第2章: 日常の亀裂

501号室のドアを開けると、埃一つない廊下が続く。


健三はスリッパを鳴らして台所へ向かう。


時計は午後三時十五分で止まったままだ。


針は震えず、秒針さえも息を殺している。テレビはブラウン管の奥で、古い昼ドラを繰り返す。


ヒロインが泣き、悪役が笑う。


同じ台詞が、二十年目の今日もループする。


冷蔵庫を開ける。牛乳パックは賞味期限が当時のものだ。新鮮な匂いが立ちのぼる。


棚の奥には、妻・澄子の写真。笑顔は色褪せていない。


地震で崩れた三階の廊下の下敷きになったはずだった。遺体は見つからなかった。


死亡届は健三自身が役所に出した。署名は震えていたが、間違いなく本人の筆跡だ。


「今日は晴れだな」


健三は独り言を呟きながら、卵を二つ割る。フライパンが熱を帯びる音が、静寂を裂く。


澄子の声が、どこからか応える。


「健三さん、焦がさないでね」


笑い声は優しく、しかし確かに耳の奥で響く。


健三は首を振る。幻聴だと自分に言い聞かせる。妻はもういない。いないはずだ。――その頃、団地の外。


塔子はフェンスの錆びた穴から身を滑り込ませた。


二十五歳。父親は十年前、旭ヶ丘ハイツの管理人だった。


遺品の整理中に見つけた一枚のメモ――「米倉健三 死亡届 要確認」


役所の記録では、健三は地震の翌年に亡くなっている。


火葬済み。骨壺は市営墓地にある。なのに、昨夜も五階の灯りは点いていた。


塔子は懐中電灯を握りしめる。


靴底がガラス片を踏み割る音が、廃墟に反響する。階段は半壊し、鉄筋が牙を剥いている。


彼女は手すりを掴みながら、五階へ這い上がる。


息が白い。十月だというのに、廊下は冷蔵庫のようだ。


501号室の前。ドアは新品のように磨かれている。表札は「米倉」とだけ。


塔子は耳を澄ます。――カチャ、カチャ。包丁がまな板を打つ音。


そして、女の声。


「健三さん、今日はお味噌汁に豆腐入れようか」


澄子の声だ。


写真で見た、あの笑顔の主。塔子は息を呑む。ドアの向こうで、健三が答える。


「ああ、そうしてくれ」――二人の会話が、まるで今朝の続きのように自然に続く。


塔子は震える手でノックする。


三回。音が止む。静寂が、廊下を埋め尽くす。


ドアの覗き窓から、灯りが漏れる。


そして、ゆっくりと、鍵が外れる音がした。



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