第2章:作用・反作用のデバッグ

「……デバッグ、だと?」

俺は、目の前の女が何を言っているのか本気でわからなかった。

夜風がトラックを吹き抜ける。ひんやりとした空気が、火照った体にまとわりついた。遠くで、大学の時計台が10時を打つ重い鐘の音が響く。


天野 雫と名乗った女は、俺の混乱を意にも介さず、タブレットを操作している。


「物理システム、黒田 蓮。あなたの現在の状態は、出力(パフォーマンス)が入力(トレーニング)に対して不釣合いに低い。これはシステム内部に非効率なプロセス、すなわち『バグ』が存在することを示唆しています」

「システムって……俺は機械じゃねえ」

「いいえ」と雫は即答した。「あなたは美しい機械です。骨という剛体、筋肉という弾性体、それらを繋ぐ関節(ジョイント)で構成された、極めて高度な物理システム。それなのに、あなたは非科学的な精神論という『バグ』に汚染されている」


彼女の言葉には、体温がなかった。アスリートへの敬意も、努力への共感もない。ただ、目の前の「問題」を分析する研究者の目だ。


「さっき、あなたは作用・反作用の法則を活かせていないと言ったな。どういう意味だ」

俺は、藁にもすがる思いで聞いた。気合が足りない、フォームが悪い、そんな曖昧な言葉とは違う、初めて聞く「具体的な指摘」だったからだ。


「簡単なことです」

雫はこともなげに言って、スタンドから降りてきた。彼女は俺の横を通り過ぎ、スタートブロックの前にしゃがみ込む。細く白い指が、無造u3055にブロックの金属部分に触れた。冷たいだろうに、彼女は気にする素振りも見せない。


「ニュートンの運動第3法則。あなたは地面を蹴るから、前に進む。いいえ、違います。あなたは地面に力を加えるから、地面があなたに『同じ大きさで反対向きの力』を返してくる。その反作用だけが、あなたを前進させる唯一の**力(Force)**です」

「……そんなの、当たり前だろ」

「当たり前を、実行できていない」


彼女は立ち上がり、俺のスタートブロックの角度を調整し始めた。カチ、カチ、と金属のラチェット音が響く。


「あなたのブロック角度は50度。高すぎます。これでは、あなたの力は『下』に逃げている。地面は『上』にあなたを押し返す。あなたはスタートダッシュという貴重な局面で、空に向かってジャンプするエネルギーを無駄遣いしているんです」

「でも、この方が力が入る……」

「それは錯覚です」と雫は遮った。「必要なのは『力が入る感覚』ではありません。『最大の推進力を得る事実』です。角度を40度に変更します」


40度。いつもよりずっと低い。こんな角度では、力が逃げてしまう気がした。


「いいですか。一度だけ、私の指示通りに走ってください」

彼女は数メートル先に立つと、タブレットを構えた。

「全力で走る必要はありません。ただ、ブロックを『真後ろ』に蹴る、その一点だけを意識してください。力を加えるのは『時間』ではなく『ベクトル』です」


意味がわからない。だが、俺はもう、自分の感覚を信じることができなかった。

スタートブロックに足をかける。いつもより低い角度が、足首に違和感をもたらす。


(……真後ろに、蹴る)


セット。

息を止める。

スタート。


ドンッ!


「なっ――!?」


信じられないことが起きた。

ブロックを蹴った瞬間、体が「前に」撃ち出された。

いつも感じる「よいしょ」というタメじゃない。まるで背中を巨大なバネで突き飛ばされたような、暴力的な加速度。


俺は、自分の加速に足が追いつかず、三歩目で無様にバランスを崩して転びかけた。


「……なんだ、今のは……」

「30メートル地点までのスプリットタイムです」


雫がタブレットの画面を俺に向けた。

そこには、俺がこれまでの人生で一度も見たことのない数字が表示されていた。


「――4.02秒」


自己ベストより、コンマ1秒も速い。

30メートルの時点で、0.1秒。

陸上の世界では、それは「永遠」と呼んでもいいほどの差だ。

たった、ブロックの角度を10度変えただけで。


俺は、自分の足と、目の前の女を交互に見た。

心臓が、恐怖に近い速さで高鳴っている。


「これが、物理……」

「いいえ」と雫は首を振った。「これは『デバッグ』の第一段階に過ぎません。あなたの体には、まだ無数のバグが残っています」


彼女はタブレットに何かを打ち込みながら、事務的な口調で言った。

「黒田さん。私の研究に協力する気になりましたか? あなたを被験体として最適化すれば、日本最速はもちろん、世界も見えてくる。私の計算が正しければ」

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