第11章:応力(アラート)の翻訳
リハビリ室は、汗の匂いと、ゴムの焦げるような匂い、そして微かな湿布の匂いが混じり合っていた。
俺は、右足にまだ馴染まない最新式の歩行装具(ブレース)を装着し、ゆっくりとトレッドミルの上に立っていた。
目の前のモニターには、俺の足裏にかかる圧力分布が、リアルタイムで色分けされて表示されている。
「……黒田さん。プログラム、フェーズ1-Bを開始します」
雫が、無機質な声で宣言する。
「速度、時速3キロ。シミュレーション上の目標は、『歩行時における右足アキレス腱接合部への**応力(Stress)**を、左足の120%以内に抑制する』ことです」
「……了解」
俺は、唾を飲んだ。
トレッドミルのベルトが、ゆっくりと動き出す。
左足を踏み出す。問題ない。
次だ。
右足を踏み出した瞬間――ズキン、と鋭い痛みが走った。
「ぐっ……!」
「ストップ!」
雫の声と同時に、ベルトが止まる。
モニターが、警告音と共に赤く点滅した。
『ERROR: STRESS OVER LIMIT (R-Achilles: 184%)』
(エラー:応力限界超過(右アキレス腱:184%))
「……クソ……」
俺は、手すりを強く握った。
たった時速3キロ。歩いているだけだ。
それなのに、体(OS)が、まだ「走っていた」頃の感覚を忘れられず、無意識に地面を蹴ろうとしてしまう。
その結果、応力が、まだ脆い接合部に集中する。
「痛いか、黒田」
ベッドサイドに、いつの間にか京介が立っていた。
リハビリ室のコーチが、見舞いだと通してくれたらしい。
「……京介」
「痛えだろ。やめちまえよ、そんなもん。お前はもう……」
「黒田さん」
雫が、京介の言葉を遮った。
彼女は俺の前に回り込み、震える右足を指差した。
「その『痛み』は、あなたのOSが発するアラートです。バグじゃない。今、あなたが『感覚』で踏み込んだ一歩が、物理的にどれだけ非効率だったかを、OSが教えてくれているんです」
彼女は、タブレットを操作した。
モニターの映像が切り替わる。俺の歩行フォームと、骨格モデルが並んで表示された。
「あなたの『感覚』は、まだ運動エネルギーを前方に推進させようとバグを起こしている。ですが、今のあなたのハードウェア(体)に必要なのは、位置エネルギーを利用した、重心の真下への自然落下です」
「……重心の、落下……?」
「物理における『歩行』とは、制御された『転倒』の連続です。足を前に出すのは、転ばないため。前に進むためじゃない」
意味が、分からない。
だが、雫は構わず続けた。
「あなたのOS(感覚)が発した『痛み』というアラートを、私のシステム(物理)が翻訳します」
彼女は、俺の前に立った。
「いいですか。蹴るな。踏み出すな。――ただ、前に倒れろ」
「……は?」
「倒れれば、あなたのOSは『危険』と判断し、無意識に足を前に出す。それが、今あなたのハードウェアにとって、最も応力の少ない、最適な一歩です」
京介が、呆れたようにため息をついた。
「おい、天野。無茶苦茶言うな。そんなロボットみたいな動き、スポーツじゃねえ」
「黙ってろ京介」
俺は、二人を制した。
「……天野。もう一度、トレッドミルを動かせ」
「……黒田さん?」
「いいから。時速3キロ。……いや、2キロでいい」
雫は、一瞬ためらったが、静かに頷いた。
ベルトが、再び動き出す。
俺は、手すりから手を放し、目を閉じた。
感覚を研ぎ澄ます。
『痛み』というアラートに、全神経を集中する。
蹴るな。
踏み出すな。
ただ、倒れろ。
俺は、ゆっくりと、ビルのように、体を前に傾けた。
左足一本で、体が支えきれなくなる一点。
OSが「危険だ!」と叫ぶ。
その瞬間、俺は、ただ、右足をその「転ぶ先」に、置いた。
トン、と軽い音がした。
痛み(アラート)が、来ない。
モニターの数値が、緑色に変わる。
『STRESS: 98% (Stable)』
(応力:98%(安定))
「……すごい……」
リハビリのコーチが、小さく声を漏らした。
京介が、信じられないという顔で、俺の足元とモニターを見比べた。
俺は、目を開けた。
一歩。また一歩。
赤ん坊のように、ぎこちない。
だが、これは紛れもなく、俺が「物理」を理解し、俺の「感覚」で使いこなした、最初の一歩だった。
「……これが」
俺は、雫を見た。
「これが、あんたの言ってた『インターフェース』か」
雫は、タブレットを握りしめたまま、小さく、だが力強く、頷いた。
その目には、俺が初めて見る、確かな「光」が宿っていた。
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そのフォーム、力学的に「バグ」ってます。 もしもスポーツ選手が力学を学んだら。 もしもノベリスト @moshimo_novelist
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