「海に沈む影」

人一

「海に沈む影」

何年も前、僕は見たんだ。

おじいちゃんに乗せてもらった船の上で……

見たんだ。

海の真ん中で山のように大きな影を。


久しぶりに祖父の家を訪れた。

海辺にある小さな村。

何度来ても海風に晒され、寂れた雰囲気は変わらないままだ。

かつては地域でも有数の漁業が盛んな街だったそうだが、流れる月日が栄光を削りとっていった。


子供の頃、漁に連れて行ってもらったとき俺は海坊主を見た。

そのことを祖父に言うと、血相を変えて陸に引き返した。

網も釣竿も振り落とされても構う暇もない、といった剣幕だった。

陸に帰って来てからは、部屋に押し込められ祖父は仲間を集めて集会所に消えていった。

その夜俺は、実家に帰らされた。

まだまだ滞在する日にちは残っていたのに有無を言わさずにだ。

祖父はしきりに「すまない……でも村を守るためなんだ……」と、言っていた。

当時は理解できなかったが、今になると何となく祖父の気持ちも分かるような気がする。


祖父は実際には見ていないのかもしれない。

子供の戯言かもしれないのに、最悪の場合を想定して村と俺を守るために動いてくれたんだ。

昔は理不尽な行動を恨んでいたが、これを理解した日からは感謝と尊敬しかない。


今回俺がこの村を訪れたのは、余命幾ばくの祖父に呼ばれたからだ。


かつて大きく岩のような背中を持っていた祖父は、すっかり痩せこけていた。

小さく弱々しくなり、その腕は小枝のようだ。

老いの残酷さに涙が滲みそうになるが、気張って声をかけた。


「……じいちゃん、久しぶり。」

「おう。来たか。

すまんなぁ……急に追い出したくせして、またこっちの都合で呼び出すなんて。」

「いや、いいんだ。

それに昔のことも気にしてない。分かってるから。」

「……そうか……そうか。

すまんなぁ。」

「それより、どうして急に呼んだの?」


「見ての通りワシも先が長くない。

年寄りのワガママだ。孫とまた釣りに行きたくなったんだ。」

「そうなんだ。そんなこと、言ってくれればいつでも飛んで行ったのに。」

「気持ちは嬉しいが、色々あるのさ。

さぁ、荷物置いてさっそく出かけよう!」

「うん!」


祖父は慣れすぎた手つきで、船の準備をしてさっそく発進させた。

しばらく経って沖合の漁場にやってきた。

よく晴れ風もそこそこに、非常に過ごしやすい。

2人で並んで座り、釣り糸を垂らした。


数時間が経った。

それぞれのクーラーボックスを比べると、俺は祖父の3分の1くらいしか釣れていなかった。

さすがだ。

ここまで2人の間に会話はほぼほぼ無かった。

それでも、心地の良い時間がゆっくりと流れていた。


突然周囲一帯に影が落ちた。

太陽が雲に隠れたんだろう。

ぼーっとしながら顔を上げるとそこには……

不自然に巨大な水の塊があった。

いや……海坊主がそこにいた。

顔など無いが、不快な視線を感じる。

祖父は俺を背中に庇って、睨みつけている。


奴は何をすることもなく、ゆっくりと海に溶け沈んでいった。

間もなくして日差しは戻ってきた。

「ふぅ~寿命がさらに縮んだ気がするわ。」

「じいちゃん……」

「なに、悲しむことは無い。

それより、ワシもお前ももう村に住めなくなったな。」

「それってどうして?」

――ガタン

船が大きく揺れた。

海に目をやると、大きな大きな影が波もたてず移動していた。


「あれに目をつけられると厄介なんだ。

いつまでもこの海の近くにいると、怒って村を呑み込んでしまうかもしれないんだ。」

「だから……」

「そうだ。皮肉なことだが、昔お前を追放したおかげで村は無事だったんだ。

でも今日はワシも見てしまった。」

「俺は実家に帰るけど、じいちゃんはこれからどうするのさ。」


「ワシもお前の母さんのところに邪魔しようと思う。

……それじゃあ、帰るぞ。」

じいちゃんは船を動かし始めた。

徐々に悪くなりつつある天気から逃げるように。


村までは幸い何事もなく帰れた。

そしてじいちゃんは仲間に別れを告げて、この生まれ育った村を出た。

一緒に乗る軽トラの中で祖父は黙ったままだった。

やむを得ない理由とはいえ、故郷を捨てることになったんだ。

涙は見せないが、まとう雰囲気からは悲しみだけが溢れていた。

「じいちゃん……いいのか……?」

「ん?どうした?

何も心配いらないさ。ちょっと引越しのタイミングが悪いってだけだ。

村から出て行った仲間もいるんだし、困ることは無い。

母さんには叱られるかもしれないけどな。」

「……」

「それにこの海での釣りは諦めることになったが、釣りなんてどこでもできる。

その上いつでもお前と一緒にできるんだ。

村に閉じこもってるかより、幾分か良いものさ。」


雨足は徐々に強くなっている。

俺は雨音にかき消されるけれど泣いた。

祖父は何も言わず、ただ運転してくれた。

雨音を割きながら進む静かな車内。

どうしようもない現実に絶望感の中で、ほんの少しだけ……

祖父と一緒にいられる嬉しさと、今後の希望が小さく咲いていた。

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「海に沈む影」 人一 @hitoHito93

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