第9章: サブジェクト・ゼロの残響
消毒液のツンとした匂いで、意識が浮上した。
真っ白な天井。規則的な電子音。
「……ここ、は……」
「病院だ。黒田」
硬い声に振り向くと、パイプ椅子に座った京介が、腕組みをして俺を睨みつけていた。
「……京介……」
「診断結果が出た。右足アキレス腱、完全断裂。選手生命は……まあ、お察しだ」
その言葉は、不思議なほど冷静に俺の頭に入ってきた。
10秒03の代償。
これが、俺が「物理」に支払ったコストだ。
「……そうか」
「……それだけかよ」
京介が、ギリ、と歯を食いしばるのが分かった。
「ふざけやがって……。お前は、俺に勝った。あの記録は本物だ。だが、その結果がこれかよ! そんなものに、何の意味がある!」
「……京介」
俺は、焼けるように痛む喉で、言葉を絞り出した。
「お前は……俺に負けたんじゃない。あんたが勝手に『感覚』と呼んでる、非効率なバグに負けたんだ」
「……なんだと?」
「俺は、物理法則に最適化されただけだ。俺は、マシンだ。……だから、お前はマシンに負けた。それだけだ」
俺は、自分でも何を言っているのか分からなかった。
ただ、京介の怒りに満ちた顔を見ていると、そうとしか言えなかった。
俺はもう、以前の俺じゃない。
京介が、何かを言い返そうとした時、病室のドアが静かに開いた。
天野 雫だった。
「……和泉さん。面会時間(ビジティング・タイム)は終了です。患者(サブジェクト)は安静が必要です」
「天野……! てめえ、蓮に何をしやがった!」
京介が掴みかかろうとするのを、雫は冷たい視線で制した。
「私は、彼に『結果』を提供した。彼が望んだものです。違いますか、黒田さん」
俺は、答えられなかった。
京介は、俺と雫の顔を交互に見比べ、やがて、吐き捨てるように言った。
「……お前ら、二人とも狂ってるよ」
彼は、病室を乱暴に出ていった。
静まり返った病室で、雫は俺のベッドの横に立った。
「……気分は?」
「最悪だ。あんたのせいだ」
「いいえ。**応力(Stress)**の計算が、あなたの『感覚』の抵抗によって、予測値(パラメータ)をオーバーした結果です」
「どっちでもいい! あんたが言ってた『クラッシュ』した被験者ってのは、これかよ!」
俺がそう叫んだ瞬間、雫の肩が、わずかに震えた。
彼女は、ゆっくりと顔を伏せ、長い前髪がその表情を隠した。
「……いいえ」
か細い、今にも消え入りそうな声だった。
「『彼』は……もっと、酷かった」
「……彼?」
雫は、震える手で、タブレットを取り出した。
画面に映し出されたのは、数年前の、まだあどけなさの残る青年の写真だった。
彼は、陸上トラックの上で、太陽のように笑っていた。
雫と、驚くほどよく似た目元をしていた。
「……私の、兄です」
「……え……」
「天野 翔……。私が『サブジェクト・ゼロ』と呼んでいた、最初の被験者です」
雫は、まるで懺悔するように、途切れ途切れに語り始めた。
「兄は、あなたと同じ、才能あるスプリンターでした。ですが、彼も『感覚』の壁にぶつかった。私は、彼を助けたかった。私が学んだ物理法則(システム)で、彼を9秒台に導きたかった」
彼女の指が、別のファイルを開く。
そこに映し出されたのは、風洞実験室で、苦悶の表情を浮かべる兄の姿だった。
「……兄は、私を信じてくれた。彼は、自分の『感覚』を殺し、システムのデバッグを全て受け入れた。……そして、彼は、9秒台を達成した」
「……!」
「ですが……その、たった一度の走行で」
雫の声が、震える。
「彼の**弾性(Elasticity)を失った筋肉は、システムの要求する仕事率(Power)**に耐えきれなかった。応力のバグが、彼の両足の腱と、膝の靭帯を、同時に破壊(クラッシュ)させたんです」
俺は、息を飲んだ。
アキレス腱断裂どころじゃない。それは、再起不能どころか、日常生活さえ危うい、完全な「破壊」だ。
「……それ以来、兄は二度と走れません。彼は、今も、あの病院のベッドの上です」
雫の瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。
彼女の、初めて見る感情だった。
「私は、証明しなければならない」
彼女は、涙を乱暴に拭った。
「兄の感覚(OS)が間違っていたんじゃない。私のシステム(物理)が、まだ不完全だったんだと! あなたが成功すれば、それが証明できる……そう、思ったのに……」
俺は、全てを理解した。
俺は、彼女の兄の「代替」だった。
彼女の歪んだ、物理法則への信仰を証明するための、実験台だったんだ。
「……ふざけるな」
俺は、ベッドのシーツを強く握りしめた。
「……ふざけるなよ、天野!」
俺は、痛む体を無理やり起こした。
アキレス腱が断裂した足が、燃えるように痛む。
「あんたは……何も分かってない」
「……!」
「あんたの兄貴も、きっと俺と同じだ。俺たちは、マシンになりたかったわけじゃない! ただ……速く、走りたかっただけだ!」
俺は、彼女を睨みつけた。
「あんたの理論は、間違ってる。
物理法則が、俺たちを走らせるんじゃない。
――俺たちが、物理法則を『使って』走るんだ!」
俺のその言葉に、雫は、まるで初めて聞く言語を聞いたかのように、目を見開いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます