第4章:重心とエネルギーという名のバグ
「……パッチ、か」
俺の呟きは、がらんとした研究室に吸い込まれた。
数日前まで、俺のすべてだった「感覚」という名のOSが、この女の手で根こそぎ書き換えられていく。恐ろしいほどの速度で。
翌週、俺は雫の指示で、腰と両足首にモーションキャプチャ用のマーカーを装着させられていた。
「黒田さん。あなたのスタート(加速度)と終盤の減速(空気抵抗)は、応急処置(パッチ)を当てました。ですが、あなたのフォームには最大のバグが残っています」
「最大……?」
「中間疾走における、**エネルギー保存の法則(Law of Conservation of Energy)**の完全な無視です」
雫はそう言うと、トレッドミルでの俺の走行データを立体的なスティックピクチャー(棒人間)で再生した。
俺の棒人間が、必死に走っている。
「ここを見てください」
彼女が指差した先、俺の「腰」を示す点が、走っているあいだ中、激しく上下に波打っていた。
「重心(Center of Gravity)のブレ。あまりにもひどい。あなたは前に進みたいのに、自分の体重をわざわざ上下に運ぶという無駄な仕事(Work)に、貴重な運動エネルギーを浪費している」
「……でも、地面を強く蹴らないと、進まないだろ」
「また感覚ですか」と雫は眉をひそめた。「その『強く蹴る』という感覚こそが、あなたを減速させている元凶です」
「……は?」
「いいですか。あなたの足が、あなたの重心より『前』で着地した瞬間、あなたの体には何が起きますか?」
「……そりゃ、衝撃が……」
「ブレーキがかかります。あなたは全力で走りながら、一歩ごとに、自分で自分にブレーキをかけている。非効率にもほどがある」
彼女は、俺のフォームをコマ送りで見せた。
確かに、俺の足は、必死に前へ前へと投げ出され、体の重心より少し前で地面を捉えていた。良かれと思ってやっていた、「ストライドを伸ばす」ための動きだ。
「あなたは、高く上げた足が持つ位置エネルギーを、前進するための運動エネルギーに変換できていない。むしろ、進行方向と逆向きの**力(Force)**を生み出し、エネルギーを殺している。これがあなたの『10秒51の壁』の正体です」
俺は言葉を失った。
良かれと思ってやっていたことが、すべて裏目に出ていた。
「じゃあ……どうすればいいんだよ。蹴るな、ってのか」
「蹴る、という概念を捨てなさい」
「……はあ!?」
「今あなたに必要なのは、地面を『押す』仕事ではありません。足を『引き上げる』仕事です。それも、可能な限り短い時間で。すなわち、**仕事率(Power)**の最適化です」
意味がわからない。
だが、雫は構わず、俺に奇妙なドリルを命じた。
「その場で、足を交互に、素早く引き上げてください。いいですか、地面を『踏む』のではありません。熱した鉄板に触れてしまったかのように、地面から足を『離す』。その速度だけを意識しなさい」
言われるがままに、その場で足踏みをする。
「違う。遅い。慣性の法則に逆らい、筋肉の弾性を使って、瞬時に足を引き上げる!」
パン、パン、パン!
雫が手を叩くリズムが、異常なまでに速くなっていく。
俺は必死に足を入れ替える。まるでタップダンスだ。
「そう。その角運動量を殺さず、そのまま前進に転換する!」
訳が分からないまま、俺は研究室の床をタタタタッ、と走った。
いや、走ったというより、「移動した」という方が近い。
いつもの「グッ、グッ」と地面を押す感触がまったくない。ただ、足が高速で入れ替わるだけ。
「……なんだ、これ……全然、力が入らねえ……」
「入っています。あなたの**質量(Mass)を、最短時間で動かしている。これこそが、最大の仕事率(Power)**です」
雫は、俺が今走った数歩のデータを表示した。
そこに映し出された「接地時間」の数値を見て、俺は目を疑った。
「……0.08秒……?」
トップスピード時の俺の接地時間は、0.12秒前後。
それが、0.08秒。
コンマ04秒。
俺の足は、0.04秒も速く、地面から離れていた。
「ブレーキをかけていた時間が、それだけ短縮されたということです」
もう一度、トレッドミルに乗る。
カスタムスパイクを履き、例の「振らない」腕振りを意識する。
そして、今教わった「蹴らない」足の引き上げを実行する。
(……気持ち悪い)
体がバラバラだ。
硬いスパイクが足を弾き、腕は勝手に前後に動き、足は地面に触れた瞬間に引き上げられる。
俺の意志が介在しない。まるで、物理法則という名のプログラムに、俺の体が乗っ取られたようだ。
「……う、おおおおおっ!」
モニターに表示される速度計の数字が、俺の知らない領域に突入していた。
40km/h……41km/h……42km/h……!
「黒田さん」
トレッドミルがゆっくりと停止する。
俺は膝に手をつき、荒い息を繰り返した。
「あなたのバグは、ほぼ修正(デバッグ)されました」
振り返ると、雫がタブレットを凝視していた。
その無機質だった横顔に、初めて、研究者としての興奮と呼べる何かが、わずかに滲んでいるように見えた。
「あとは、この最適化されたシステムを、実戦(フィールド)でテストするだけです」
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