第8章:10秒03の代償

「これが、あなたの『ねじれ』を補正するパッチです」

雫に渡されたアシンメトリーなリストバンドは、まるで手錠のように冷たかった。

俺は本当に、物理法則の囚人になってしまったのかもしれない。

そんな感傷を抱く間もなく、俺は日本選手権のスタートラインに立たされていた。


肌を焼くような日差し。数万人の観客が発する地響きのようなノイズ。

何もかもが、あの小さな記録会とは比較にならない。

スタンドのあちこちで、俺の「奇妙なフォーム」を噂する声が聞こえる。


「……おい、あれが黒田だろ」

「なんだよ、あの腕振り。やる気あんのか?」


そして、隣のレーンには、和泉 京介がいた。

彼は、俺の左手首にある、奇妙なリストバンドを一瞥し、忌々しそうに顔を歪めた。

「……蓮。てめえ、まだそんな『オカルト』に頼ってんのか」

「オカルトじゃねえよ」

「どっちでもいい。お前のそのふざけた走りは、陸上への冒涜だ。俺が、ここで終わらせてやる」


京介の瞳には、かつての友情はなく、剥き出しの敵意だけが燃えていた。

俺は、何も答えなかった。

ただ、雫の言葉を反芻する。


(――第7章のパッチは、あなたの角運動量を強制的に補正します。あなたの『感覚』が抵抗しても、物理法則がそれを上書きする)


「On your marks」


火薬の匂いが鼻をつく。

俺は、静かにブロックに足をかけた。

緊張で震えそうになる唇を噛む。


(――システムを実行しろ。黒田 蓮)


「Set」


腰を上げた瞬間、スタジアムのノイズが遠のいた。

聞こえるのは、自分の心臓の音だけだ。

いや、違う。これは、雫が設計した「最適化された心拍リズム」だ。


パンッ!


号砲。

俺の体は、俺の意志を置き去りにして起動した。

作用・反作用の最大化。完璧な加速度。


(――押せ! 引け! 引き上げろ!)


京介が、必死の形相で隣を走っているのがわかる。

だが、そのフォームは力みに満ち、エネルギーを浪費している。

俺の体は、第7章でデバッグされた流体力学のプログラムを実行する。

左手首のリストバンドが、かすかな抵抗を生み出し、俺の右腕が外側に流れようとする「バグ」を物理的に補正していく。


煙の中で見た、あの気流の渦が、今、俺の体から消えているのがイメージできた。

体がブレない。

マグヌス効果による減速要因がゼロになっている。


50メートル。

京介を、完全に引き離した。

スタジアムが、信じられないものを見たかのように、一瞬静まり、次の瞬間、爆発的などよめきに変わった。


「な……なんだ、あいつは……!?」

「速すぎる!」


違う。俺が速いんじゃない。

物理法則が、速いんだ。


80メートル。

第6章で感じた、あの「抵抗(バグ)」の気配がない。

慣性モーメントは完璧に制御され、俺のエネルギーは全て前進する力に変換されている。


(――いけ)


俺は、もはやマシンだった。

ただ、ゴールラインという目標(ターゲット)に向かってプログラムを実行する、完璧なマシン。


ゴールラインを駆け抜ける。


「…………っ」


凄まじい歓声が、耳をつんざく。

電光掲示板に、タイムが点灯した。


『1着 4レーン 10秒03』


日本記録に、あとコンマ02秒まで迫るタイム。

スタジアムは、熱狂の渦に包まれた。


「……すげえ……」

俺は、自分の足を見下ろした。

やったんだ。俺は、京介に勝った。日本でトップの走りを……。


その、瞬間だった。


(――警告:**応力(Stress)**が許容範囲を超過)


頭の中で、雫の無機質な声が響いた気がした。

いや、実際に声がしたわけじゃない。

だが、右足首に、まるでガラスが砕けるような、鋭い痛みが突き抜けた。


「……あ……っ!?」


立っていられない。

俺は、トラックに膝から崩れ落ちた。


「どうした、黒田!」

「足か!?」


駆け寄ってくる係員と、呆然と立ち尽くす京介の姿が、スローモーションのように見える。


足首が、焼けるように熱い。

これが、雫が言っていた「バグ」の正体。

これが、「システム」が「ハードウェア(肉体)」にかけた、許容量オーバーの負荷。


観客席の端で、雫が静かに立ち上がるのが見えた。

彼女は、タブレットの画面を凝視している。

その顔は、勝利を喜ぶものでも、俺を心配するものでもなく――まるで、予測していた最悪の事態(エラー)が発生したのを、ただ「確認」しているかのような、冷たい無表情だった。


俺は、熱狂するスタジアムの真ん中で、激痛に呻きながら、自分が「クラッシュ」の瀬戸際にいることを悟った。

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