第11話 藍アイ
結局、先生ははぐらかすばかりで応えようとしなかった。木陰ぼっこも冷めた糸雨にはかなわず、草いきりの熱がなくなったと思えば、悪しとも言えない。
その代わり、保健室を間借りした。先生が横たわり、そばでわたしが腰をつける。立ってようとしたが、手を引かれてしまった。
白カーテン越しに微光の雨影が降りしきり、しんと静まり返る。それを仰ぐ時間は嫌なものではなかった。
「元浦くん」
「はい」
「ごめんなさい、付き合わせちゃって」
「もとより今日は予定なんかなかったですし、別にいいですよ」
論考の詰めがあるけど。
筆を握れば勝手に文が浮かんでくる性だ。ひるがえって頭でどれだけ言葉を紡いでも、すぐに忘れてしまう。
その手も、いまは先生に握られているわけだ。
ほどなくして寝息が聞こえはじめた。
先生の、ペンだこらしいところが妙に気になり、さすってしまう。柔い感触の中にざらっとしたタコがあれば、自ずと、というわけか。
「……重積が過ぎますね、教師というやつは」
後ろ目をやり、寝顔をそっと視界に収める。
先生も奇怪な人だ。この学校の教師なんて、それこそ生徒の揉め事を調停したり、逆に値踏みされて胃を痛めそうなものを。
一般高校にあてるべき人だな、うん。
ひとしきり考えをまとめ、ぼうっとする。
触れそうなところで、衣擦れと寝息が聞こえる。つかまれた手からは、わたしよりも熱い体温が移ってきて、境界すら忘れそうになる。
ああ、この人は生きている。
常々忘れてはならないことがある、相対する人は生き、呼吸をし、血の通った感情を抱くのだ。だのにわたしはよく忘れてしまう。そこに肉があって、心臓があって拍動する体をもつのだ。自分であれ、他人であれ。
こんなときくらいは実感として戒めておかなければならないのだろう。暖かく、肉感を持つ人は怖い。振り払ってしまいたくなる。
わたしは生の重みなど、ほんとは一人として抱えられないし、肉体でダイレクトにその存在を叩きつけられると、突き抜けて嫌悪すら湧いてくる。
絡まった指を離そうとして握られる。反射なのだろう、けれどこちらにとっては胸中に冷めた刃を突き入れられるような恐ろしさがある。
知らない人はことごとく幸せだ。
背を曲げてうつむく。
本当は、生き物の生に責任を感じられる人間などいないのかもしれない。こんな重みを背負って、どう生きるのか。わたしには皆目見当がつかない。できるやつがいるなら聖人と呼んでやろう。
ポケットが震え、携帯を取り出す。
「はい、元浦です」
「兄さん、今どこにいるの? 家来てるんだけど」
「学校、まだしばらく帰れないから待っといっ」
腹に手を回され、声を上擦らせてしまう。
振り向けば、先生が薄目に笑っていた。
「……なにやってんの? 迎え、いこうか?」
「いやいいから。雨も降ってるし、来る意味ないって」
まじでなにやってんのこの先生、藍に冗談とか通じないんだから邪魔しないでほしいのだけど。
睨みつけると、つうっと背中を指先で撫でられ、苦悶に口を噛んだ。
「兄さん、喉声が聞こえてきたんだけど。やっぱり行く……変なことしてたら許さないから」
「ちょ、ま。切れた」
背筋が寒くなっていく。藍はあれで鼻がよく、勘がよくといったスーパー人間じみたとこがある。ごまかしの類はわたしより効かないだろう。
「先生! なにやってくれてんですか」
「えへへ、なんか煤けた背中だったから」
「だからなんなんですか、まったく」
腕も手も解かせ、ずり下がった布団をかけ直す。
目もしょぼしょぼしているようで、きっと携帯の音で起こしてしまったのだろう。不覚。
「わたしはもう帰りますけど」
主に藍への弁明のために。
「もうちょっとここにいてもいいじゃん」
「甘えた声出さないでください。帰り辛くなるじゃないですか。先生がいたずらしなかったらまだつきあえましたよ」
「ねー、だったらいいじゃーん」
酒もだめなら眠気もだめなのか、この大人。
少し悩み、どかっと腰を下ろした。
「はー、藍にはなんと言ったものか」
「てー握ってよ、元浦くーん」
「だめです。先生には前科がつきました」
それでも腕を忍び寄らせる先生。微睡んだ人ってこんなにばかになるのかな。
腕を押さえつければ、それだけで止まった。布越しとはいえ柔らかい。うう、きしょ。
「さっさと寝てくださいよ」
後から赤面すんのはあなたなんですから。
ふたたび先生が寝付くまで、時間はかからなかった。わたしも、そうなるとうつらうつらしてしまう。藍の方は諦めている。ほどなくして来るだろう。
ならば考えても仕方ない。
「兄さん、兄さん」
肩を揺らされて頭を上げる。一瞬にも満たない時間のように思えた。
けれどはっきりわかる、寝ていた。
眼前では先生がまだ目を閉じていた。
「……藍」
「さすがに、座って眠るのは腰に悪い」
「だね、聞かないの?」
「兄さんについてるクチナシの香りが、音無先生からもしてること? それとも、二人きりで保健室にいたこと?」
「わかってるでしょ、藍の心配するようなことは起こってない」
若干濡れた藍の髪先を絞り、棚からタオルを出す。
膝丈の紺のワンピース、部屋着で来たのかよ。
腰を紐でくくり、体系をくっきりさせるタイプで、走るのには向いてないだろうに。
「そこ座って」
大人しく腰を下ろしたところ、後ろに立つ。
濡れた髪を挟んで水気を吸い取り、かるく手ぐしを通す。まだ未使用のタオルを渡した。
「服も濡れてるからそれで抜いて」
「うん……兄さん、なんで帰ってこなかったの」
「この先生を放置するのもね。ここ保健室だし、もし男子が来たらそりゃ待ちと捉えられてもおかしくない。わたしが離れるわけにもいかなかなったのよ」
「違う、そんなの側面でしかないでしょ」
藍は外さない、ことわたしに関しては野生の直感も超えた絶対の精度をもつ。それは恐ろしくもあり、言葉を誤解される心配のない安心でもあった。
揺るぎない眼には嘘をつけない。
「……ただ、置いていくのは気が引けただけ」
「そんなに音無先生を慕う余地、あるの?」
「藍はわたしにとって有用な個人を評価するでしょ? それと同じ。この学校、ひいてはこの国にとって有用な道徳的規範になる人だからね。わたしにはできない愚直さがあるのよ」
この校の生徒の態度を見て、いまだ善き人たらんとし、その意識を示し続けるのは容易なことではない。
藍は眉をひそめるばかりだった。
「それって、だれにとっての?」
「一般の人。こうすれば最低限社会は回り、負担も限りなく平等に、折衝を最小限にできる。それが生活の余白を生むのよ」
「へえ、ならまあ。規範の人材なんて探してもいないし、確かに貴重かも」
淡々と述べる藍にとって、他人は人材でしかないのかもしれない。動かす駒、最適な配置と定期的な点検を施しておけばいいもの。
間違ってはいないが、自分もそうであると自覚しなければならないだろう。
ある程度水気をぬぐうと、藍は手をとってきた。そのまま自分のほおに添わせる。
「なにがしたい」
「感じたいだけ。兄さんは私のでしょ?」
「返答に困るからやめろ、その質問」
「否定も肯定もない。兄さん、否定しきれない部分があるでしょ。自覚してる上で排除できないでいる。ならだれになびく心配もない。兄さんも、絶対私以外に欲をむけないでね」
わきから首裏にかけて腕を回され、顎下がくすぐったい。けれど、それ以上にわたしは動けなかった。抵抗する間もなく距離を詰められた。
なにより致命的なことに気づいてしまった。
藍に触れられても抵抗がない。長年のくっつき合う時間が蓄積し、他者として認識しなくなったとでもいうのか。
藍の声は揺るぎなく、透明なまま拘束を口にする。それが当然かのように。
「他人のことなんか直視する余裕ないもんね。期待は果たされず、徒労に終わるだけだもんね。私以外、兄さんのこと理解しようとしないもんね」
なぜだか嬉しそうな声の跳ねがあった。
わたしはなにを問題視していたというのだろう。この言葉があって、なにか変わることがあったのか。いやない。
いままで通り、なにも変わらない。
肩を押して距離をとらせる。
「わたしの心中をまさぐるような真似はやめて」
「ごめん、心配だったから」
「事実を羅列し、再認識を強制することによって判断コストを高める。これによりこちらの要求を呑ませやすくする。どこでこんな技術、覚えてきたのやら」
どこか満足げな藍は、ベットの横に立つ。先生を見下ろして笑った。
「そんなの自明だよ」
「……自明って」
「たまたま見つけた現象の結果から、繰り返して手法に変える。普通の学習。兄さんは揺れなかったけど、こういう愚物ならあわあわして拒否すらできなくなるよ」
「絶対にすんなよ。やられた側は疲れるんだから」
気づける人はもっと少ないだろうけど。
呆れるほど手段としての使い方が洗練してる。わたしには絶対にできない、コミュニケーションの自然な誘導。まあその絶技がわたしだけに発揮されるなら、被害も少ないし、問題ないか。
ふと藍が横目にしてくる。
「いいけど。でも意外。兄さん、けっこう限界まで頭使ってたはず」
「反応の遅さまで正確に把握できてるのかよ」
「私の言葉を逆に分析しかえすほどの瞬発力なんて残ってないはずだったのに。思考位相でも切り替えて、一時的にでも摩耗をごまかしたの?」
知らない単語だけど、わたしが仮想思考空間って呼んでるものとほぼ同じじゃない。
いささか読みが正確すぎないか、藍。
そもそも積み上がった疲労はプラスの思考空間、グラフにしてマイナスに切り替えれば瞬間的に正常な判断力を取り戻せるとか、実践してるわたしだから理解できるはずの概念なのに、なんで推論で断言できんのよ。
藍はサイドテーブルに体を預けつつ顔を背けた。カーテンの方を見ているが、明らかに意識の重心はわたしとの会話にあった。
「だんまりか。そっか、そうだよね。暴かれたくないブラックボックスくらいあるもんね。兄さんには」
「悪いけど、教えるつもりはないよ」
「私が兄さんの意向に逆らうわけないじゃん。ああでも、分られたくないなら、急に分析的で平坦な口調になったり、しないほうがいいよ。露骨に切り替えがわかるから」
わかっとるは、そんなん。
口がゆがむのがわかる。
切り替える原因はそもそも会話に耐えきれないほどの疲労を蓄積したとき。そんな状況で口調までつくろう余力はない。
つまり対処不能の目印。
「使えない忠告どうもありがとう」
「っふふ、ね? 私、有用でしょ?」
「必要ではない。今日は迷惑ですらあった」
「むう、フォーカス変えないでよ。地でこんなに兄さんに最適化された言葉も態度も思考も持ってるのに。強がり、限りなく必要に近い有用なんでしょ」
「否定しないけど。ほんとに今日はなんなのよ。いつにも増して口数は多いわうがつは」
藍は先生を指差した。
「私以外の人が兄さんに肉体接触するとか、許せるわけないじゃん。目先の欲しか見えず、無自覚に兄さんを阻み飢えさせるお上と同じ」
「制度と人は違うのよ。先生は微睡に甘えてきただけ」
「その失った時間は、音無先生に注がれるべきものだったの? 論考とか、私に付き合うのが道理じゃない。兄さんを利用しようとするだけの愚物とは違う、私に」
ため息をつき、そばに歩み寄って降ろさせる。
「本末転倒だよ、それは」
藍とわたしには考える目的としての違いがある。なんのために、誰のために身を削るか。はっきりとした差が。
「腱鞘炎になっても、藍に代筆を頼んだり、無理して動かしたりする。体制が疲労しきる前に新しい安定体制を考案し続けなきゃいけない。藍の言うとおり、わたしは時間に追われてる。けどね、それもこれも、先生みたいな人と一緒に、つまらない日常を送るため」
藍はわたしの保護を第一にする。
わたしの最終目的は日常にある。
藍はほおを膨らませるが、反論は口にしなかった。
「……はあ、私がいれば満足なのに」
「藍がおおよそ、人間として代え難い価値を持つのはわかる。でも、ダイヤのために生活を切り崩す人はいないのよ」
理解者は一生をもって現れるかどうかも分らない唯一無二だ。前世では渇望して止まなかったものだ。生活とならびに。
けれど、わたしはどちらを優先するか。決定できなかった。
藍はついぞ肩を落とした。
「藍がいれば、過不足のない。兄さんが望む日々を送れるのに」
「わたしも欲深いと思う。でもさ、自分たちが守ったものに触れたいと、望んでもいいんじゃないかな」
細腕を離し、イスをやる。すると藍は腰をおろした。
「愚物に守られた実感なんてないよ」
「それが制度で日々を守ると言うことだよ。その代わり、いっぱい守れる。こんな風に、自分の手の届くところより、もっと広く」
ぎゅーと後ろから抱きすくめ、肩をさする。
「ごめんね。藍が大事だし、感謝も絶えないけど、ご褒美はもっと後。わたしの余生くらいしかなくて」
「っう、いいもん、それまで兄さんを生かせば、全部藍のものだから」
腕の中の体は細く、今にも折れてしまいそうなほどで、とても冷たい。まだ中三、そんなこと忘れてしまいそうになるくらい、峻別がついていた。
何度ぬぐってもぽろぽろ溢れてくるようで、わたしは止むまで眺めていた。
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