第8話 テスト
男子ということの優待をこれ以上なく感じたことはなかった。この社会は歪んでいる。
平均五十点すこしのテストを折りたたみ、まわりを眺めた。
「八十……九! そんな」
「そっちはまだいいじゃん。私なんて八十二だよ、平均がぱっとしなさすぎよ」
中間テストが終わり、返却されての反応はまちまちであった。
五月も半ば、夏服の生徒も増えてきたこともあり、肌色成分が強くなっている。いつぞや、等外が鼻血を出して朝倉にからかわれていたのが、最近のめぼしい話題だろうか。
クラスの女子たちが第二ボタンまで開け、胸元をあおぐのが日常となりつつある。暑いだけではないのはたしかなようで、朝倉の離席率が高い。
「赤点は六十点と、論説の形式逸脱で何十点か落としたとは言え、どんだけ高く見積もってんのよ。この学校」
なんだかんだ優秀な子女たちが集まる校で、求められるラインも高いそうな。なんてことない顔して高得点を取る奴らが普通の学校である。
点が公開されることがないとは言え、男子の成績に興味津々なことは変わりない。赤点だからと言って気にされなかったのは、男子だからだ。
答案用紙をのぞき込まれて心臓が縮みあがったのはきつかった。
「なにむすっとしてるの、元浦くん」
「なんでもない」
「のぞいたの、怒ってる?」
「少しはね。それで、えっと……」
「水戸よ。何回目のやりとり、これ」
そうそう、水戸さん。今月から隣になった。
猫目で見つめられるとドキッとするが、これと言って関心を持つことも、持たれることもない人だ。
頭の中から必死に引っ張り出せる情報は、解像度が低く、なにかと自分が無関心なのだと実感する。
当の本人はまゆをひそめていた。
「今思い出したところで意味ない。はあ、朝倉くんの隣なら良かったのに」
「正直でよろしい。で、ひまだから話しかけたはいいけど、らしい話題もなくて言葉に詰まる水戸さん」
「人を口下手みたく言わないでよ。さっきはごめんって言いたかっただけ」
頬杖をつき、顔を逸らす水戸さんは、言葉にするだけ素直な方だ。
荷物をまとめて時計を見る。
二時過ぎ、帰ってもやることはひとつ。気晴らしに図書館にでも寄ろうかと思案する。前世と違い、四時まで、五十分授業が詰まっているなんてハードスケジュールでもないのだ、この日本の教育制度は。
ふと鼻歌が耳をかすめた。
「バラード?」
「正解」
「流行ってるの?」
「流行ってるっていうか、この年頃の女子なら大なり小なりはまるんじゃないかな」
またすぐ会話が途切れ、寂寞としたメロディが再開する。あまり聞かない話だけに、気になる。
しかし水戸さんに聞こうと思うほどのものでもなく、教室を出た。
葉緑にまみれた坂道を下り、街道に出る。この街にもまだ舗装されてない道が数多く残っている。道端に雑木林があるなんてめずらしくもない。
和装の方も時折見かける。しっかり着込んだ方ではなく、簡素なはっぴのようなものだが。この和洋が混じり、雑然とした空気が割と好きで足も遅くなる。
特徴的な垂れ柳を見つけ、その店の前で止まる。
カランと音を鳴らし、ガラス張りの扉を押す。中はがらんとしていた。平日の、それも昼だからか、銀行は空いていた。
「三日ぶり、トシさん」
受付にあごをつけ、くたびれた篠原桔梗は今日もひまそうだった。勤続一年にもなろうというのに、制服に着られている感が消えない。
仕方ない、まだ十三だもの。遊びたい盛りなのだ。
「今日ははやく終わってね。通帳の残高更新と、引き出しを頼む」
鞄から判と通帳を出して渡す。
「おや、元浦くん来てたか」
「篠原さん。受付嬢がこんなしおれてると陰気になりますよ」
「そうだねえ、いつも言ってるんだけど」
奥棚から顔を出した老婆、まだ現役と言わんばかりに眼光が鋭く、制服もノリが良い。篠原桔梗を拾った、この支店の店長である。
すたすた歩いてくると、のろまに記帳書をめくる桔梗の尻を引っ叩く。
「ひぃ」
「さっさとやんな! 仕事が少ないからって銀行は大事なとこなんだよ。セキュリティを考えればわかるだろ」
「わ、わかってるから、トシさんの前でたたかないでよぉ」
日銀のこの支店は、桔梗と篠原さんの二人が切り盛りしている。田舎ではワンオペが普通らしい。
「あかりはつけてないんだ」
「夜じゃないんだ。これから暑くなる、冷房に使わないと本部から苦情が来るのよ」
「なんとまあ、世知辛い」
「また一段と輸入全般の規制が強くなってね。東区の火力発電所も封鎖された」
篠原さんはそばにあった紙袋に手を突っ込み、スルメを咥えた。どかっと腰を下ろしたのち、かみちぎる。
見た目ほど怒ってはいない。
後ろでは、桔梗が必死に新しい残高を書き記していた。
「廃水処理の問題もありましたからね。電力会社は治水工事やらで水力発電に移行、このところよく木材を乗せたトラックを見かけるわけです」
「外国産のもんだよ。部分的に受け入れていると。規制と釣り合いを取るためとは言え、木材の水車じゃ何十年持つやら」
「外来種の虫も入る可能性がありますからね。ことは電力問題におさまりません」
二人してため息をつく。
桔梗がもどってきて、腰に手をあてた。
「二人とも辛気臭い。正常に回ってるんならいいじゃない」
小学校を卒業して受付についた桔梗ではわからないのも無理はない。大体の人は生活に余程の支障がなければ気にしないのだ。
判を受け取ってしまう。
「おまえさんにゃわからんよ、あたしらの憂いなんぞ」
「ふん、わからなくたって生きてられるもん。でトシさん、いくら引き出す?」
「二万、今月の国当て充当も変わりないようで安心だよ」
「二万、と。はいこれで」
数印を回し、通帳に押す。そのとき黒くなった指先を手拭いでふき、二枚の万札と一緒に差し出してきた。
「男はいいよねえ、突いてるだけで生きられて」
「これは生活保障みたいなもんだよ。実際、わたしはだれともまぐわってないから最低金額だよ」
「それでもだよ。苦心して働くこっちの身にもなってよ」
「やめなこんばか娘が」
口を尖らせる桔梗を篠原さんがたたく。変わりない日常であった。
図書館に行くの、やめようかな。
本はいつでも読める。しかし特定のだれかと関わり、見たいと思う光景はなかなか貴重だ。どちらかと言えば後者を優先する。
くつくつ笑い、目尻をぬぐう。
「トシさ〜ん?」
「わるいって。そうだね、男もサービス業みたいなもんだから、夢はないと思うよ。年中無休、付き合っている女性に気を配り続けなければならない」
ひじをついて外をみやる。
なんだろ、多重婚のヒモとでも言えば良いのか。とかく休む暇があるとは思えない。感情的に。
篠原さんは口をつぐんで明後日を向いていた。
口出す気はないらしい。
「そんなの普通じゃない」
「桔梗はさ、毎日起きてから寝るまで、笑顔を絶やさず年中働けって言われたら、どう?」
「そりゃ労基にでも訴える。労働はあくまで実働時間と内容の肉体的ないし、精神的負担に応じ、報酬が支払われるのが筋だから」
「だよね。さすが身銭をかせぐだけある」
拍手すれば、ふんと胸を張る。
桔梗は幼くとも働く人だ。そのあたりしっかりしている。篠原さん仕込みでないのだろう、実感のこもりかたが凄まじい。
「でもね、男はさっき言ったことを、国の定期的な支援のもと行わなければならない。制度に飼われるか、背くか。この二択なんだよ」
片眉をあげる桔梗はまだよくわかってないらしい。
篠原さんがため息をついた。
「奴隷か、叛徒かしか選択肢がないってことだよ、ばか娘」
「そうは言っても、なにか不利益があるわけでもないんだろうし」
「まあお金の心配をしなくていいのは、万金にも代え難い価値ではある。その代わり、体も心も売れというだけだから、釣り合いはとれてる」
背けば、関わる人から延々となぜ誰ともまぐわらないのかという視線に晒され、小言の尽きない小市民生活が待ってるだけで。
そこまでいって、はじめて桔梗は口を閉ざした。
「桔梗はわかってると思うけど、男というだけで制度に生かされる。もっと言えば生まれただけで保護されるってのは、本当に幸運なことなんだよ。その対価としては、要求されても仕方ないもの。人によると思うけど」
「こんな猫背で陰気な元浦くんでも、板挟みなんだよ」
そりゃ苦労してなさそうに見えるけどさ、篠原さんなんのために陰気とか言うの?
桔梗も微妙な顔をむけてこないでよ。
嘆息し、手を振る。
「篠原さんは、まったく……でもその通り、釣り合いはとれてるでしょ? 桔梗」
「まあ」
「いっそ元浦くんが貰ってくれたら助かるんだけどねえ」
「お、おばあちゃん⁉︎」
「お断りします。わたし人間関係に割ける余裕がないので。その代わり死ぬまで友人をやるくらいしか」
「はん、十分さね」
「え、ええ⁉︎」
篠原さんが二本目をくわえ、桔梗が固まる。
付き合いは長い。わたしも冷血漢になった覚えはないし、それなりに情もわく。
「元浦くん、この問いみこしとったな」
「わたしにとっても、桔梗は娘みたいなもんですから。天涯孤独にするのは忍びないだけです」
「まるであたしが長生きできん言うとるみたいじゃない」
「いつ人が死ぬかわからないんですから当然です」
ほめられた所作ではないが、カウンターに乗り上がり、桔梗を手招きする。篠原さんには見咎められたが、おずおず近寄ってきた。
「と、トシさん? さっきの言葉って」
「ほら、ぎゅーだよ。好きだったでしょ」
腕を広げれば、顔を真っ赤にして声を張り上げた。
「五歳の頃の話! もう子供じゃないもん!」
「そう? わたしは好きだったけど」
「とぼけんのがうまいなあ、まったくこの男は」
「篠原さんこそ、そで掴まれて足遅くしてたくせに」
えっという顔をした桔梗を抱きすくめ、肩口で切り揃えられた頭を撫でる。枝毛が多く、手入れはほとんどしてない。櫛入れがせいぜいだろう。
「余計なこと言うんじゃないよ!」
「あーあー聞こえませーんー」
背中をたたいて離れる。こぶしを握ったりひらいたり、桔梗は余韻にでも浸ってるのだろうか。慮るのも憚られる、乙女の心境というやつなのかもしれない。
わたしを捉える瞳からは、理解しがたいものがあった。
「トシさん……」
「髪くらいは手入れしてもいいと思うよ」
「チッ、もう行け小僧。客だ」
ガラス張りの向こうには、見慣れた制服姿があった。
女生徒、ここじゃあったことないけど。ガラスへの照りで微妙に顔は見えない。それよりどうして入り口で立ち止まっているのか不可解であった。
カウンターから降りて荷物を肩にかける。
「トシさん、また」
「ん、篠原さんもちゃんと桔梗の面倒みといてくださいね。ボケたらわたしが引き取ることになるんですから」
「ちゃかしい、さっさと行きな!」
胸元でこぶしを握る桔梗と、塩でも撒きそうな篠原さんに手を振って歩き出す。女性徒の顔があらわになる。
姿勢からして綺麗だったが、目を丸くして凝視されると、さすがに反応しないわけにもいかない。
「あの」
「元浦くん、ですよね」
「はい」
「えっと、相良ひよりです。一ヶ月ほど前にお話させてもらった」
「……ああ! あのときの。いやはやこれは失礼」
ぺこぺこ頭を下げてしまう。そうすべきだと脊髄が判断するのだ。
相良ひより、たしか相良まいの姉だったかな。長いことここを利用してるけど、やっぱり見覚えはないし、道端で見つかったから足を止めたくらいかな。
涼やかな首元にシワのない夏服。眩しいまである。
「えと、いまは堅苦しく離さなくても大丈夫ですよ?」
「はは、なんというか自分よりも余裕のある人に対しては自然と敬語になってしまうんですよ。相良さんはこちらに用事が?」
首をかいてガラスに背を預ける。入り口の邪魔にならないよう少し離れたところであった。
「いえ、帰るところに偶然元浦くんを見かけて。でも意外だったなあ、女の子と親しげにしてるところなんて」
「昔馴染みですよ。相良先輩こそ今日は雰囲気が柔らかくて話しやすい。なにか良いことでも」
気の抜けた昼下がりということもあるのだろう。しかしその程度で、目の前の先輩が休日の女子のような肩の力を抜いた、そんな空気をかもすはずがない。
前回の隙のなさが焼きついている身としては、疑わしかった。
「そう構えないでいいよ。待ちに待った小説の新刊を買えただけだから」
手提げをかかげて見せてくれる。
それなら、まあ。納得しないでもなかった。
寄りそうになった眉を解く。
「さいですか」
本屋は近い。登下校の道すがらとあれば、登校路から外れたこの辺りで会うのも辻褄が合う。
疑問も解消されたことだ、帰ろうと足を伸ばす。そこで顔色を変えた相良先輩に引き止められる。
「ちょっとおしゃべりしない?」
「おしゃべりで済むなら、わたしも考えます」
「もう、警戒しすぎだって」
「軟化政策みたいで気が抜けないんですよ。聞きましたよ、相良先輩のお家、外交官らしいじゃないですか」
驚いたような反応はなかった。ただ歩み寄られ、近く感じる。拒絶する気が削がれていくので、はやく立ち去りたかった。
この手の人は苦手だ。
「まあ、知ってくれてたんだ」
「……ええ、人伝てですが」
「じゃあ邪険にする理由はないね。この後の予定があるようには見えなかったし」
街明かりの下で相対したときとは違った趣があり、ぐいぐいと退路を絶たれている気がする。
実際、拒む理由をなきものにされ、その意気も距離の近さで削いでいく。とても上手い人だ。
会長とは毛色の違う圧迫感があった。華奢で楚々とした外見からは絶対に結びつかないであろう印象だが、たしかだ。
「わかりました。どこに付き合えばよろしいので?」
「なんか硬いなあ。おいおい治していけばいっか。私の家に来て、そこらの茶屋よりは落ち着いてるから」
思わず黙してしまう。
微妙な言い方だった。実際気を抜いて話したいともとれるし、本当に茶屋より接待がスムーズともとれる。つながりをつくりたいと言われるほど注目されているわけではない。
それ以上に深い意図はないのかもしれない。身についた接し方がそう見えるだけで。
じっと双眸を見つめ返すが、微かに微笑む目元からはわからない。
「やっぱり緊張するかな」
「いえ、異論はありません。きっと趣のあるお宅なのでしょうね」
「うん。琴もあるし、庭先を眺めながらお茶を飲むのも一興だと思うよ」
断ってもきっと茶屋に連れて行かれる。これは釣れれば良いくらいの感覚なのだろうか。
かぶりを振って考え直す。
またうがち過ぎた。もっとシンプルでいいんじゃないか。
「先導はお願いします」
「まかされた!」
トンと胸を叩くも、空々しく思ってしまうのはわたしの疑いすぎだろうか。
足を返す刹那、その横顔にふと思う。
曲線美のある端正だ。どうしてこうあの校には美形が多いのやら。
ステップを踏み、前をゆく相良先輩の心持ちは然として知れない。
「そういえば、なんでわたしのこと覚えてたんですか?」
「有名だから。身に覚えない?」
「ありません、目立った行動をしたわけでもないはずです。その証拠にじろじろ見られることすら少ないんですから」
相良先輩の言葉は半ば合っていて、間違ってるのだろう。きっと自覚なさってる上で言ったな。あくどいことこの上ない。
案の定気に障った様子もなく、流し目をむけてくるだけだった。
「そうだね、私たちのコミュニティじゃって意味。まいも愚痴をよく言ってるから、当然だけど」
「クラスメイトならそのくらいありますよね。等外くんの付き人みたいですし……」
そんな男子一人に加担していながら、なぜわたしに関わるのか。
これは紛れもなくルール違反なのだ。
あの校では際限なく男子にちょっかいかけるのは禁止する、という暗黙の了解がある。だからこそ女子個人はは唯一の男に忠を尽くす。それが信頼関係を生み、より長くより多くの子を産む余地をつくりだせるから。
相良家の“母”担当は相良まいのはず。姉である先輩の行為は危険とも言えた。
「んー、そこら辺は気にしなくてもいいかな」
「なぜですか。あなたどころか、家の信頼が地に落ちますよ」
「もともと等外くんに注目してたのはあるけど、あの子野心が強いというか。わが家には合ってないのよ」
だからといって絶縁したわけでもなく、今もなお良好な様子のあの二人のことを無視しているわけでもないだろう。
街路から外れ、側溝に澄んだ水の流れる石道に入った。ちらと見たことのある程度の道で、お偉方の住宅街らしいこと以外、なにも知らない。
「まいには悪いけどね」
「止めないところ、まだ代替の男が見つかってないだけでしょうに」
「違いない。けど元浦くんとは関係ないから安心して。実のところ、ほんとにおしゃべりしたかっただけだから」
「気長に疑いますよ」
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