第3話 朝を歩く魔女
森は、焼けた街の外縁から急に始まっていた。黒い地面の終わりに線を引くみたいに、湿った土が現れる。そこで一度、足を止めた。踏み出せば戻れない気がしたからだ。
前を行く金の髪の女は振り返らない。肩までの光が揺れ、指先で草をはじく音だけが聞こえる。間を二十歩ほど空けてついていく。距離を詰めれば、なにかに飲み込まれる気がした。
土を踏むたび、心臓がうるさい。自分の鼓動じゃない別の音が、胸の奥で重なって鳴っている感じがする。彼女の血のせいだ。息を吸うと、鉄と灰の匂いが薄れ、湿った緑が入ってくる。生きてる匂いだ。なのに、背中はずっと冷たい。
「音、変わったでしょ。灰は乾いた音、土は丸い音」
彼女――エイラが、歩いたまま言った。こちらを見ない。わざとなのかもしれない。振り返られないことで、少しだけ安心する。視線が合うのが怖い。
「……そうですね」
短く答える。声が出るだけで、少しほっとする。彼女の血を飲んで以降、喉の奥で言葉がほどけにくい。
小さな沢に出た。水面に空が映って白い。エイラは靴の泥を草で払うだけで、足は入れない。しゃがんだ彼女の横顔が、ほんの瞬間だけ水に歪む。人間の顔に見えない角度がある。心臓が一度、乱れた。
沢の音に、別の音が紛れた。風が逆流して、葉の裏が一斉にめくれる。エイラの指が空気をなぞったのが見えた。
「……今のも魔法ですか」
「うん。目立たないやつ。目立つと、いろいろ面倒だから」
さらりと言って、指先を握り込み、葉の裏を元に戻す。できることの端だけを見せる態度。できることの本当の大きさが分からない。それがいちばん怖い。
道端の草をひとつちぎって、彼女は自分で噛んだ。ミントの匂いが風に乗る。俺のほうへ差し出しはしない。代わりに、手のひらに小枝を数本まとめて置いた。
「噛みたいなら、勝手にどうぞ。私は勧めないよ。嫌なものは、嫌だって断るほうが好き」
「……別に、嫌では」
「だとしても、今はいいでしょ」
言い方は軽いのに、背中へ向けて投げる言葉は正確だ。距離を詰めてこない優しさがある。けれど、こちらの足音を数えているみたいな正確さでもある。
原っぱが開けた。草は膝の下くらいで、風に押されて一度に倒れては起きる。彼女は少し先の影になっている場所を選び、腰を下ろした。俺は間を空けて、斜め後ろに座る。真正面は落ち着かない。
荷物から取り出した布の上に、乾いたパンと小瓶が置かれた。瓶の栓を抜くと、青い匂いの油がひと筋だけ光る。彼女はパンの端だけに油を落とし、指で広げ、野草を少し千切って混ぜた。手元の動きが最小限で、無駄がない。刃物を扱う職人の手つきに見えた。自分の仕事を思い出し、胸の奥が鈍く痛む。
「食べるなら、そこに置いとく。……私は先に食べるね」
彼女は自分の分を、こちらを見ずに口へ運ぶ。咀嚼するたび、耳の奥で鼓動が重なる。その重なりが嫌で、呼吸を浅くする。やがて空腹のほうが勝ち、置かれたパンの半分だけを取った。油と草の匂い。悪くない。舌の奥のほうに、体が欲しがる感触が落ちていく。
「味は?」
「……食べられます」
「正直。いいね」
短い評価。褒められても、褒められた気がしない。言葉の刃が丸いふりをしている。
風が抜け、草が一方向に流れる。エイラの髪も同じように流れ、また戻る。その様子が、生き物の群れに見える。視線を外す。直視すると、体がわずかに前へ出てしまいそうで嫌だ。
「ねえ、リオ」
名前を呼ばれると、背筋が固まる。いつ、その名を知ったのか。問いただすべきなのに、口が開かない。
「今日は、なるべく何もしない日にしよう」
「……何もしない?」
「そう。魔法も喧嘩も、ついでに泣くのも。食べて歩いて寝るだけ。そういう日を混ぜとくと、長く歩ける」
「俺が、長く歩く前提なんですね」
「うん。助けたからね」
こちらを見ないままに笑う声。助けた、という言葉に、針のような違和感が刺さる。あの夜のことが喉に引っかかる。彼女は迷わなかった。血を裂いて、口元へ落とした。俺が飲むかどうかを、試していたようにも見えた。
「……どうして、あの時俺を助けたんですか」
「前にも言ったよ。気分」
「それ以外は」
一拍の間。彼女は栓をしめる音をゆっくり立てた。
「そうだな。面白いかどうか、かな」
「面白い?」
「人間が。死にそうな顔でも、まだ残ってる欲がある。食べたい、痛くないほうがいい、眠りたい、見たい、触りたい。そういうの。私は、それが好き」
言葉の内容は柔らかいのに、結び目が冷たい。自分が見られているだけの対象だと、はっきり分かる言い方だ。背骨の内側が冷えた。
「勘違いしないでね。害するつもりはないよ」
「……今は、ですか」
彼女はそこで初めて振り返った。視線が合う。金の瞳の奥に炎がある。笑っているのに、笑いは届かない。
「今は、ね」
はっきり言う。曖昧に優しくしない。その正直さが、逆に怖い。
草むらがひと筋ざわついた。小さな影が走る。思わず腰の横の枝を握る。エイラの視線が、枝の先ではなく、握る手に落ちた。すぐに逸らされる。
「武器は、持ってていいよ。安心するなら」
「……」
「でも、私に向けるときは、ちゃんと殺すつもりでね。中途半端は危ない」
軽く言った。冗談の調子。中身は冗談じゃない。喉の奥で乾いた音が鳴る。枝を握る手に汗が滲む。
「水、探そ。喉、渇いたでしょ」
彼女は立ち上がり、草を払って歩き出す。俺は枝を持ったまま、数歩遅れて続く。風の音が強くなった。遠くで鳥が鳴く。世界は普通に戻りたがっているのに、胸の奥の音だけが新しい。
二人分の足音の間に、一定の距離がある。その距離が、今のところの救いだと思った。
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