第19章 罪の選択
ある夕暮れ、キュリアの家で激しい言い争いが巻き起こっていた。
きっかけは――女の勘だった。
いつもと違う雰囲気。そして、甘ったるい香り。
違和感を抱いたキュリアの巧みな誘導尋問に、グリナスはついに言葉を詰まらせた。
「あなた……まさか、本当にマーリンと関係を持ったの!?」
その声には怒りと、かすかな哀しみが滲んでいた。
そして、震えるような声で続ける。
「……愛してるの?」
グリナスは深いため息をつき、語気を強める。
「違う。何度も言っただろう。利用してるだけだ。
俺たちがこの世界でのし上がるには、どうしてもマーリンの魔法が必要なんだ。
お前も、それくらい分かってるはずだろう!」
「……そんな言い方、あなたらしくない……っ」
キュリアの唇がわずかに震える。
「私は、あの時間が好きだった。退屈で、変わらない日常だったけど……それでも」
カッと、グリナスの眉間にしわが寄る。
「その結果どうなった? 野党どもの慰み者になる未来が、お前の望みだったのか!?」
「違う!聞いてグリナス!
たしかに私たちは弱いけど、それでも必死に生きていこうって……
そういう気持ちを、忘れてほしくないの!」
「俺は……弱くなんかない!!」
――ガシャン!!
グリナスは手にしていたコップを、壁に叩きつけた。
乾いた音が部屋を裂く。
その衝動も早々に、キュリアを一瞥することもなく背を向ける。
「待って! グリナス!」
キュリアの叫びが届く前に、
グリナスは扉を乱暴に開け、たたきつけるように出ていった。
バタン、と重たい音が部屋に残る。
取り残された空気の中で、キュリアは小さく震える。
──夕暮れ。
グリナスは宛てもなく歩いていた。
赤く染まった街並みも、通り過ぎる人々も、すべてが遠く感じる。
足音だけが、自分がまだここにいると告げていた。
広場ではエルグが子供達を説教していた
「いいか!これに懲りたら二度と悪さするんじゃないぞ!」
「…はーい」
子供たちがぼとぼと退散していく。
「何かあったのか?」
グリナスは子供たちに目を向けたままエルグに話しかける。
「まったく…セッツ爺さんの煙突に石、詰めやがってな」
「…そっか」
グリナスの返事がどこか上の空で、エルグは眉をひそめた。
「何か…あったのか?」
グリナスは答えない。
エルグはため息をつく。
「腹、減ってんだろ。…たまには、俺がおごってやるよ」
夜の食堂は、開店したばかりで閑散としていた。
照明はまだ半分しか点いておらず、厨房の奥では誰かが鍋を叩く音が響いている。
エルグは会話が聞かれづらい壁際の席を選び、グリナスを促す。
「ここなら、聞かれない」
グリナスは目を閉じた。
エルグは信用できる男だ。
きっとわかってもらえるだろう。
「エルグ……もし、魔法が手に入るとしたら、なにがしたい?
しかも、まがい物じゃない。マーリンの魂そのものと言ってもいいような――本物の力を、だ」
エルグはきょとんとしたまま、言葉を失った。
ビールの泡が髭にくっついたまま、それをぬぐうことすらできない。
村人の中でも、エルグは特にマーリンと話す機会が多かった。
よく笑うようになったこと。自分の“便利屋”としての技術に興味を持ってくれていたこと。
それらはすべて、グリナスとの関係が良好なおかげだと思っていた。
だが今、目の前のグリナスは、かつて見たことのない真剣な目をしている。
エルグは、背筋が自然と伸びている自分に気づいた。
――今日は、冗談でごまかす日じゃない。
「魔法を手に入れたら…か。そうだな…まずは人の役に立つことをしたいな。例えば、ひたすら人が便利になるためとか。そういうことに魔法を使いたい。」
エルグらしいなと思いつつも、グリナスは自分の野望で頭がいっぱいだった。
「俺は…みんなを守りたい。マーリンがやったように、襲いかかってくる奴らを——植物の力で、蹂躙してやるんだ。」
グリナスの言葉には、あの夜の記憶が滲んでいた。
エルグは目を伏せた。
(やはり忘れられるはずがない…か。)
あれほど実直に生きてきた男が、たった一夜で、すべてを奪われかけたのだから。
「気持ちはわかるが……魔女の伝説ってのは、そんな都合よくはいかないかもしれんぞ。力を受け継いだが最後、死ぬことさえ許されないって噂もある」
「わかってるさ。でも――もし、“都合のいい部分だけ”を受け取る方法があるとしたら?」
「そしてうまくいけば…莫大な富を築けるかもしれない。」
エルグの目が光る。
「…あるのか?そんな方法が?」
グリナスはマーリンから手渡された文献を広げた。
「これは…」
「魔女の核継承の概要だ。これによると——」
グリナスは指先である一文をなぞる。
「魔女の力──すなわち“核”の正式な譲渡は、そのすべてを引き継ぐ資格を持つ者に限られる。ただし、“核の一部”を割譲するという限定的な形も存在する。その場合、継承は不完全となり、契約の拘束力も大きく弱まる……そう記されている」
エルグが目を見開く。
「つまり、“全部”じゃなくて“一部だけ”渡すのは、正式な契約にはならないってことか?」
「その通りだ。そして、その“一部”さえあれば、魔法の再現は十分に可能になる」
グリナスはページをめくりながら続ける。
「正式な継承者でなければ“核”を安定して維持できないともある。ただ、“断片”については記述が少ないが……信頼関係にある者同士であれば共有は可能、という見解も併記されていた。そこは、お前とキュリアに頼りたい」
エルグは眉をひそめたまま、口を閉ざす。
グリナスの提案を受け止めながらも、表情は沈んでいた。
「……でも、マーリンがそんなこと、承諾するわけがない」
グリナスは静かに頷いた。
「信じさせるんだ。“魔力を体に馴染ませるための準備”だと。あいつはもう俺を信じ切ってる。心の奥まで、疑いなく」
「……」
エルグは言葉を失う。
グリナスは静かに言った。
「俺たちは、もう十分に耐えてきた。あのまま踏みにじられて終わる人生なんて、まっぴらごめんだ」
「魔法があれば、世界が変わる。金も、女も、名誉も……お前を“ただの便利屋”扱いしてた連中も、いずれ頭を下げるようになる」
バッと顔を上げたエルグ。
エルグの瞳に強く野心が浮かび上がるのを、グリナスは見逃さなかった。
「俺がマーリンから“核の一部”を引き出す。形式上は“簡易契約”だと信じ込ませて。」
「そのうえで、本契約を起動する。“一部しか渡さない”──その行為を、魔法体系に“裏切り”として誤認させる。……それが、俺の賭けだ」
エルグは眉をしかめる。
「そんな不確かなことに賭けるのか? 本当に可能かもわからんし……失敗したら、ただじゃ済まないぞ」
「もとより承知だ。」
「俺は……あの夜、死んだのだから」
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