第3話 家族と

明とすれ違う日々が続き、気づけば夏の訪れが迫っていた。雨ばかりだった天気はジメジメとした太陽が照り付けるように変わり、その暑さがとても鬱陶しかった。学校に向かうこの距離でさえ、額から汗が何粒も滴り落ちてくる。その汗をいい加減に脱ぐうようにして、自分のへこんだ中指を触った。

その異様な凹凸さに、とても嫌気がした。


夏休みがあと少しで始まろうとしている。受験生という名目上、勉強は絶対に免れない。度々開かれる学年集会でも、最後の決まり文句のように言われるそれは、もはや呪言のようだと文句を言う人もいた。でも僕にとっては、逆に有難かった。絵を描くことを忘れるように、文字を書けばいい。問題を解けばいい。ただずっと同じように全てのことを繰り返すだけだからとても気が楽だった。


もう7月を迎えたことで、着々と進路相談が始まっていった。担任と母と僕との三者面談。去年までは特に可もなく不可もないような評価をされてきたが、今年はやはり僕の進路先の事で少し揉めてしまった。担任は僕の成績だったら難関校やそれ以上の国立高校でも目指せるだろう、と推し進めてきた。しかし、以前の僕は美術のことしか考えていなかったため、母もそれとなくそれ系の高校へ行くと考えていたのだ。2人の考えは一向に一致する気配はなく、今回の話し合いは平行線上に進んでいった。そして、1番の問題だったのは僕の意思が全くなかったことだ。したいことも、行きたいところも、何もかも心に浮かんでこなかったのだ。どうやら僕がぼんやりとしている風に見えたらしく、担任は少しため息をして、よくよく考えるように、と念押をして今日はお終いとなった。


帰り道、母と2人きりになることが久しぶりのせいか、言葉がつい詰まってしまい、お互い無言のまま家まで向かっていた。少し窮屈な思いを抱えながらも、ただぼーっと影を追いかけるよう、歩みを進めていた。

いきなり、母の口から「家のことは気にしないでいいから。あなたの好きなところに行きなさい。」という言葉が発せられた。突然の言葉に驚いたが、きっとこの時の僕にはその言葉の重みまでは気づけていなかったのだろう。

ただ"うん"と返すだけの僕の背中を静かに叩き、母からの励ましの思いを感じ取ることが出来た。

1人でずっと僕のことを養っている母のやつれた顔には、今まで分からなかった人生の苦労を写しているように思えた。


放課後、美術室に向かおうとする気持ちは、だんだん無くなっていった。絵を描くという行為が自分の中でなんの意味も持てなくなってしまったからだ。そんな訳で、今ではすぐに塾へ行き、没頭するかのように勉強を続けている。今日も同じように、チャイムと同時に校舎を出た。

すると、後ろから駆ける音に乗せて聞き馴染んだ声が聞こえてきた。

振り返るべきじゃなかった。

聞くべきじゃなかった。


「あのさ、俺、転校することになったわ。」そんなことを言う明の顔は笑っているようで、心の奥底で哀感が漂っているように見えた。

突然の事でとても動揺してしまったからか、色んな気持ちが溢れかえり

「そうなんだ。」とぶっきらぼうに返すことしか出来なかった。本当はもっと言わなきゃいけないことがあると頭では分かっていたのに、どうしても言うことが出来なかったのだった。そして引き止める明を見放すように走ろうとしたが、明は簡単に僕に追いついてしまった。


少しの間沈黙が流れ、明から1枚の手紙が渡された。首をかしげなら受け取った僕を見た明は、まるで抱きつくかのような勢いで距離を詰め、今までありがとうと言葉を漏らした。そんな本当に最後みたいな言葉を話す明を、僕はやっぱり快く思えなかった。突然の転校に、突然の感謝なんて僕は到底受け入れることが出来なかったのだった。貰った手紙を明に押し付け、呼びかける声を無視しながらまた家に走って帰っていった。なぜか溢れかえってきた涙と汗とが入混じり、さらに僕の視界が歪んでいった。


翌日、明のクラスの前を通ってみた。少し気になり明を探してみたが、そこには"明"という人物はいなかった。騒がしくなっているクラスを見て、すぐに理解することができた。

「そっか、転校って今日からだったのか。」と心の中で思いながらも、きっとどこかでわかっている自分もいた。受け入れたくなかったからこそ、昨日の明の話も聞きたくなかった。そんな自分中心な思いがさらに僕の心を追い詰めた。


帰宅してからも考えることは明ばかりだ。あの時に戻れたら、いやもっと前に戻って明のことをもっと知れていたら、そんなことばかりが頭を占領した。しばらく黙ってソファーで項垂れている僕の様子を見た母は、1枚の手紙を静かに渡してきた。何も言っていなかったが、母の心配そうな顔が僕の心に深く刻まれた。


手紙はあの時、明に返したものだった。読むつもりはなかったのかもしれない。でもあの時の僕の無念を晴らすようにか、気付いたらその手紙を開いていた。

手紙には引っ越すことになった理由がつらつらと書かれていた。たまに冗談を交えながら書かれている文章からは、明の性格が垣間見えるようであった。きっとあいつの事だ、あまり自分の事情を話したくなかったのだろう。読み終えた僕は明の変化に少しでも気づくことが出来なかったことを悔いた。本当に僕はいつも自分勝手で、明のことを考えながらも見て見ぬふりをしていたんだな。

もう遅いか、と乾いた笑いをしながら、それを机にしまった。

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