第4話 門の前の影

 森を抜けたのは、昼を少し過ぎたころだった。

空は鈍い灰色で、遠くの雲が裂けて光の筋を落とす。

焼け跡の黒がようやく見えなくなっても、足の裏にはまだ灰の感触が残っていた。


「もう少しで人の村があるよ。匂いで分かる」

エイラが言った。

確かに、風の中に焼いたパンと煙、獣の脂のようなにおいが混ざっている。

それは人の生活の匂いだった。けれど、懐かしさより先に胃の奥が冷たくなる。

あの街も、昨日までは同じ匂いをしていた。


「……俺、入れるんですかね」

「さあ? 試してみないとね」

エイラは肩をすくめた。

まるで他人事のような口調。それが怖い。けれど、その無関心さに逆に救われてもいた。

誰も“生き残り”なんて優しく言ってくれなかったから。


木々の切れ間から、丘の上に木柵が見えた。

高さは大人の倍ほど。見張り台があり、二人の男が槍を持って立っている。

エイラは軽い足取りで歩みを緩め、俺の方をちらりと見た。

「人間の門番って、いつもこうなの? 顔が怖い」

「仕方ないですよ。外から来るものは、何でも怖いんです」

「なるほど。じゃあ私も“怖い顔”しておくね」

そう言って口角をわずかに上げた。笑っているのに、なぜか本当に怖かった。


門まであと数歩というところで、槍の先がこちらに向けられた。

「止まれ! 旅人か?」

男の声は乾いていた。雨に濡れた木みたいに軋む。


「ええ。焼けた町の生き残りです。少し休ませてもらえませんか?」

エイラが代わりに答えた。

彼女の声は驚くほど落ち着いている。

「焼けた町……西の方か」

「そう。魔女が襲った町よ」

その言葉に、二人の門番の肩が同時に下がる。


「生き残りがいたのか……。気の毒に。だが入るには身元の確認がいる。

 名前と出身、あと――」

「“魔法を使えるか”でしょ?」

エイラが先に言った。

二人が目を見合わせる。

「安心して。使えないわ。私も、彼も」

そう言って、自然な動きで俺の腕を取った。

指が細くて、やわらかくて、逃げられない。


「夫婦です。彼――リオと、エイラ。焼けた町の鍛冶屋夫婦」

「……ふ、夫婦?」

門番が目を瞬かせる。エイラは微笑んだ。

「ほら、名も知らない旅人より、夫婦のほうが信用されるでしょ?」

「……まあ、確かに」


一人が柵の内側に向かって叫び、もう一人が俺たちを通した。

「中に入っていい。ただし検査官の所に寄れ。最近、魔女の噂が絶えん」

「ありがとう」

エイラが軽く頭を下げる。

その背中を見て、俺はようやく息を吐いた。


門をくぐった瞬間、音が変わった。

外の風の音が、木の壁で遮られる。

村の中は静かで、井戸の水を汲む音と、遠くで犬が吠える声だけが響く。

人の姿は少ない。道端の畑では女が一人、土をいじっていて、俺たちを見るなり手を止めた。

視線は冷たいというより、ただ遠い。


「……ここ、本当に安全なんですか」

「うん。今のところは」

エイラは門から少し離れた場所で立ち止まり、俺の腕を離した。

「ごめんね。勝手に“夫婦”なんて言って」

「別に。助かりました」

「助かったと思うなら、演技は続けてね。しばらくは“奥さん”って呼ばれるよ?」

「……それは勘弁してください」

「冗談。半分だけね」


微笑むその顔に、少しだけ人間の温度が戻っていた。

けれど、何を考えているのかは相変わらず分からない。

彼女の目は、どこか別のものを見ている。


「今夜、宿を取る前に検査官に会わなきゃね」

「……検査って、何を」

「魔法の反応を見る。血や匂い、体温……人間はそういうのが好きなの。

 安心を形にしたいんだよ」

そう言って笑ったが、その笑いはどこか寂しげだった。


門の方から、怒鳴り声が聞こえた。

「おい! 煙だ! 森の方角だ!」

振り向くと、遠くの空が黒くなっていた。

俺たちが通ってきた道の先――森の中から、煙が立ち上っている。

「……早いな」

エイラが低く呟いた。

「何が」

「追ってきたのか、あるいは別の魔女か。どっちにしても、

 “何か”が私たちの足跡を辿ってる」


金色の瞳が細く光る。

村人たちはまだ気づいていない。

ただ、犬が一斉に吠え出した。

風向きが変わる。煙の匂いが近づいてきた。


「リオ」

エイラの声が低い。

「今夜は、眠らないほうがいい」

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