生むけど、味覚まで駄目になってきたか。


「一週間」

「え?」

「一週間で終わらせる。秋田なにがしの情報、とりあえず明日までにまとめてきて」


 兄さん、望む日常すら取り戻せなくなるよ。このままじゃ。体が適応できなくなる。考えることに囚われたら、もう戻れないんだよ。

 わかってるのかな。わかってるんだろうな。

 

「兄さんの望みは泰平。愚物、貴女たち愚物がのうのうと些事で悩める世界なの。せいぜい右往左往する苦悩に浸れ」


 自嘲を込めて笑って見せると、なぜかノノは顔を真っ赤にし、勢いよく顔をそむけた。

 はあ? この女に百合の気なんてないはずだけど。これだから感情主体のお花畑は。


「きも」




 毎度のごとく祖父母宅を訪ね、泊まると告げると嬉しそうにされる。侘しいのだろう。兄さんに愛想なんて余裕はないし、会話も弾まない。

 兄さんの部屋の戸を開けると、相変わらずの散らかり具合だった。まだ帰ってきておらず、そそくさ紙を拾い上げる。


「鎖国する際の留意点とその対策……技術体系の後退にかけての必然的損失に関する管理体制の必要性……」


 分類わけしてクリップで留めていく。

 兄さんはこの手の書類をまとめる真似はしない。すべて頭にあるならなにを書いても同じく、整理する必要すらないそうな。

 こういう目に見えた欠点があるのは安心だけど、心の安定性は桁違いに強い。文字列は乱舞し、高揚(ハイ)になっていたのが容易にわかる。

 指先でなぞり、私まで悦に入ってしまう。

 この簡素な部屋で、兄さんの生活感と呼べるものは、これしかないのだ。


「あれ、来てたんだ」

「兄さん、かたしといた。今日泊まる」

「うん、夢乃に電話しとかないと」


 すぐにバックから携帯を取り出す兄さん。きっと唄帆のことを思っているのだろう。

 抜かりなく夢乃ねえに朝伝えたけど、兄さんの補強があればやる気も増すというものだろう。

 その間に窓を開けて団扇を二枚、棚から取り出す。


「あ、夢乃? うんわたし。今日わたしのとこに藍とめるから。え? 朝聞いた? そう。じゃあ唄帆のことお願い。いつでも遊びに来てって伝えておいて。うん、うん。夢乃もね。じゃ」

「どうだって」

「今週末は二人揃ってここにとまると。時々わたしの顔見せないと唄帆に忘れられるぞーだって」


 つられて私も笑ってしまう。

 そうだ。こういうのだ。きっと兄さんが望んでいるのは。本当に、忘れないでほしい。

 兄さんの横を通り過ぎつつ横目にする。


「先降りてるね」

「わかった。部屋、ありがとね」

「ん」


 スッと戸を閉める。音なんてたてるようなはしたない真似はしない。

 けれど心臓が跳ねてしまった。なんど言われてもありがたみは消えないようだ。内心、感謝の言葉を口にする余裕もない兄さんが、わざわざ私のために言葉を紡ぐ。

 壁に寄りかかり、胸をおさえる。

 ああ、なんて至福。

 気づけば兄さんに声をかけられ、一階に降りた。風呂に入り、兄さんに髪を乾かしてもらい、夕飯をとる。

 ここからいなくなっても、兄さんの痕跡は残らない。そういう振る舞いをする。なんど意識してもそうとしか判断できず、ときおり兄さんは幽霊なのかと疑ってしまう。

 

「ね〜、もう寝よ〜」

「わたしもそうしたいけど、きりが悪くて」


 兄さんは頬杖をついて悩ましげに机に向かう。その膝に頭を乗せる身としては、いつもの返事だった。


「また? 逆にそれ以外の返事聞いたことないんだけど」


 書くことが無限に広がっていくらしい。頭の中で延々と連想ゲームしてるらしい。一書けば三の発想が生まれるといって、きりがないのだ。

 兄さんのお腹に顔をうずめ、ぐりぐりとうったえる。


「手がぶれるからやめて。もう、わかったから」


 雑に頭を撫でてくれたら、止まって足を体を丸める。兄さんの体温も、声も、意識さえ藍のもの。

 安心だった。

 ここで止まらなければ、引き倒してでも寝かせないといけない。次の日、論の続きを忘れてしょんぼりするところを見なくて済む。

 

「てか暑い。冬ならまだしも、もう夏なんだから離れてよ」

「い〜や〜」


 溢れてくるのは不安だけ。ぽっかりと寒々しいほど張りつめたなにか。兄さんの声音は変わらない。被った表情は変わっても、いつも底にあるものは変わらず、私の胸まで侵してくる。

 これも兄さんの性質の一部。ならなにもわからなくなるくらい、熱く、甘く侵害してしまえばいい。

 見上げて笑う。無邪気に、義務さえ忘れさせる勢いで抱き締める。


「あっつ〜」


 ついぞ後ろに倒れ、姿勢を崩した。

 胸板に乗り上げて首元に吸いつく。

 兄さんの声は、頭を強制的に冷やしてくる。いつの間にかロジックモンスターに変えられた子供もいる。対抗するためには肉感と感情でほどよくバランスをとらなければならない。

 風呂上がりということもあり、兄さんの肌艶は良く、だからこそ露骨に肉付きが薄くなっているのがわかる。

 頼りなくなって……でも、その分藍が補完できる部分が大きくなる。


「人に吸い付いて楽しいのかねえ」

「されるがまま。ならなんでも許される」

「んなわけないでしょ。あ、こらわたしの股に足入れんな」


 腰を掴まれて、横に転がされる。けれど力が弱まっている。

 口元がゆるんで仕方ない。

 兄さんが人として欠けていくほど、藍の占める補完は増えていく。そうなれば、藍は必要となる。確たるところまで、あといくばく待てばいいのかなあ。

 兄さんが明かりを消し、布団にもぐってしまった。


「……もう少しで」

「藍、わたし、前にも考える頭だけの生き物みたいになっちゃったことあるの。そのときはね、失敗したと思った。目的も忘れて、知覚したものからあらゆる情報を引き出す解析機械のようなものになった。今回もね」


 起き上がり、手櫛で髪をすく。

 ああ、また忘れるとこだった。私の願いはいつだって変わらない。


「藍がいるから大丈夫。怖いなら、考えられなくなるくらい犯すよ」

「っはは、冗談きついなあ。でも、だれかに体を預けられるなんて幸運」


 思いの外声が弾んでいた。

 体さえ付属物のようにいう。兄さんにはこういうところがあるから、目が離せない。異形、一瞬でもわたしを恐れさせるほどの異なものなのかと、錯覚させられる。

 兄さんは思索を愛し過ぎている。調整に気をつかう体のことを私に任せられたら、その分考える余裕ができると。つくづく体質と願望が一致してない。


「そういうところ、好きになれない」

「わたしも。いくら矯正しようとしても、体は考えることを快にしちゃってるから難しいのよね。それで死にそうになるのに」

「藍にはわかんないけど、どうなるの」

「過ぎたるは毒。それは思索でも変わらない。……発狂するよ」


 兄さんはそれきり、寝息しかたてなかった。

 頭の中で反芻する。兄さんが、正気を失う。それはありえない。言い方が経験者そのものだった。これは、私に対する警句かな。まあ心配のしすぎ、私はそこまで取り憑かれてないから。

 でも兄さん、兄さんは私に頼りたくないんだろうけどさあ。こう、やっぱりそっちのほうが幸せなのよね。

 兄さんの背にひたいをくっつける。

 ごめんね、言われなきゃ裏切りじゃないから。

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