第7話 良張という人
音無先生、藍にわたしと続いて二人で机を囲む。やはり物置室の広さに対して窮屈だ。
はやくも断念したことを後悔しそうだった。
「先生、隠し立てても無駄です。いっそ堂々とのむほうが粋ですよ」
「やっぱりそうよね。今日は仮にも休日だし、なんの問題もないよね」
この状況に口を出さないところ、あまり関与する気はないらしい。自分の生徒がバチバチやってるのに、わかってるのかこの担任。
いやこの顔だめかもしれない。完全に上気してる。
「音無先生は酒乱、と」
「会長、譲歩したのはこちらです。この中で起こることは口外厳禁ですよ。もし破れば、お分かりでしょう? 口の軽さは信頼を失いかねないものですから」
「元浦くんは冗談が好きだねえ。わかってるから、つどつど脅さないでよー」
「良張さん、煎じ薬です」
「ありがと、藍ちゃん……」
わたしが会長を抑え、藍が良張先輩の看病をする。そんな奇妙な状況になってしまった。
良張先輩、おいたわしや。この前の能天気な馬鹿さ加減がほしいというのに。
「御用がおありのよう、でもないのでしょう。こんなつまらない男に酔狂な戯れですね、会長」
「まあそう邪険にしないでよ。ただおしゃべりしたかっただけだから」
「兄さん、そこの弁当箱はもう片付けて。鳥羽さん、あまり兄をいじめてもらっては困ります。あなたの貴重な時間は、なんの益もない兄についやされてよろしいものではないでしょう」
鳥羽会長は鼻を鳴らした。
わたしは道具をまとめて風呂敷に包み、その様子をながめた。
「藍ちゃん、必ずしも益は共通のものじゃないの。楽しいってだけで価値あることもあるのよ」
会長、藍が言ってるのは人脈としての益ですよ。ここで感情に傾きを置く時点でかなり、減点されてそう。
こわやこわや、我が妹は怖い人だ。
「なるほど、たしかに一理あります」
「でしょー」
「良張先輩、藍と席をかわってください。この二人に挟まれてるとまた気持ち悪くなりますよ」
すかさず藍が動く。手をとって立たせ、するりと入れ替わる。どこでそんな流麗な所作を覚えてきたのよ。
わたし見たことないよ。
「あ、藍ちゃん。ありがとう」
「いえ、私もそうした方が良いと思ってましたから。お気になさらず、良張さん……」
「ひっ」
「藍、顔怖いよ」
「失敬な、わたしは極めて自然な笑みを浮かべていたはず」
頬を膨らませる藍とは対照的に、そろそろ良張先輩は限界のようだった。
肩を叩いてこちらをむかせる。
「やはりここは人が多すぎます。ちょっと外に出ましょうか、先輩」
「うん」
「会長も、戯れもほどほどにしないと部下に逃げられますよ。いや、恐怖は目を曇らせると言います。背中を刺されないようがんばってください」
「ちょ、それはいくらなんでも」
会長が腰を浮かせるが、藍がブーツで床板を叩いて止める。
先生まで一瞬目を丸くしたぞ。でもだめだこの大人、使い物にならない。今後この人に呑ませるのは控えよ。
「鳥羽さん、道義を忘れないでいただきたい」
藍が低い声音で一喝する。杖でもあれば威厳があったことだろう。
ああやだやだ、先輩、怪物たちから逃げますよ。
「じゃあ、追ってきたりしないでくださいね。藍もだよ」
「っわかったわ」
「了解、任せて」
背を向ける藍の返事に、安心して戸を閉めた。
廊下の窓を開けて伸びをする。校内には誰もいない。良張先輩は壁に背をつけ、へたり込んでいた。
「う〜ん、いい天気ですねー」
「はあ、ごめんね。お邪魔になっちゃって」
「気にしないでください」
「敬語を使われるような人じゃないよ、私は」
膝を抱え、つぶやいた。
「じゃあ崩すとしましょうか。わたしもそろそろ舌が疲れてきたので」
遠のいた人の声に耳を澄ませ、じっと春風をまつ。小山の頂上に立つ校舎は、どこの窓からでも街を見渡せる。
景色はいい。なにも考えず、ぼんやりとしていられる。
「元浦くんは、やっぱり変だね」
「声色がもどりつつあるようで」
「はぐらかさないでよ」
「……わたしなんてどこにでもいる男。見境なく女を見繕うのだー」
「てきとうね。ばかみたい」
薄く笑う良張先輩は、思った以上に消耗していたのだと思われた。
窓に寄りかかって手を組む。
反省だな。
「先輩こそ、あの手の圧には過敏なくせして、まともに避難することさえできてない。お子さまだ」
「とばっちと舌戦するのが楽みたいなきみたちとは違うのよ。私、そこまで賢しくない」
「賢いからあの人が身の回りに置くとは思えない。単に賢い、気が回るだけならそこら辺の才女に粉をかけるでしょ。でも、先輩は望んでそうしてるように見える。なら恐れるばかりじゃいけない」
わかってる。
良張先輩は拗ねてうつむいた。
幼なげな反応、様につい苦笑してしまった。
「わかってるけどさ、わかってるんだけど……とばっちに私を認めさせる。そんな方法が浮かばないの」
「一人の人として認めてもらいたい、のかな?」
「恩義があるの。なによりあの曲がった性根を許せない」
たしかに、愉快犯的なところがあるけど、多分そこじゃない。無自覚な上位者然としたところが、気に入らないのかもしれない。
良張先輩ははじめ快活な印象を覚えた。それが他人の目という形であれ、鳥羽会長との釣り合いをとりたかったというものであれば、納得がいく。
「人の話は聞かないし、そのくせ自分は語りたがる。正しいこと言ってるようで、結局自分の思い通りにしたいだけ。そんな人、社会に出したくない」
「社交には忙しないようだけど」
「とばっちのためにもならないって言ってるの。真持たざるは偽なり、偽すなわち空なり。空、実が現われんとき報をもって崩れん……我が家の偉い家訓よ」
意味わからんけど、なんなく的をいてる気がする。
「暗示?」
「まあそんなとこ」
「わたしにゃ家のなんたらはわからん。誇りも伝統もない、個々人が好き勝手やってるのによく家庭崩壊しないと思う」
良張先輩は意外そうだった。
「一般家庭なのよね」
「父は無論女好き、母たちはわたしら子供を顧みないごく普通の家。ただ姉が野良の政治学者だったり、妹がやたら上品なだけ」
「元浦くん自身は、本場のお偉方に負けないくらい胆力があると思うけど。男の子なのにじろじろ見てこないし、掴みどころがない」
そう見えるのか。
前世では関心を持たれることすら数えるほどであった。それに比べれば一歩、真人間として前進できているのかもしれない。
まあ今世もかわりなく、フリーターに落ち着きそうだけど。
「先輩方は、見る人がみれば魅力的なんでしょうね」
「……一般的には男受けの良い容姿だと思うけど、元浦くんに言われると自分の常識を疑いたくなってくる」
「あの藍をして、わたしは美的感覚が死んでると。別に顔が整ってるかくらいはわかるのに」
良張先輩は口をゆがめて引いた。
なんだその顔は。わたしは困ってないというのに。
「元浦くんもアレだね、大概だよ」
「猫の毛並みの良し悪しを見分けるのは得意!」
「なんの実利にもつながらなさそうだけど……」
「それでいい。“美”は極論あまりもの。必要かと言われたらあったらいいねっくらいのもの」
目の見えないものに顔の美醜を問うだけ無駄。耳の聞こえないものに美声を問うだけ愚問。
生活する上で、あまり意識するほどのことでもないと思うけれど、人は違うらしい。
「先輩、もしお慕いする方がいるのなら。匂わせからのタッチだよ」
「元浦くん?」
「肉体性と言って、相手の実在をもっとも強く実感させるためには、肉体接触が一番なの。異性を想起させるためには相手の想像力に頼ってちゃダメ、自分と違う体の質感を、自ら触れて意識させるの!」
「元浦くん⁉︎ ごめん、トラウマに触れたなら謝るから元に戻って!」
肩を掴まれてはっとする。
藍の美談義は嫌だ、藍の美談義は嫌だ。
いつからかハニートラップの手法じみてきた教授には戦慄した。小6の子供がどこでそんな知識を覚えてくるのか心配になったものだ。
「も、申し訳ない。美が頭をよぎると、藍の授業が……」
「藍ちゃんいろんなこと知ってそうだもんね、気になるかも」
「だめだ!」
ビクッと視界の端で飛び上がる良張先輩。しかしだめだ、悪女が二人になりかねない。
膝を折って良張先輩の肩を掴む。
「先輩、わたしは少しずつ女性というものを信じられなくなった。一時期は目を合わせるのも怖いほど……わかるよね?」
「う、うん」
「なんで自分より幼い子供が帝王学とか異性の心理についてべらべら話せるかなんて、考えちゃダメ。藍は、アレはそういうものだから」
「わ、わかったからさ、落ち着いて」
肩に食い込むほどの力は込めていなかった。こんなところでも藍の教育が発揮されてる。残り香みたいで嫌だなあ。
ほっと息をついて立つ。窓に手をつき、遠くを見る。
「先輩はまだ笑える耳年増くらいにおさまっててね。妹が自分より大人な話してると、途端に自分が年取ってるみたいで……」
「ねえ、元浦くん」
「はい」
「もしかして演技してる?」
ストンと、表情筋が落ちるのがわかった。噴き出ていた汗も急激に冷えていく。
体を向けて目を合わせた。良張先輩は明らかに強張った。
「疑念を持たれるとはわたしもまだまだですね。理由をお聞きしても」
「ほ、ほんとに演技だったの?」
「はい、具体的には物置室を出てから。嘘は言ってませんが」
「じゃ、じゃあ慰めてくれたのも」
「はい、もちろん先輩を快方に持っていくためです。安心してください、本当に嘘偽りなくすべて言葉は真実、わたしが思っていたことです。ちょっと態度や仕草を変えていただけですよ」
それよりなぜバレたのか。
首を傾げてしまう。良張先輩は絶句して固まっていた。
「……目が、揺れなかった。ほんの少しだけ、からかうつもりで」
「ああ、目ですか。わかる人がいないのでお粗末にしてましたね。これは油断しちゃったなあ」
「っなんで!」
なんで、と問われても。
ほおに手を添え、少し考える。
「まず第一に、先輩のストレスの緩和。そのためには緩んだ空気を演出した方が合理的であったから。第二に、認識の相違です。先輩、わたしはあくまで態度をつくってただけです。人と話すのは楽しいんですけどね、舞い上がると疲れちゃいますから、もっとも伝わる方法であり、省エネも兼ねているといったところです」
そらんじて良張先輩に目を戻せば、床に手をついていた。
「いっつも、こんなんばっか……!」
「先輩? わたしはあくまで人としてあなたを見ていますよ。ご不快になられる要素はないはずです」
「その機械じみた物言いをやめて。人って言っても、きみからしたらサル目ヒト科人間じゃん!」
「当然では? 人間は動物ですよ」
「だまれ! その口で語るな」
「わかりました」
なぜ、いやどの割合で泣いているのかわからない。なによりこの程度の期待の裏切り、日常茶飯事なのではなかったのか。
ちょっと高く見積りすぎたかな。先輩、手前勝手ながら、失望の情のほど許してくださいね。
「なんでなにも言わないのよ」
「先輩の望む口は持ち合わせてないですから。先輩、わたしに個人として見なされたいなら、自らの正しさをつくりあげてください。規範の正義に興味はありません。正しさの根拠を自分に持ったとき、初めて個人となるんです」
それまでは衆愚の細胞でしかない。
良張先輩は俯いたまま答えなかった。触れるのも憚られ、しゃがんで待つしかない。
「うそつき……」
「はい、先輩の期待を裏切ったという意味では嘘になりえます」
「口だけの男」
「はい、嘘偽りなく本音を語る点では口だけと認識できます」
吐露、だろうか。ならばストレスも緩和されているとして判断できる……はあ、いつからこんな血の通わないことばかり考えるようになってしまったのやら。
良張先輩はへたり込んで、目を伏せた。
「そりゃ、ちょっと期待しちゃったのはあるけど。男の子と二人きりで、他愛ない話をできるとか。だけどさ!」
小鳥がそばの木で鳴く。うぐいすだった。
「応えてくれてもよかったじゃん」
積青の空から顔を下ろし、じっと痴態を眺める。
「理由がありません。個人的に、わたしはなんの感情も良張先輩には抱いてませんから」
立ち上がって窓を閉める。桜の花弁が一枚、隙間から入り込んだ。
ひらひら舞ったそれは、良張先輩のスカートの上にとまった。
「元浦くんは、拒絶される側の気持ちとかわからないんだ」
手のひらの上の、淡い桜色のそれを見つめる良張先輩。さらり、編み込みが肩から垂れた。
「……拒絶に至るまでの関わりがあることの方が少ないですからね」
「え」
「先輩、勘違いしないでください。拒絶したのはあなたです。わたしはわたしの原理通りに動いただけ。わたしは一言もあなたを個人として認めたことはないし、そのつもりもない。あなたが忌避した時、はじめて関わりは本当に断たれるんです」
正直、だれかを好ましいとか嫌いとか思ったことは少ない。明確にともなると、もっと。
良張先輩は感情のままに動いてるだけ。そこに理知もないし心の芯もない。わたしが価値あると認められる類のものは、なにひとつ持っていない。
せいぜい人的資源としての能力くらいだ。
良張先輩はうなだれた。花弁も、握りつぶされていた。
「……もういい。元浦くんもそうなんだ。気にしても仕方ない」
「回復されたようでなによりです」
「そっか、そうだね」
スカートをはたき、一段沈んだ声音の良張先輩は目すら合わせてくれない。わたしを無視してきた人と似ている。
「ごめん、迷惑だったよね」
「いえ、慣れていますから」
「はは、そっか。こんなことが」
しばらくして、だんだん良張先輩の目が見開いていく。
「ちょ、ちょっと待って。なんでわざわざわたしになんの感情も抱いてないなんて言ったの?」
「……失礼ながら、わたしも期待してしまったからです。今、あなたに感情を抱くだけの個人性はない。ですがその兆しがないとは思えなかった」
良張先輩はよろめき、窓際をささえにする。
「なにそれ、わたしの一人相撲だったってこと?」
ぐしゃりと顔を歪ませ、わたしを睨みつけてきた。
「言ってよ!」
「気づかなければそれも良しとみなしました。その程度の言語感覚で、鳥羽会長と対等になるなどとほざくなら、放っておくつもりで」
鳥羽会長は口が上手い。個人どうこうではなく、そういう現象とみなす方が適切だ。会話は成り立ってるようで、利得の均衡しか見てないし、どこまでも話はすり抜ける。
良張先輩はそんな怪物と対等になりたいと言った。
お堅い話にも意義を見出す、数少ない現代人だ。切るには惜しい。
「くっ、わたしの願望を汲んだってこと」
「はい。これは先輩が望まれた結果であり、契機です。演技自体、見破られるとは思っていませんでしたから、急遽言葉遊びに付き合ってもらうことにしました」
人間は自分本位な生き物だ。他人のことをよくてる人間なんてそうそういない。普段から注意深く他人のことを観察していた良張先輩のことを、わたしは侮っていた。
後ろ手に組んだ手首を絞める。
「この行き場のない怒りも、理解してるのよね」
「それを吐くならほんとに失望しますよ」
「……わかってる」
「感謝します。それと」
ため息をついて肩を揉む。
「あしざまに言われてわたしがなにも思わないと、都合よく解釈しないでくださいね。これでも内心いらついたりもしますから」
見やれば、目を泳がせて腕をかばう。
途端に小さく思えてしまうのは、こういうところがあるからだ。
「ご、ごめん」
「先輩、わたしは貶められればいらつきますし、大事なものを奪われたら、復讐も検討します。いたって常識的な感性で生きてるんです。言葉にしないだけで、なんでも受け入れると思わないでください」
良張先輩は浮かない顔をしていた。得心しきれないところがあるのかもしれない。
「先輩、わたしはあなたになんの期待もしていない。だから、わたしの前で取り繕ったり、嫌われるかもしれないだなんて、感じる必要もないんです。いまはそれが楽でしょう。わたしは拒みませんよ、先輩次第です」
「うん……」
「もどりましょうか」
並んで歩き出す。噛み締めるようにゆっくりした歩調で、わたしは移り変わる外景を眺めた。
茶色が点在し、時折コンクリ性の建造物が目立つ街並み。二十世紀半ばの日本にいるようで、ときどき場違いに思えてくる。
「なんできみは揺れないのかな」
「さあ、先輩みたいに人を信じることができないからでは。その点では、わたしに言葉をぶつけてきてくれたこと、ほんの少し嬉しかったですよ」
「そっか、かわいそうだね」
「あなたこそ、幸せなようで」
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