第6話 サクラサク
四月も半ば、温暖化が間接的にとはいえ緩和されている時代からして、この桜吹雪は真の春景色と言えた。
見上げれば心も舞い上がったことだろうが、残念なことに木本は人で溢れている。
わたしと藍、音無先生は見晴らしのいい三階の物置室を借り受けていた。
「掃除はしておいた」
「居残り、他先生方にまで邪推されて得たものは大きいですね」
固い握手を交わし、初顔を紹介する。
「この子が妹の藍です」
一歩踏み出し、礼をする。藍はそれだけで品が良く、お嬢様だとよく勘違いされる。静かで一定の歩幅、軽く引いた顎、ともすれば意思薄弱にも思える眠気まなこ、どこにそんな素質があるのかこっちが知りたいくらいである。
先生も例外ではないようで、ピンと背を伸ばされていた。
「音無先生と呼んでください。下の名前は」
「真央、ですよね先生」
笑いを混ぜて差し込む。
硬くなりすぎだ。そんなお偉方の縁者ではないのだ、わたしたちは。
その意図は伝わったようで、藍が肩を震わせることで目を引かれた。
「ああいえ、申し訳ありません。兄がいつもお世話になっております。元浦藍です、音無せんせい」
スッと手を差し出すあたりが小慣れている。先生は最後の言葉足らずな発音が微笑ましいらしく、自然に握手する。
先生……多分それ藍のわざとです。
口には出さず、持ってきた布袋をテーブルに置く。
「で、先生。用意は」
「ふっ、この時のために漬け込んでおいたと言っても過言ではない梅酒」
「なんてもの持ち込んでんですか。わたしが言ったのは料理ですよ。そこの大きくて段になってるであろう袋です。先生、アレルギーはないと言ってましたよね」
最終確認だ。そこまで心配する必要もないと思うが、食中毒の死亡率は前世に比べて非常に高い。
警戒にこしたことはないのだ。
先生は案の定楽観的だった。
窓際にテーブルを寄せ、三人で囲む。
「ない、と思うけどさすがに食べたことないものにはよくわからない」
「鉄アレルギーとかあるくらいですからね、そこらへん珍妙な素材なんて外しましたよ。根も張りますし、春に合う美味というわけでもない」
「兄さんの担任はお茶目なところがあるんですね」
空気もほぐれたところで窓を開ける。かんぬきを掴む指使いひとつ見ても、藍はしなやかで、先生は淡白だ。
いやむしろ、そう感じさせる藍の方がおかしいのだ。
先生は気にもとめないようだが。見る人が見れば顔を引き攣らせること間違いない。うちは良家でもなんでもないのに。
気にしても仕方ないと体を戻して風呂敷をほどく。
「藍、詰め込みは朝方よね」
「うん、それまでは具材を分けて冷蔵してた」
「あれ? 元浦くんが調理したんじゃないの?」
「わたしはおかず担当です。タコ飯とか、最後の仕上げは藍がやってます」
汁が他のものに染みるとかは避けないとだから、漬物や惣菜は極力分けた。
段の木箱を並べる。
タコ飯一色のものがあれば、薄揚げの魚やポテトチップに染まるもの、種類の違う漬物や野菜を詰めたもの。
もとより大人数で食べる前提なので、一箱に詰めようなどと考えなくて済む。
「あ、揚げ芋」
先生がつぶやく。
ジャガイモは戦時より大量生産されるようになったが、食用油が高価でちょっと贅沢なものとして知られる。それゆえだろうか、会食の場であればまっさきになくなるらしい。
陽一郎がつまみ食いついでに話していた。
「まあ、私も負けてないけど」
「せんせいは表情豊かですね」
微笑を絶やさない藍の指摘に、先生は照れくさそうに風呂敷に手をかける。
「藍ちゃんこそ、これだけ大量のもの仕分けるの大変だったでしょ?」
「ええ、ですが祖母と一緒だったので」
「じいちゃんが起き抜けにつまみ食いしよいとしてキッチンからはたきだされるまでがセットですよ、先生。そんな高貴なもんじゃないです」
はらはらしながら注釈を入れる。だめだ、藍だけだと我が家が屋敷だと思われてしまう。
その証拠に困惑が隠せてませんよ、先生。
「そ、そうなの」
その箱はわたしたちのものより一回り小さかった。装飾らしいものがないのが揃っているが、だからこそ木材の質がよく出ている。
ヒノキの防腐仕様であった。
「年季はそこそこ、でもいい仕事してますね。その弁当」
「あーこれ、母代からのものだから。何年? 三十年は固いかな」
「ほう、防腐剤や洗剤の化学物質をあつかう第三次産業は三十年らい収縮気味ですからね」
「藍、そこもだけど、造りに注目してあげなよ。わざわざ水分の浸透を抑えるように独特の組み方してるじゃん」
二人して感嘆する。
手作りだ、粗削りではあるものの壊れないようにという執念が垣間見える出来である。
「二人とも料理そっちのけ……」
「こほん、失礼しました」
咳払いすれば、藍も目を閉じて軽く頭を下げる。
「嫁入り道具にしてはやや……しかしどなたかの贈り物でしょうか。市販ではあまり見ない一点ものですから」
木材は高価だ、元からして何十年もかけ育樹しないといけないのもあるが、なにより日本は面積の面でそうならざるを得ない。
「あまり考えたことはなかったけど、嫁入り道具とは別に、贈り物としての習慣はあるね。うちは種入りだから父親いないけど」
「そうですか……」
よも不思議なことだ。
しかし先生、種入りとはまた生々しい。私的な場なので控えて欲しいのだけど。
眉をひそめているのがわかったのだろう、口元をおさえて苦笑なさっていた。
「野菜炒めに、牛肉の煮込み丼ですか」
「牛肉とはまた、かなり奮発されたのでは、先生」
「旧友の貿易商経由でね。さすがに八割切るのは難しかったけど」
「約五百グラム、肉屋なら五千円は取れますね」
「輸入制限が厳しいから値上がり上等だよ、藍」
声をかけると、別途の鞄から箸と水筒、木皿を取り出してくれる。その間に箱の配置を決めて移動させた。
「「「いただきます」」」
食中は皆無言だった。なかなか味わえないものばかりというのもあるが、わたしと藍は作法として。
先生は、藍の食べ方に緊張してしまっている。
見てくれは上品だが、我が家は一般家庭である。なるべく忘れないでほしい。
見上げる桜の方が風情がある。今更ながら後悔しているかもしれない。
それでも飯はうまいし、それに越したことはないのだが。
ひとしきりしたころ、音無先生がとっくりと水筒を取り出した。
「あまり呑んで悪酔いなんてやめてくださいよ?」
「これくらい大丈夫よ〜」
「教師の酔いは生徒の肴というそうです。ごゆるりと」
水筒を傾ける手が震えた。
藍の微笑に怖気付いたらしい。
「ちょ、怖いこと言わないでよ藍ちゃん」
「ならば脇を引き締めることですよ、音無先生。藍の忠言はたいがい当たりますから」
わたしも水筒をあおる。藍は腹八分といったところか、椅子をひいて風当たりの良いところに陣取っていた。
先生はちびちび呑み始める。
「にしても、家族連れでしょうか。人が多いですね」
「兄さん、多分あれが家族ぐるみのはじまりというやつ」
「なるほど、露骨……」
縦割り対策かな。担当省庁が別れても密に関係を築けるよう、こんな早くから。
なんというか大変そう。
「わたしなら二、三人顔を覚えるだけで精一杯かも」
「元浦くんはもうちょい自分から関わりに行ってもいい気がするんだけどねえ」
「あいにく、うちのクラスは朝倉派か等外派で二分してるので、パイの奪い合いとみなされます。その手の敵対視は面倒なので」
「そう……」
目を逸らしてくいっと呑む。
音無先生の理想は、先生が思うより難しいであろう。先生だからこそ生徒の心というやつを信じたいのかもしれないが、わたしが動く理由にはならない。
全員の顔を覚え終わったらしい、藍がこちらに顔を向けてきた。
「音無せんせい、酔いの口の冗談だったと、覚えておきます。その浅い提案のほど、再考することをおすすめします」
「藍ちゃん」
「失礼しました、先生。藍に攻撃の意はありません」
先生はほろ酔いが冷めそうになって顔をしかめたが、わたしの言葉でふたたびとっくりに口をつける。
返答はなし、十分穏やかなほうだ。
藍に目配せすると、小さく息をついて眼力を解いた。
鞄から二冊、本を出して片方藍に渡す。
「あなたたちほんとに静かねえ」
「物事を考えるのにも時間を使います。わたしは四六時中そうだとして」
藍が顔を上げる。背中まで広がる艶髪が脈打った。
「私は、おしゃべりする相手の方が気後れしてしまい……」
「ということです。気苦労のない読み物は貴重な気休めなんですよ」
「は、はあ」
「納得されてませんね。まあいいです」
先生の水筒を手にとり、とっくりに注ぐ。
「あ、ありがとう」
「いえ、気にしないでください。なんとなくですから」
本を置いた。両手が手すきになった。ちょうど良い位置に先生の水筒があり、またまたちょうどよくとっくりが空だった。
本当にそれだけ。
だから謎に目を向けてこなくていいのよ、藍。わからないのが一番怖いから。
すまし顔で冷えたタコ飯をついばむ。
それからは誰も口を開かなかった。風が出てきたときは三人で窓際に寄り、風情を語らったりした。
そんな折、引き戸が開いた。
「あ、いた」
「良張先輩……どのようなご用件で」
席を立って眼前まで歩み寄る。近すぎただろうか、若干体が強張ってる印象があり、一歩引く。
玉櫛の髪飾りがしゃなりと揺れ、光沢が際立つ。
「うん、ごめんね。いいところに。とばっち……こほん、鳥羽会長に君を探すよう言われてね」
「それはそれは、ご苦労様でした。さ、報告しに戻られては」
「あら、頃よく締めて空き室になったところに到着させる。そんな意地悪な未来が見えたわね」
ひょっこり横から顔を出す鳥羽先輩がいた。なぜだか少し満足げだ。
「邪推が過ぎますよ、先輩。そんなことは不幸なすれ違いです」
「起こさないと言わないところ、そうなってたでしょ」
「滅相もない。意思表示は済ませてありましたし、問題にもならないでしょう」
挟まれた良張先輩の顔色は悪かった。
「おや、良張先輩。気分がすぐれないようで」
「え、まあうん。ちょっとこのサンドイッチはつらいかなあって。ほら、ね?」
「はい! では鳥羽会長、良張先輩をお送りしてください。上司のつとめですよ」
「先輩に指図するだけの度胸はあるのねー、元浦くん。だいじょうぶよ、いい空気吸ってれば勝手に治るから」
良張先輩の背中をさすりながらニコニコ言ってくる。
口の減らない先輩だ。
ちらと後ろを見やると、先生がとっくりを隠していた。藍は、読書に夢中のようだ。
むきなおって笑う。
「そうですか、原因をご存知ならこの事態も想定していたと。はあ、鳥羽会長は人を体調不良にしても心が痛まないのですね」
「あ、あの元浦くん? わたしのことは気にしないで……ヒッ」
「良張さん、あちらの空き椅子がある。良いよね?」
「ええもちろん、それが適正ならば。わたくしどもも退出する次第です」
カタカタ震えだす良張先輩。
どうしたんだろ、寒いのかな。ああ、肩に手を置かれて怖いのですね、おかわいそうに。会長は魔王なのかもしれません。
「いやいや、間借りするだけ。邪魔はしないとも」
「こちらこそ病人の気に触るものがないとも言えません。お構いなく」
「兄さん、それ以上は頭を痛めかねない。諦めた方がいい」
本を閉じ、腰を上げる藍。制服のすそをはたきつつ隣に並ぶ。
紛うことなき鉄仮面である。わたしを労る含意もあったろうが、わたしたちの話がうっとうしいのだろう。
「元浦藍です。お見知りおきを」
「鳥羽ニア、こっちが良張琴。お兄さんとはついこないだ会ったばかりなの。ともどもよろしくね」
「はい、こちらこそ」
軽く頷いてわたしに体を向けてきた。
明らかな形だけの紹介だった。いっそ無視にも似た失礼さを感じないでもないが、鳥羽会長にはわからないらしい。とくに気に障った様子はない。
「兄さん、迂遠な会話は無駄にお腹を空かせるだけ。頃合いを見て餌をぶら下げれば、勝手に離れるんだから」
「あれ? いま動物扱いされた?」
「鳥羽さん、と呼ばせてもらいましょうか。今兄と話してるので口を挟まないでいただきたい」
「あ、はい。ごめんなさい」
小柄でぱっとしない眠けまなこがデフォの藍でも、会長みたいな人を言外に制圧できるだけの強制力があるらしい。
困ったことになった。
「そんなめんどくさそうな顔をしてもだめ、兄さん」
「あのね、兄さん兄さん連呼して、なにかの嫌がらせ?」
「誰に語りかけてるか明確にしておかないと、伝わるものも伝わらないじゃない。指示語は偉大なのよ」
わずかに胸を張る藍に嘆息したくなる。
「で、先輩方を受け入れろと」
「兄さんの抵抗は割に合わなくなったと思っただけ。この分なら、ある程度トラブルもよく回る口で対処できるでしょ」
同じことを考えていたらしい。会長と呼んだことで得心を得ただろう。
まっさきに面倒ごとのリスクヘッジを考えるのが、似ている。
「まあ、巻き込もうなどと無粋なことをする方々ではないようですし」
藍が横目にすると、遅れて良張が勢いよくうなずく。鳥羽会長は口を結んだままだった。
この余裕、どうせ一期一会だと思って雑にやっているのだろう。甘いぞ藍、この人には粘着質疑惑があるんだ。
「……二脚、もってくる」
「うん、お願い」
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