第10章:インターフェースの再構築

カツン、カツン……。

病院の長い廊下に、松葉杖が床を叩く乾いた音だけが響く。

走るために最適化されてきたはずの俺の体は、今やこの無機質なアルミの棒がなければ、一歩も前に進めない。

アキレス腱を失った足首は、まだ鈍い熱を持ち、まるで自分のものではないみたいだ。


「……くそっ」


リハビリ室の窓から見える空は、うんざりするほど青い。

あのトラックでは、今も誰かが走っている。

俺が10秒03で駆け抜けた、あの場所で。


『選手生命は……まあ、お察しだ』


医師の無情な宣告と、京介の軽蔑するような(あるいは、哀れむような)目が、頭の中でリフレインする。

俺は、天野 翔と同じになるのか。

物理法則(システム)に喰い潰され、走ることを奪われた、サブジェクト・ゼロの二の舞に。


ベッドに戻り、真っ白な天井を睨みつける。

俺はマシンになりたかったわけじゃない。

ただ、速く走りたかった。

あの言葉は、確かに本心だ。だが、その結果がこれだ。

もう、走れない俺に、物理も感覚も、クソもない。


「……黒田さん」


その声に、ゆっくりと視線を向ける。

天野 雫が、ドアのそばに立っていた。

以前のような、全てを見透かすような冷徹なオーラは消え、その目には、深い疲労と……わずかな「迷い」が浮かんでいた。


「……何の用だ。あんたの実験は、失敗(クラッシュ)したんだろ」

「…………」

雫は何も答えず、俺のベッドサイドまで歩いてきた。

その手には、いつもと同じタブレット。だが、俺に向ける視線は、明らかに違っていた。


「……昨夜、兄と話しました」

「……サブジェクト・ゼロと?」

「……はい」

雫は、唇をわずかに噛んだ。彼女の「癖」だ。緊張か、あるいは、何かを決意した時の。

「兄は……あなたのレースを見ていました。そして、言いました。『あいつは、俺と違う。あいつは、まだシステムに喰われてない』……と」


「……何が言いたい」


雫は、タブレットの電源を入れた。

画面に映し出されたのは、風洞実験のデータや、加速グラフではなかった。

それは、人間の骨格と筋肉が、無数のワイヤーフレームで構成された、複雑な3Dモデルだった。


「……これは?」

「あなたの現在の『ハードウェア』の設計図です。アキレス腱断裂による、**弾性(Elasticity)**の損失。それに伴う、慣性モーメントの変化。全身のバランスは、完全に崩壊(デバッグ)されています」


「……わざわざ、それを教えに来たのか。最悪の趣味だな」

俺が吐き捨てると、雫は、強くかぶりを振った。


「違います」

彼女は、タブレットを俺の目の前に突き出した。

「あなたの言葉……『俺たちが、物理法則を使って走る』……。その意味を、一晩中シミュレーションしました」


画面が切り替わる。

『OS (Kuroda Ren) / SYSTEM (Mechanics) : Interface Reconstruction (Ver. 2.0)』

(OS(黒田 蓮) / システム(力学) : インターフェース再構築(Ver. 2.0))


「……インターフェース?」

「私は、間違っていた」

雫は、初めて、はっきりと自分の非を認めた。

「私は、あなたの『感覚』というOSを無視し、物理法則という名のシステムを、無理やり上書き(インストール)しようとした。だから、サブジェクト・ゼロも、あなたもクラッシュした」


彼女の指が、画面をスライドする。

そこには、「リハビリテーション・プログラム」と題された、膨大なチャートが並んでいた。

『フェーズ1:応力(Stress)の分散学習』

『フェーズ2:人工腱の弾性と運動エネルギーの同期』

『フェーズ3:重心の再キャリブレーション』


「……これは、ただのリハビリじゃない」

雫は、俺の目をまっすぐに見据えた。

「あなたの『感覚』が、物理法則を『理解』し、道具として『使いこなす』ための、全く新しいデバッグ・プログラムです」


「……俺の、感覚を……デバッグ?」

「例えば、『痛い』『怖い』というあなたの感覚は、バグではありません。それは、特定の部位に応力が集中しているという、OSからの重要な警告(アラート)です。私はそれを無視した」

彼女は、画面の3Dモデルをタップした。

「このプログラムは、その『痛み』を物理的に翻訳し、どうすれば応力を分散できるかを、あなたの体に再学習(インストール)させます」


俺は、ゴクリと唾を飲んだ。

絶望的な暗闇の先に、細い、だが確かな光が差し込んだ気がした。


「……できるのかよ。そんなこと……」

「分かりません。前例のないデバッグです」

雫は、静かに言った。

「ですが……あなたのOS(感覚)と、私のシステム(物理)を、『インターフェース』で正しく接続できれば……」


彼女は、言葉を切った。

その瞳には、もはや兄への贖罪だけではない、純粋な「探求者」としての光が宿っていた。


「……黒田 蓮。あなたは、もう一度、9秒台(あのシステム)を起動できる」


俺は、ベッドの脇に立てかけてあった松葉杖を、強く握りしめた。

アルミの冷たい感触が、手のひらに食い込む。


「……いいだろう」

俺は、体を起こした。

「やってやる。今度は、あんたのシステムじゃなく、俺の感覚(OS)を……物理で、完璧にアップデートしてやる」


俺たちの、二度目のデバッグが始まろうとしていた。

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