ハロウィンの落とし物

よし ひろし

ハロウィンの落とし物

 一日中モニターとにらめっこして疲弊した目を擦りながら、俺は会社を後にした。金曜日の夜。解放感に満たされるはずの心は、どんよりとした疲労に支配されている。池袋駅に向かう道すがら、やけに騒がしいとは思っていたが、その原因はすぐに知れた。


「トリック・オア・トリート!」


 奇抜な衣装に身を包んだ若者たちが、けたたましい笑い声をあげながら俺の横を通り過ぎていく。ああ、そうか。今日はハロウィンか。ゾンビ、魔女、アニメのキャラクター。現実感を失ったカラフルな光景が、モノクロームな俺の日常を嘲笑うかのように流れていく。興味もなければ、参加する気力もない。俺はただ、満員電車に揺られて家に帰り、冷えたビールを呷ることだけを考えていた。


 人波をかき分けるように歩いていると、ふいに肩を叩かれた。


「あの。すみません」


 振り返ると、そこに一人の女性が立っていた。年の頃は俺と同じくらいだろうか。透けるように青白い肌をした、綺麗な顔立ちの女性だった。だが、その姿は異様だった。オフィスで着るようなありふれたビジネススーツ姿なのだが、その白いブラウスやジャケットのあちこちに、べったりと赤黒い染みがついている。まるで、ペンキか何かをぶちまけたかのようだ。


(手の込んだコスプレだなぁ)


 あまりのリアルさに、一瞬だけ感心してしまった。おそらく、ゾンビか何かの設定なのだろう。ハロウィンゾンビというやつだな。そんなゾンビが力なく微笑み、か細い声で続けた。


「私の落とし物、知りませんか?」

「落とし物、ですか?」


 聞き返しながらも、頭の中では「知らないですよ」と即答していた。こんな雑踏の中で、他人の落とし物など気にかける余裕はない。しかし、彼女のどこか切実な眼差しに、無下にもできず、つい興味本位で尋ねてしまった。


「何を落としたんですか?」


 すると、女性は虚ろな目で俺を見つめたまま、おもむろに左手を胸の高さまで上げた。そして、こう言ったのだ。


「手首から先が、見当たらないの」


 彼女が上げた左腕。その袖口から覗くべきはずのものが、なかった。あるべき場所に手はなく、そこからは、まるで精巧な模型のように、骨の断面や生々しい肉、そして引きちぎられたような血管が見えていた。スーツについた染みは、ペンキなどではない。本物の、血糊だった。


「ひっ…!」


 喉から、自分のものではないような引き攣った声が出た。リアルすぎる。リアルすぎて、脳が理解を拒む。


 ――これはコスプレなどではない!


 俺は次の瞬間、絶叫に近い悲鳴を上げていた。


「知らないッ!」


 背後で女性が何かを言ったような気がしたが、振り返る余裕などなかった。俺はただ一心不乱に、人をかき分け、突き飛ばし、駅へと駆け込んだ。


「はぁ、はぁ……」


 肩で息をしながら、ようやく駅に辿り着いた。心臓が今にも張り裂けそうだ。改札を抜け、人の多さに少しだけ安堵する。


「何だったんだ、あの女……」


 ほっと一息ついたのも束の間、構内に響き渡るアナウンスが俺の耳に届いた。


「――ただいま、山手線は、人身事故の影響により、運転を見合わせております」


 またか。忌々しい舌打ちが漏れる。早く帰りたいというのに。ホームは電車を待つ人々でごった返し、誰もがうんざりした顔で電光掲示板を見上げていた。俺もその一人に加わろうとした時、近くで話している男女の会話が聞こえてきた。


「飛び込んだの、若い女の人だったらしいよ」

「うわ、まじか…。なんでも、体がバラバラになっちゃって、まだ一部が見つからないから探してるって……」


 ――体の一部が見つからない?


 その言葉が、凍りついた俺の脳に突き刺さる。


「まさか……。そんなはずはない――」


 震える手でスマートフォンのニュース速報を確認する。


『【速報】JR池袋駅で人身事故。スーツ姿の若い女性がホームから転落か』


 ――スーツ姿の、若い女性!?


 そして、周囲のひそひそ話が、俺の耳に嫌でも届いてくる。


「なんでも、見つからないのって、左手の手首から先らしいぜ……」


 全身の血の気が、一瞬で引いていくのがわかった。背筋を冷たい汗が流れ落ちる。さっきの女性。青白い顔。スーツについた血。そして、失われた「手首」。


 あれは、コスプレなんかじゃなかったんじゃ……

 俺に声をかけてきたあの女性は――


「みぃ、つけた」


 すぐ背後で、あの、か細い声がした。


「ひぃっ!」


 俺は、もう振り返ることができなかった……



おしまい

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ハロウィンの落とし物 よし ひろし @dai_dai_kichi

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