第10話 とおかんや

 ベタつく暑さに蜃気楼の街並みが日常と化したころ、紫陽花も木々に巻きつき、鮮やかな柴の色合いを咲かせていた。

 ぱかぱかの携帯を開く。まだ六時過ぎ。

 それなのにあたりはもうすっかり日が明け、蝉の声でも聞こえてきそうなのが嫌気をつのらせる。


「まったく、たかだか校舎の全体点検ごときに、早朝登校を指示すんじゃないよ」


 ふところにしまって額の汗をぬぐう。

 止めていた足を再開し、無人の学校についた。柵らしいものはなく、セキュリティの甘さと言って仕舞えばそれだけだが、警備に回せるだけの人間などどこにもいない。

 どこだって人材不足なのだ。そして、それで良いと思う。

 気の抜けた木造校舎。物々しいよりはいいだろう。狙われるものは書類くらいしかないし、それすら日の終わりに金庫に保管されるのだから気にしても仕方ない。

 靴箱で上履きにはきかえ、職員室に行く。


「しつれーしまーす」

「あ、元浦くん。おはよう」

「早いですねー。って、オーバーオール。アメリカかぶれですか? やめて下さいよ。今その手の産業活性に対するアレルギーすごいんですから」


 三つ編みの音無先生がいた。点検書を見ていたらしい。昨日確認したのに、律儀なこと。

 胸元のシャツをパタパタさせつつ戸を閉める。適当なところに鞄を置いた。


「あはは、おしゃれしたくなっちゃった」

「似合ってますけど……他の方はやっぱり来ませんか」

「んう、まあ」


 先生は目を逸らし、紙で口元を隠した。

 煮え切らないこたえだ。どうせ男子は面倒くさがったのだろう。女子とて貴重な公休日、習い事や用事にはこと欠かないということか。

 先生たちは言わずもがな、休みを満喫してほしい。


「さっさと終わらせましょうか。先生、寝たほうがいいですよ」

「う、やっぱりわかる?」

「くま、ありますからね。どうせ人なんて来ないんです。終わったら木陰ぼっこでもしましょうよ」


 いつの世も、教師という生き物は頑張り過ぎる。忙しなければ死ぬ呪いにでもかかっているのだろうか。

 先生は苦笑した。


「うん。じゃあ早速、三階からいこっか」

「はい」


 それから二時間ほどかけて、設備の数量や状態に問題がないか、確認しまわった。

 

「っぷはあ」


 口元をぬぐい、蛇口から顔を上げる先生は、ひとまわり若々しくなったようで呆然としてしまう。これはきっと、夏と水場の瑞々しい空気の錯覚だ。

 そう思わざるを得ないほど絵になっていた。

 わたしはなにを見せられているんだ。

 水筒の蓋を閉めて、壁に預けていた背を外す。

 今一瞬、世界がより鮮明に見えた。手触りすら感じ取れてしまいそうな鮮やかさに口を結んだ。


「元浦くん?」

「いえ、なんでもないです」


 葉の刺繍が入ったハンカチを渡し、濡れたところを拭くのを待つ。

 いまだに焼きついて離れない。前世を含め、何十年と経験していなかった感覚だ。

 

「お昼には、というよりまだ朝ですから軽くなにか食べますか」

「そうだね、私も朝食とってないし」


 職員室に戻り、鞄から布袋を引っ張り出す。


「先生はおにぎりですか」

「元浦くんのは」

「ただの干し梅ですよ」


 顔を突き合わせて息を呑む。


「わける?」

「やりますか」


 この組み合わせは運命だろう。

 わたしたちはかたくうなずきあった。

 干物の類の保存性は驚くほど長く、それゆえ間食には年中無休引っ張りだこだ。干し梅ともなれば、夏場にはかかせない代物だった。

 先生が周りを見渡す。


「書類作業の場じゃ、飯も美味くならないですか?」

「あ、えっと、うん」

「なら外、はだめか。暑過ぎる。今日は風が強いようですから、3階の教室はどうです?」

「そうしよっか」


 階段をあがっていると、唐突に話しかけられた。

 これでも二ヶ月、一緒に行動することの多かったわたしにとっては、意外なタイミングだった。


「ねえ、この前相良さんの家に招かれたって」

「ええまあ、それがどうかしたました?」


 先生は口にするのを躊躇っていたようだ。それもそうかもしれない。家に呼ばれるなど、行為と直結してもなんらおかしくないのだから。

 

「その、どうしてなのかなって。元浦くんと相良さんって、あんまり関わってるとこ見たことないから」

「あー、そうですね。わたしは相良先輩に誘われましたから」

「三年の?」

「ええ、くらすめいと? の相良さんの姉にあたる方です。この前知り合いまして」

「はあ」


 適当な教室に入り、窓際の席につく。

 窓を開けて先生に向き合う。


「きっと、先生のご心配されてるようなことはありませんよ」

「きみにはよく助けてもらってるけど、みんなのこと、覚えてほしいな」


 幾度となく告げられた言葉だった。

 うつむきがちな先生は、今回も同じ答えであるのを知っているのだろう。

 訴えかける。悲しげな姿でわたしを変えようとしている。とても陳腐なやりとりだ。


「お断りします」

「やっぱり」

「理由がありませんもの。彼女らには磨き抜いた一筋の能も」


 干し梅をつまんで飲み込む。


「叩き上げ、削り抜いた信念もありません。衆愚、無知蒙昧で、それを幸せに生きる国家の細胞です。わたしが記憶するのは個人と決めていますから、先生のご期待には沿えません」

「……いつもそうだよね」

「わたしは先生を信じています。だからこうして言葉を歪曲させずに、気兼ねなく話せるんです。はたして、他人の言葉を胸に秘め、道理を通せるものが当たり前にいると思いますか?」


 先生は口を閉ざした。

 自明である。人は都合よく言葉を解釈し、忘れ、自儘に振る舞うだけの生き物だ。心の髄を道理で定めるものなどごく限られている。


「できないほうが普通で、知らない方が幸せで、だから衆愚というのは羨ましくもありますよ。別にどちらが優れているか、ということではないんです。ただ、わたしにとって尊ずるべきは個人だった、というだけ」

「みんなのこと、見てあげられないの?」

「見てますよ。来るかもわかない明日を期待し、日常が続く前提で過ごす子どもたちを。微笑ましいですよね。日本は自給自足を余儀なくされ、物流がしぼみつつあるというのに、平和なものです」


 人は着々と亡くなっている。日本が自国内で生産し、賄える人口に落ち着いている現状は、とても幸福なのだ。

 それを享受しているあの子たちは、実感として楽しい日常なのだろう。


「そういうことじゃなくてさ」

「わたしは万人に等しく、価値が備わってるとは思いません。ましてやあの子たちはまだ子どもです。教育環境下にある中で、わたしが記憶すべきと判断できる人のほうが少ないんです」

「わかるけど!……もっと、期待してあげてもいいんじゃないかって」

 

 弁当を叩きつけるように置き、先生は顔を歪めた。わたしとて心中のすべてを察することなど不可能だ。努力はできても限界がある。

 できるなら汲んであげたい苦悩だが、余裕がない。


「期待、そんなものできると思いますか」

「え……?」

「先生、人は基本他人任せです。国家に負う責任など、自覚するものはいません。普段から未来を見通そうと論理の体系を築くものはいません。やらなければならない、できなければ国家の中枢機能が破綻します。そして、普段からそんなことを思い描くわたしに、衆愚のクラスメイトを記憶する余裕なんて」


 ね、とそう首をかしげてみせる。

 先生は瞑目し、なにかを振り切ったようだった。姿勢を正したものの、口は震えている。


「そ、そうだよね。ごめんなさい、押し付けがましかったわ」

「そう苦しそうな顔しないでくださいよ。先生が無力というわけではありません。単純にわたしのキャパシティが足りないだけですから」


 もっと世界を楽観できれば、もっと他人が責任を持つなら、くだらない日常も過ごせたかもしれない。

 けれどできない。

 先生からおにぎりを半分もらい、干し梅を乗せる。


「……望むべくは泰平ですね」

「ん、なにか言った?」

「いいえ、誰か来そうな気がしただけです」

「そうかなあ」


 もしゃもしゃ食って味わう。

 なにかを美味しいと感じることはなくなった。好みらしいものもなく、痺れ、隔たる感覚に味はひどく人口的なものに感じられる。

 考えることをやめられない弊害のようなもので、おいしそうに食す先生は、素直にうらやましかった。


「あ、いたー」


 しばらく風にあたり、近況を語り合っているとと、そんな声がした。

 先生がばっと振り向く。

 いや、そんなおどろくこと?


「み、三坂さん」

「点検、遅くなりました。もしかして終わりました?」

「うん、まあ大体は。大勢でわちゃわちゃやるよりは結構速かったから」


 肩で息をするところ、かなり急ぎ足のようだったが、来るとしても三時間は遅刻だ。どうせ予定が潰れたから一応来たといったところだろう。

 ご苦労なことだ。

 水筒をすすり、息をつく。


「三坂さん、ここであなたができることはもうないですよ」

「元浦くん……相良さんちに行ったそうよね」

「クラスメイトの前で聞かなかったところ、一応の配慮はできるようで」

「はぐらかさないで。なんで誘いに乗ったのよ。おかげで等外くんがどれだけ不機嫌だったことか」


 冷めざめした目で追求してくる。

 わたしにはむしろ、その不機嫌をなおすほうが大変だったと聞こえるが、うがち過ぎだろう。


「相良ひよりさんは、具体的には等外くんを支持してるわけじゃないってだけじゃない? わたし、おしゃべりに付き合っただけだし」

「それが迷惑だって言ってんのよ」

「二人とも……!」


 先生がたしなめるように刺してくるが、気にしない。三坂とて同様だった。


「わかってんでしょ。それがどういう意味か」

「個人の仲を外側が安易に慮れないこともね。等外くんも狭量というか、臆病というか。聞きたいことがあるならはっきり言えばいいのに」

「あ•ん•たを気遣って相良さんが止めてんのよ。殴りあいにでもなったら皺寄せは相良さんの方にいくしね」

「それは、等外くんが話の聞けない男だと言ってるようなもんだよ? 三坂さん」


 三坂はしばし口ごもり、先生がため息をつく。

 申し訳ありません、先生。ですがわたしは一歩たりとて引くわけにはいかないのです。相良ひよりは、曲がりなりにもわたしとおしゃべりしたいと言ってくれた先輩だから。


「そ、それは、当然じゃない。だれだって自分の恋人の家が他の男を連れ込んだら怒るでしょ」

「恋人の家でも、恋人自身じゃない。まして相良先輩は相良さんとは違う。怒る理由にはならないよ」

「それでも! 割り切れないのが人間なのよ」

「こんな些事も割り切れない男なら、それだけ器が小さく、自分に自信のないだけ。おや、そう見るとあの傲岸不遜然とした態度も虚勢に思えてくるね」


 正直等外という男がどんな顔や体躯、声をしていたかなど覚えてない。それでもこの程度の推論すらたてられる。

 

「……だからなんなの」

「なにも、人として最低限の節制もない男なのだと、わたしは判じる。それだけ」


 三坂は思案げだった。苦々しい顔をしていた。


「根暗が」

「ワンちゃんに言われたくないね」

「二人とも! もうやめて……」


 金切り声に近かった。

 度し難いとはこのことだろう。先生には心苦しい思いをさせてばかりかもしれない。

 わたしの水筒を差し出せば、勢いよくあおいだ。三坂も口を出すような真似はしなかった。


「はあ、なんで仲ようできないかなあ」

「先生、わたしは好悪で見てないのでなんとも。ですが従順なだけの男ならここにいませんよ」

「そうだけど……」

「音無先生、元浦くんになに言っても仕方ないですよ、分も弁えない厚顔無恥なんですから」


 先生はうつむいて黙ってしまった。

 

「……元浦くん、あんまり言葉を攻撃として使わないでほしい。きみのは、引っ込みがつかなくなるから」

「わかってますよ。先生にはちょっと荷重過ぎましたね」

「ごめんなさい」

「ちょ、なんで音無先生が謝ってんのよ。悪いのはどう考えても元浦くんじゃない」

「わたしを糾弾して、一体なにが欲しいの?」


 干し梅を先生に渡し、三坂の方を見る。

 結局そこにいきつく。わたしに不満をぶつけたいだけなのか、等外に謝罪でもして、もう相良家には近づきませんとでも誓えばいいのか。


「そんなの……も、もう相良さんに近づかない。いえ、相良家には接触しない。それで手打ちにできるわ」


 先生までもが手を止めた。わたしは席を立ち、先生の後ろに立つ。


「ちょっとお耳失礼しますね、先生」

「あ、え」

「首も動かさないで」


 両耳を塞ぎ、ひとしきり落ち着かせた。

 息を吸い込み、深々と吐く。

 三坂を横目にすると、ほおをひきつらせた。


「なめてんのかくそ餓鬼が! てめぇは公正明大な法でももってんのか。等外は絶対正義か? 我慢も理解もなってねえ餓鬼どもの集まりじゃねえかてめぇら。なんでわたしが断ったかわかるか」

「い、いや」

「あの人がわたしとおしゃべりしたいと言ってくれたからだよ。なんで一ミリの関与関心も持ってこないてめぇらの要求をのんで、相良先輩を一方的に遠ざけにゃならんのよ。もう一度いうぞ、てめぇは公正明大な法でももってんのか?」

「だ、だってそれだと等外くんどころか」

「相良家なら別に問題じゃねえよ。そもそも等外である必要性は? あるの? ないでしょ。なによりわたしが相良先輩と関係を持っただけで、お前らがこんなに過敏に反応すること自体が問題だよ。実態も精査せず、ただ等外が不機嫌だから、その原因であるわたしを制裁すればいいってように見えるけど。おい、いってみぃよ。どこにわたしがその要求に応える余地があんだよ!」


 三坂はうつむいて黙り込んだ。先生とは違って、耳でも塞ぎそう。


「いいか。よく考ええよ、くそ餓鬼。蜜月に水差されて怒らんやつがおるか? わたしにとっちゃな、望まれる対話ってのはそれくらい大事なもんなんだよ。また次がある、明日話せばいいや。んな甘っちょろい前提で生きとるお前らとは違うんだよ」

「……相良ひよりにでも惚れてんでしょ、どうせ」

「はん、それこそないな。わたしも相良先輩もおしゃべりしたいという一点で合意してるだけ。わたしの方がそれを限りなく重んじただけ。勘違いすんなや、お子ちゃまが」

「っこの人でなし!」

「ねーこれいつまでじっとしとけばいいのー」


 がばっと先生の目ごと抱きすくめる。


「元浦くん⁉︎ なにしてんの!」

「もう行けや餓鬼。その泣きっ面先生に見せんなや」


 三坂は戸をたたき閉め、走り去った。

 腕を解いて席に戻る。机に突っ伏した。


「どど、どうしたの? なんか心臓ばくばくしてたし、叫んでたみたいだけど」

「……怒んのは疲れますねー。あーやだやだ、だから嫌なのよ。餓鬼を叱るんは」


 その人がどんな顔をして、どんな表情で、どんな感覚を抱いているか、昂れば昂るほど濃く鮮やかに想像できる。リアリティの暴力だ。こんなの。

 対人理解を突き詰めた副作用であれ、欲しくなかったわ。こんなん。


「ねー元浦くん?」

「大丈夫です。トラウマ級の価値観崩壊のショックであれ、回復に時間はかかりませんから……」


 これもただのトレース。三坂が感じたものの予測的共感に過ぎない。疲労はばかにならないけど。

 体を起こして背もたれにあずける。


「なにしてたの、三坂さんもいなくなっちゃってるし」

「先生には聞かせる価値もないキャットファイトですよ」

「ほんとに?」

「ほんとです。聞いてもなんら意味のない応酬でした。ほんっとくだらない」


 先生はまだ言いたいことがあるようだったが、ついぞ口にはしなかった。外を眺め、ぽつりとつぶやく。


「雨だ……」

「ですねえ。ん、なんか先生の顔赤くないですか」


 よく注視すると、雪肌に血が通っているような淡い色づきが見てとれた。ぱっと顔をそらされ、わたしも腰をつける。

 

「なんのことかな」

「追求はしませんが、勘違いしないでくださいね。必要だったからしたんですから。こほん、独り言でした」

「……あんまり、フォローになってないかも。その、心拍まで聞こえるようなこと、されたことないから」


 あーそういう。

 心の中で合唱し、呼吸を整える。


「先生のはじめてを奪ってしまったようで心苦しいですが、将来の良き人と、そんなろまんちっくなこと、できるといいですね」


 あと先生、いくらなんでも、こんなときまで素直に吐露しなくてもいいです。わたしまで小っ恥ずかしくなってくるじゃないですか。

 思わず表情筋を固定しちゃったよ。


「……うん」

「あの、先生? 即答してくれないと安心できないというか。なんの間だったんですか。あれ、わたしなに言ったっけ、適当だったんです。だからなんか言ってくださいよ、先生!」

「元浦くん……もうちょっと女心を勉強しよっか」


 いつになく完成された微笑だった。それだけにつくりもの感が凄まじく、隔たり感じた。

 わたし本当になに言ったんだ。

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