第4話 先生と
僕の視界が薄暗く、なんの光も通さないようになったのはいつからだっただろうか。伸びきった前髪で現実を隠すようにただひたすら、とにかくずっと勉強する手を止めなかった。そこになんの意味があるのかも分からずに。
乾燥であかぎれが目立つ手は、段々と気温の低下を知らせてくる。季節の変わり目を感じた僕は、過ぎ去った時間を振り返るのが怖かった。
「中山くん。」授業が終わると高田先生が教室のドアを開けていた。なんだか久しぶりに会ったからかその優しげな瞳に思わず縋ってしまいそうになってしまった。少し間が空き、1呼吸をしてから立ち上がって「先生どうしたんですか。」と精一杯の笑顔で応えた。すると先生は1枚のチラシを渡してきた。「実はね、コネでチケットが手に入ったんだ。君もこの人は知っているだろう。きっと気にいるだろうと思って。」と先生には珍しく口早に話す姿を見て、なにか苦い鉄のようなものが喉を通っていく感じがした。「個展ですか。」思わず鈍い言葉を漏らしてしまった。絵が描けなくなってきた時から自分だけでなく他の人が描いた絵も見れなくなってしまっていた。というより見たくなくなっていった。どんどん下がっていく視線をまるで気にしていないように「これチケット。今月いっぱいで終わっちゃうからそれまでに行ってきてね。」と半ば強引に僕の手に収める先生は、やっぱりいつもより落ち着きがないように思えた。「絵本作家か。」そのチラシには幼い頃によく読んでいた本が並んでいた。しばらく眺めていると職員会議などを理由に先生は居なくなってしまった。今日は会議がある日だっただろうか。
帰り道今日もらったチラシを頭に何度も思い浮かべていた。1人で歩くのにはもう慣れきっている頃だった。普段はただ無心で塾に向かっているが、さっきの先生がいつもとはかなり違っているように見えたせいか塾に着いてからもその事がなかなか頭から離れなかった。
授業が終わって教室を出たところ、隣のクラスも一斉に終わったからか人が多く歩いていた。そして、その中にどうしても明がいるのではないかとつい、探してしまう自分がいた。
「一体いつまでこんなことしているんだろう。」得体の知れぬ後悔でいっぱいになっていると、気づいたら自宅に着いていた。背負っていたリュックを床に乱雑に置き、ベッドにしばらく横たわっていた。そして目を閉じながら自分の世界へと入り込もうとしていたところ親に夕食を食べるよう促され、重たい足を1歩ずつ進めて行った。
寝る前にリュックの中にあったチラシを出し、今日のことを思い出した。行くか迷ったものの現実を直視したくないからか、自分の机の奥底に入れて忘れようとした。
それから2週間ほどは同じような日々を過ごしていた。平日は学校と塾をひたすら往復し、休日も家に籠って勉強をした。
そして今日もまた同じように家に帰ってきたところだ。家の掃除をしている母を横目に自室へ行こうとしたら「これ懐かしいわね。」と母の感慨深い声が聞こえてきた。ふと、母の手元に目をやるとそれは1冊の絵本だった。そして、それは前に高田先生からもらったチラシに描かれていたものと同じだったことを思い出した。つい眉間にしわがより、行き場の無い思いを感じてしまった。その場をすぐ離れようとした時、母が開いた絵本から1枚の紙が僕の足元に落ちてきた。黄ばんだその紙を広げてみると、それはクレヨンで鮮やかに描かれた絵だった。覚えのない絵を眺めていると母も覗き込み、なぜか目を潤ませていた。そしてゆるい笑顔を浮かべて「これはあなたがとっても小さい頃に描いていたものよ。昔から絵が大好きで、この絵はこの本の表紙を真似たものよ。」と話していた。
そして思わず僕は苦笑してしまった。
「この時から自分勝手な絵だな。」と、今と昔の僕を重ねるように、ぽつりと呟いた。
自室の戻ったあともしばらくの間この絵を見つめていた。さっき母はあの本の表紙を模写したと言っていったが、この絵を見ると似ているようでも自分の使いたい色で好きに表しているところはやはり、自由すぎるなと思った。再び頬が緩むと高田先生のことを思い出した。そっと机の引き出しに手をかけ、しまっていた物を見つけ出した。「まぁ勿体ないしね。」と誰かに言い訳でもするように。
翌日、体調不良を理由に学校を休んだ。滅多に風邪なんかひかない僕を母は心配していたが、無理やり仕事に行かせて僕もそのままの足で美術館へと向かった。こんな事は初めてだった。
美術館に着くと平日の午前中のせいか、あまり人は多くいなかった。深く呼吸をしてから、1歩ずつ踏みしめて中に入るとそこには鮮やかな世界が広がっていた。一つ一つの作品が暖かく、確かにそれは老若男女関係なく楽しまれる"絵本"であった。美術館へ向かっているときでさえ何度もやっぱり帰ろう、勉強をした方が良いだろう、そんな考えが頭の中を駆け巡っていた。それでもここに来たのは、この個展が絵本作家のものであったからだ。きっと絵画だったり彫刻作品だったりしたらここまで来ていなかったのだろう、と何故だかそんなふうに思っていた。
絵本特有の絵のタッチは抽象的ながらも凄く印象に残るものだった。どの作品も共通して色彩豊かで、見ているだけで胸が踊った。そのまま歩き続けていくと広いスペースにたどり着いた。開けた空間は天井から太陽の光が漏れており、暖かくこの場所を包み込んでいるようだった。まるでここが絵の中のようで、とても安らかな気持ちになれたのだ。少し辺りを見渡してみると、まだ未完成のキャンバスと色々な長さのクレヨンが目に入った。何故だろうか、心の奥底から描きたいという思いが溢れてきた。僕はその勢いに任せてクレヨンを手にし、ただひたすらにキャンバスを自分の色で染めていった。
気付いた時にはとっくに辺りはオレンジ色の光でいっぱいになっており、目の前のキャンバスも自分の両手も鮮やかな色で満たされていた。
帰り道、洗った手を嗅ぎながら、クレヨン独特の油の匂いが流れ込んできた。するとなんだか心にさっきのキャンバスのような暖かく、緩やかなものも一緒に流れた。辺りには紅葉がちらほらと見え始め、行く時には気付かなかった光景がよく見えるようになった。
「絵を描くって、こんなに楽しいことなんだ。」夕日に語るように、僕は何かを掴んだような気がした。
家に帰ると案の定、母はとても心配していた。ただ買い物に行っていたと言えば簡単だっただろう。だけど、今日したことをありのままに話したいと思ったのだ。見たこと、感じたこと、そしてこれからしたいこと、その全てを口下手な僕なりに一生懸命話した。始めは思っていた通りかなり驚いてはいたものの、最後には「良かったね。」と少し涙ぐんで返された。そんな母を見ると、少し照れくさくなってしまい「勉強してくる。」と足早に自室へと入った。
机に向かってはいるけどなかなか参考書に手が伸びない。持っているシャーペンを回しながら今日のことを再び思い出していたのだ。そして、ノートを数枚めくり、今度は未来について描き始めた。
次の日は放課後になるのが待ちきれなかった。授業の終わるチャイムと同時に僕は美術室へ向かって行った。途中、体育科の教師に廊下を走るなと注意されたが、何も気にせずそのまま目的地へと走り続けていた。ドアをいきよいよく開ける僕に、高田先生は驚いた表情を見せながらもまたいつものように微笑みかけてきた。
先生に促されるよう、目の前の椅子に腰をかけた。つい僕のソワソワが伝わってしまったのか、先生はいつも以上に笑っていた。恥ずかしさを隠すように咳払いをし、少し気持ちを落ち着かせてから、昨日の美術館のことを話し始めた。僕の話を聞きながら相槌を繰り返している先生はとてもしみじみとしていて、嬉し泣きをしているようにも見えた。そして僕はまたなんだか照れくさくなってしまった。
「先生、個展はどうやったら開けますか。」さすがに今回のいきなりな質問には、先生は目を丸くしていた。そして何かを理解したようにクスッと笑い、「私の古い友人が詳しいんだ。今度聞いてみるね。」と返してくれた。
3月中旬 僕は中学校を卒業した。義務教育を終え、特別何か感じた訳でもなく、ただ時が過ぎたのだなと悟った。青空の下に薄ピンクの桜が咲いている。まるで卒業を祝うように、ほんのり甘い香りは辺りを漂っていた。今日はなんだか景色が広がっているようで、柔らかな日差しを一身に浴びていた。しばらくそのままでいると「中山くん、卒業おめでとうございます。」といつもの優しげな声が聞こえてきた。
そして、それに返すよう、僕は力一杯の声で「今まで、ありがとうございました。」と大切な先生にお別れを告げた。
やっぱりいくら待っていても卒業式に明は現れなかった。でも不思議と暗い気持ちにはならなかった。
またいつか明に会えると信じ、その時が来るまで、僕なりの方法で頑張っていこうと思う。だからどうか、僕のことを忘れないでいてほしいーーーと僕らしい何とも自分勝手な想いをこの桜の香りに乗せて。
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