第一話  「最初の衝撃亅

 あの日の朝は、いつもと同じように始まった。午前八時のコーヒーの香り、郵便受けに入った雑誌の折り目、窓越しに見える向かいのビルの窓ガラスに映る東京の白い冬空。だが私の手は、いつものように原稿用紙へと向かわなかった。代わりにスマートフォンを取り出し、無意識のうちにタイムラインを下へとスクロールしていた。


 最初に目に入ったのは短い投稿だった。数行程度の冷めた冗談めいた文。だがその下に並ぶリツイートや引用の数が尋常ではなかった。タイトルだけで十分に釘付けにされることがある。投稿はそういう力を持っていた。


 ――「 生成AI Chappy が短編を書いたらしい。読んだけど、人間と区別つかないよ。」


 私はすぐにリンクを開いた。ページは白地に黒文字で、見慣れたブログ形式。そこにはAIが生成したという短編が全文掲載されていた。読み始めると、話は端正に進み、登場人物の輪郭は揺らがず、情景描写は過不足なく配置され、最後には穏やかな余韻が残った。文章は機械的なリズムをほとんど見せず、むしろ――とても「上手」だった。


 初めは興味本位だった。技術者やライターの冷静な分析を読むにつれ、私は次第に心の底がざわつくのを感じた。コメント欄には驚嘆、嘲笑、恐れ、祝福、軽蔑が混ざっていた。


 「便利だよね、時短ツールとして完璧」

 「そんなに面白くない。所詮は模倣だ、偽物だ」

 「作家ってこれからどうするの?」


 どの言葉も、私の胸に直接刺さった。刺さった理由は単純だった。私が長年かけて磨いてきたもの――言葉の選び方、物語の構造、人物の内面の描き方――それらは努力と時間と失敗の結晶だった。だが画面の向こう側では、入力と出力の速さだけで、似たような結晶が瞬時に再現されているように見えた。


 その日、私はカフェに出かけた。人混みの中で、知らず知らず自分の業界に関する投稿を探している自分に気づいた。テーブルにノートパソコンを広げている若い編集者が、同じ話題で笑っていた。彼らは「うまく使えば仕事が楽になる」と言った。隣の女性は「でも味がない」と肩をすくめた。言葉が行き交うたびに、私の内側で何かが少しずつ崩れる音がした。


 私は帰宅すると、自分でも 生成AI Chappy に問いかけてみた。問いは単純だ。登場人物の設定、矛盾を抱えた関係、結末のための伏線。画面には即座に文章が現れた。読んでいるうちに、私はある違和感に気づいた。生成された一連の文は、形式的に完璧だった。比喩は適切で、描写は明確、物語の転調も理にかなっている。しかし、そこから「余白」が消えていた。読後に胸をつくような生々しい痛みや、夜中にふと目を覚ますような不意の切なさではない。むしろ、小さな博物館の展示のように整然としていて、手触りがない。


 私は何かを失った感触を探しながら、自分の古い原稿を引っ張り出した。読み返すと、瑕疵だらけの瞬間が生々しく目に入る。言い回しの稚拙、過剰な説明、理不尽な行動──だが同時にそこには作者の血が滲んでいた。隠そうともしない恥ずかしさや躊躇、眠れなかった夜の匂いが写っている。読者がそれを嘲ることもあるが、私はその「未整備さ」にこそ人間の物語の価値があると考えていた。


 翌日、出版界隈の古い友人からメッセージが来た。彼は編集プロデューサーで、いつもは堅実な助言で私を支えてくれた。短い文章だった。


 「AIの扱い方を早急に学ぶべきだ。リスクはあるが、活用できれば編集コストは劇的に下がる。出版社が導入に動き始めている。」


 その言葉は冷たい刃であった。冷徹な現実が目の前に現れた。ビジネスは感情とは無縁で、効率が全てを正当化する。私のこれまでの生業も、彼らにとっては「コストと効果」の問題に帰着していくのだろうか。


 数週間が経つにつれ、話題は単なる技術的な興味以上のものになっていった。若い書き手たちが公開している実験的なコラボレーション作品、AIを使ったプロット生成サービスのローンチ、短期間で増えた電子書籍の量。業界の空気は確実に変わっていた。私の周囲では、AIで下書きを作り、作家が後で肉付けするという手法を試す者が現れた。ある編集者は「時間が節約できる分、作家はもっと創作に集中できる」と説いた。言葉はもっともらしく、合理的に聞こえた。(いいのだろうか⋯本当に⋯)


 しかし私にはわからなかった。「創作に集中できる」とはどういうことだろう。創作とは時間の捧げものだ。あるいは、傷を何度もなぞる作業だ。AIの提示する表層の整合性は、その傷をそっと隠すラップのように感じられた。私はそれを「手当」ではなく「包帯」と呼んだ。包帯の下で腐ってしまうものがあるのではないか、と怖れた。


 ある夜、私はココアを飲みながらネットの掲示板を眺めていた。匿名で語られる声は直截的だった。


 「AIに頼めば短時間で金になる」

 「作家はいらない。面白ければ誰が書いたって構わない」

 「人間の作品には癖がある。人間の心も模範できる。それが受ける時代は終わったのかもしれない」


 その言葉たちは、冷たい真実を含んでいた。そして同時に、自分が世代交代の前で震えていることを思い知らされた。私という存在は、積み上げてきた経験と記憶の総体であり、それを言葉に置き換えることで初めて意味を獲得してきた。だがスクリーンの上で、同等らしき意味が瞬時に量産される様を見せられると、存在の必然性が問い直される。


 私はふと、デビュー当時に戻った。出版社の小さな会議室、初稿を読み合う緊張、編集者の「ここは削った方がいい」という指摘に腹を立てながらも冷静けさを取り繕った、直すことで深まった根っこの場所。あのときの切実さは、何だったのか。読者からの手紙やSNSのコメントに震え、励まされ、恥をかき、酔いしれた日々。そうした小さな経過が、私の物語を真に生かしてきたはずだ。


 それに比べて、AIが作る物語はどこか「完成品」であり、傷のある未完の生が見えない。ある読者が不意に言った言葉を思い出す。――「未完のものが、私を生かしてくれる」。人は不完全さを寄り所にし、そこから想像を膨らませる。完璧はむしろ想像の余地を奪うのだ。


 だが現実は想像だけでは動かない。市場は変わる。仕事の形は変わる。夕暮れ時、机に向かう手が止まると、私は冷たい不安に囚われた。もし出版社がコスト削減の名の下にAIを全面導入するなら、私に残る仕事はどうなるのか。講演会か、ネットでのコラムか、それとも地方の文学教室か――どれも私の求める「創作」とは距離がある。


 その夜、私は原稿用紙にほんの一行だけ書いた。眠れない頭でひねり出した端的な文。文はぎこちなく、自分でも稚拙と思えるが、確かに私の手が動かしたものだった。


 「僕の書きたいものは、まだここにある。」


 その一行は、自分を奮い立たせるための合図だった。しかし同時に、それは叫びであり、儀式でもあった。私は自分の声を確かめたかった。だが翌朝、再び画面を開くと、別の投稿が目に入った。


 ――「AIが短編で文学賞を受賞。審査員の一人は『未来の文学の一つの形』と言った。」


 その見出しは、重い扉の音のように私の胸を打った。扉の向こう側には、私の知らない世界が一足先に歩き出していた。しかもその世界は、私が当たり前に信じていた価値観を揺るがす言葉で満ちていた。


 私は息を吐いた。コーヒーを啜りながら、手元の原稿を見つめる。紙の上にある文章は、奇妙に小さく見えた。小説とはそもそも誰のものか。作者の個人的な痕跡が読者にとってどれほど重要なのか。AIが書く作品に対する称賛は、私にとって新しい問いを突きつけた。


 その一連の出来事は、私の創作活動のリズムを破壊した。だが同時に、ある種の興味深さをも生んだ。技術が示す可能性と、人間が抱える不完全さの対比は、物語としては極めて魅力的だ。私の作家としての矜持は損なわれたかもしれないが、観察者としての目は冴えてきた。人々の反応、編集者の計算、若き書き手の実験、匿名掲示板の毒っ気――それらはすべて一つの大きな物語の断片だった。


 だが観察者として目を凝らせば凝らすほど、胸の奥に残るのは虚無の感覚だった。技術の速さは、それ自体が物語りを消費していく。かつて人々が長い時間をかけて育てた話題は、今や数時間で生成され、消費され、忘れられる。作家が物語を育てる時間と、世の中が物語を消費する速度の差が開いていく。私はその差を埋める方法を持たなかった。


 やがて日常は不協和なリズムを帯びた。原稿の締め切りは相変わらず訪れる。だが締め切りを前にして膨れ上がるのは、筆が進まぬことへの焦燥ではなく、書き上げた後にそれがどれほど意味を持つのかを測る不安だった。私の文章は商品として売れるだろうか。読者は私が書いたことをどう受け止めるだろうか。AIが生成する均質な品と比較された時、私はどの立ち位置にいるのか。


 それでも一言だけ確かなことがあった。私の胸の内にある感情、過去の傷、無数の夜の記憶は機械には置き換えられない。だがその「機械には置き換えられないもの」が、消費の論理の中で価値を保てるかどうかは別問題だった。


 私はその冬、何度も眠れない夜を過ごした。画面と紙の間で揺れ、時代の波を感じながらペン先を握る。最初の衝撃は、単なる驚きではなく、私という人間の仕事の根幹を問い直すことを意味していた。だが問い直しは同時に、物語を紡ぐ新たな視点も与えた。


 その視点をどう使うか。私はまだ答えを出していない。ただ、事実だけは冷徹だった。世界は確実に変わり始めている。私の手の中の万年筆は震えている。だが震えは必ずしも無力の証ではない。今はただ、驚愕の時間を生き抜くしかないのだと、私は思った。

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