第3章:摩擦と空気抵抗の最適化

「……わかった。協力する」

俺は、まだ高鳴る心臓を抑えながら、ほとんど無意識に答えていた。

目の前の女、天野 雫は、怪物か、それとも魔法使いか。いや、違う。彼女が操るのは、俺たちが今まで無視してきた「物理」という法則だ。


雫は「当然です」とでも言うように小さく頷くと、タブレットに何かを打ち込んだ。


「では、契約成立です。被験体(Subject)黒田 蓮。これよりあなたのシステムデバッグを開始します。まずは、最も非効率な**摩擦(Friction)と空気抵抗(Drag)**から」


翌日、俺は雫に指定された大学の研究棟の一室にいた。

薬品のツンとした匂いと、古い紙の乾いた匂いが混じる、窓のない部屋。壁一面がサーバーラックのような機材で埋め尽くされ、中央にはトレッドミルと、それを取り囲むように無数のカメラが設置されていた。ここが彼女の研究室らしい。


「まず、これを履いてください」

雫が差し出したのは、真っ白な陸上スパイクだった。メーカーのロゴすらない、無機質なそれ。


「なんだ、これ?」

「私が設計したカスタムスパイクです。あなたの要望でソール(靴底)のピン配置を最適化できるようにしてあります。あなたの今のスパイクは、市販品の汎用的な配置。バグです」

「バグって言うな……。俺の足に一番合ってるやつなんだぞ」

「感覚ですね」と雫は冷たく言い放った。「感覚はしばしば、最適解から最も遠い場所にある。あなたは地面を『蹴る』のではなく『掴む』イメージが強い。だからピンが長い。結果、接地時間が増加し、摩擦力を推進力に変換する効率が著しく低下しています」


言われるがままに白いスパイクを履く。足を入れた瞬間、違和感が走った。ソールの金属プレートが、いつもより硬く、足の裏に突き刺さるように感じる。


「硬い……。こんなのじゃ走れない」

「走れます。その硬さ(剛性)こそが、あなたの力積をロスなく地面に伝えるために必要なんです。いいから、走ってください。データが欲しい」


トレッドミルの上で走り出す。

硬い。硬すぎる。まるで鉄板の上を素足で走っているようだ。


「ダメだ、これじゃ……!」

「黙ってデータを寄越しなさい」


雫はコントロールパネルを操作し、トレッドミルの速度を上げた。

「うわっ!」

俺は必死に腕を振る。だが、どうだ。

走り続けるうちに、違和感が別の感覚に変わっていく。

いつもならフニャリと沈み込むはずの足元が、硬いプレートによって、トン、トン、とリズミカルに、力強く弾き返してくる。


「……! なんだこれ、進む……!」

「プレートの弾性が、あなたの着地の衝撃(位置エネルギー)を、前進する運動エネルギーに高効率で変換しています。いいデータが取れました。次は空気抵抗です」


雫はトレッドミルを止め、俺の腕の振りを撮影したスロー映像をモニターに映し出した。


「黒田さん。あなたはなぜ腕を振るか、説明できますか?」

「……リズムを取るため、とか……体を前に運ぶため、だろ?」

「不正解」と雫は切り捨てた。「腕振りは、足の回転によって生じる上半身のブレ、すなわち『回転しようとする力(モーメント)』を打ち消すためのカウンターです。そして、あなたのそれは、非効率なバグの温床です」


モニターに映る俺の腕は、力強く「横」に振られていた。コーチには「腕を振れ!」といつも怒鳴られる部分だ。


「この横振り。これが最悪です。自ら空気抵抗の壁を作り出し、さらに上半身を左右にブレさせて重心を乱している。あなたは100メートル走る間に、101メートル分の抵抗を受けて走っているようなものだ」

「じゃあ、どうすれば……」

「振るな、とは言いません。振る方向(ベクトル)を変えます」


雫は俺の隣に立つと、自分の腕を「前」ではなく、「縦」に、ほとんど肘を固定したまま振り子のように動かした。


「肩甲骨を支点に、腕を『引く』。振るのではなく、『置く』。角運動量を最小化し、空気の壁を切り裂くイメージで」


俺は彼女の奇妙な動きを真似た。

アスリートとは到底思えない、ロボットのようなぎこちない動き。だが、これを意識して再びトレッドミルで走ってみると、またしても驚愕が待っていた。


(……風が、ない)


いつも顔面に叩きつけてくる風圧が、明らかに弱い。

抵抗が少ない。体が、まるで滑るように前に進む。


「どうです? これが、流体力学に基づいた最適解です」


その日の終わり。俺は研究室の床に大の字になっていた。

たった数時間。俺が何年もかけて作り上げてきた「感覚」は、この女によって、冷たい物理法則の前に木っ端微塵に打ち砕かれた。


だが、不思議と、絶望はなかった。

足元には、俺の体を弾ませた硬いスパイク。

腕には、空気を切り裂いた新しい感触が残っている。


「……なあ」

「何ですか」

「あんた、すごいな」


雫は、無数のデータが流れるモニターから目を離さず、呟いた。

「すごくはありません。ニュートンとベルヌーイが偉大だっただけです。私は、彼らの発見した法則のバグを修正(パッチ)しているに過ぎません」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る