第3章: 侵入者

ドアが、わずかに開く。


「誰だ?」


健三が顔を覗かせる。


目は濁り、底なしの沼のように光を呑み込む。


だが、肌は――不自然に滑らかだ。


七十八歳の皺は、まるで薄い膜の下に隠されたかのように浅い。


白いシャツの襟元から覗く首筋は、若々しい血管が浮いている。


塔子は一歩下がる。


「塔子です。十年前、管理人をしていた父親の……遺品を探しに」


言葉を濁す。父親はここで消えた。


公式記録では「行方不明」。


だが、メモには「米倉健三 死亡届」とあった。


健三は微笑む。歯は白く、揃っている。


「そうか。入ればいい。ここは安全だ。外は危ない」


声は優しく、しかし拒絶を許さない。


塔子は躊躇う。だが、好奇心が背中を押す。


一歩、部屋の中へ。瞬間、廊下の腐臭が消える。


空気は温かく、ほのかに味噌の香りが漂う。床は磨き上げられ、壁紙は新品のようだ。


時計は午後三時十五分で止まったまま。


テレビは古いドラマをループさせる。


澄子の写真が、棚の上で微笑む。


地震の傷跡は、どこにもない。


「座りなさい。紅茶でも飲んでいけ」


健三は台所からカップを運ぶ。


湯気が立ちのぼる。琥珀色の液体が、甘い香りを放つ。


塔子は警戒しながらも、喉の渇きに負け、一口飲む。


――温かく、心地よい。だが、飲み込んだ瞬間、胸の奥に冷たいものが広がる。


寿命が、わずかに削られる感覚。


彼女はカップを置く。


「帰ります」


ドアに駆け寄り、ノブを回す。――動かない。鍵はかかっていない。だが、ドアは石のように重い。


「開かない…!」


彼女は肩をぶつける。木目が、わずかに軋むだけ。健三が背後で呟く。


「ここのモノを飲んだんだ。お前の時間も止まっているんだよ」


振り返ると、彼は澄子の写真を手にしている。


「澄子も、こうして帰れなくなった。地震の夜、逃げ遅れて…でも、ここにいる。ずっと」


写真の澄子が、微笑む。


だが、目だけが――動いた。


塔子のほうを、まっすぐ見つめている。


部屋の隅で、時計の針が一瞬、逆回転する。カチッ。午後三時十四分。そして、また止まる。


その時、棚の奥からかすかな声が聞こえた。


「塔子…逃げろ…」


男の声。父親の、明の声だ。


塔子は振り返るが、誰もいない。


ただ、霊道の悪いモノが、囁きを強めるだけ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る