第50章 異次元

少女が、暗い空間に浮かんでいた。

重力も音もない。

ただ、冷たい光が遠くで瞬いている。


その瞳には、涙が浮かんでいた。




「……ママ……」




その小さなつぶやきに、タケルの胸が締めつけられる。

怒りと悲しみが、同時に押し寄せてきた。




(この世に……あんな悪魔が、本当にいるなんて……!)


拳を握りしめ、タケルは嗚咽を飲み込んだ。

そして同時に、猛烈な後悔が襲う。




——なぜ、俺は。

もっと遊んでやらなかったのか。

もっと笑って、もっと話してやれなかったのか。


自分の中の「優しさ」という部分が、崩れ落ちていくのを感じた。




その時だった。




タケルの耳に、聞き慣れない声が“直接”流れ込んできた。




“やあ、タケル。”


(……!? だ、誰だお前は!)




“僕はこの世界そのもの……そうだな。君たちの言葉で定義するなら——異次元の波、かな。”


(異次元の……波?)




“そう。僕には実体がない。力と意識が混ざり合ったような存在だ。この子と君が完全につながったことで、私は君という“知性”を獲得できた。”




(いいよそんな理屈……こんなもの見せやがって、何のつもりだ…)




“まぁ、聞きなよ。”




声は柔らかい。

だが、その奥には体温の欠片すらなかった。



タケルの心に直接響くその声は、空気ではなく——存在そのものを震わせていた。




(……)


“この子はね、君と同じ。異次元の亀裂に落ちてきた存在なんだ。”


(……落ちてきた? 俺と同じ……?)


“そう。僕は、僕という単独の存在では実体を持てない。

 ただの、波。思考と力の集合体にすぎないんだ。

 そこに、偶然この子が落ちてきた。”




(……)




“この子は度重なる暴力によって視界に異常があったらしくてね。

 眼球の内側に常に出血があり、世界のすべてが——赤く見えていたんだ。”




声がわずかに震えた。

無機質なその響きの中に、初めて“痛み”のようなものが混じる。




“……それも、君の知性を通して初めて理解したことなんだがね。”




(すべてが、赤く……)




“突然現れたこの子の思考によって、僕という存在は“赤い世界”として定義されてしまった。彼女が見ていた現実——それが僕の“形”になったんだ。”




タケルの目の前で、空気が軋んだ。

遠くの暗闇が波打ち、空間そのものが脈を打つ。




——ドン。




重低音のような振動が響いた瞬間、

少女を中心に世界が“赤”へと変わった。




空は燃えるように赤く、地は血のように濁る。

風は止まり、雨がゆっくりと降り始める。



その一滴一滴が、痛みの記憶のように地面へ染み込んでいった。


まるで——少女の絶望そのものが、宇宙の構造を書き換えていくかのようだった。




タケルは立ち尽くし、言葉を失った。

この世界は、誰かが作った罰などではない。

ひとりの少女が、かつて見ていた“世界の色”そのものだった。




少女はこちらの存在に気づくことなく、孤独に絶望しながらも、必死に歩き回っていた。




「うわーん! パパぁ! ママぁぁ!!」




赤い空に響くその声は、悲鳴というより祈りに近かった。

タケルは涙を流しながら、ただ立ち尽くすことしかできなかった。




“ひどい話だよ。せっかく自我をもらったってのに、獲得した知性が幼すぎて、

僕はこの子に何もしてあげられなかった。だからせめて——”




ポン、と軽い音が響いた。




少女の服が、赤いワンピースへと変わった。

その傍らには、小さな犬小屋のような寝床。




“僕は意識を通して、この世界でできることを可能な限り伝えようとした。

けれど、小さすぎる女の子には脳のキャパが足りなかったんだ。

言葉じゃなく、感覚でしか伝えられなかった。”




タケルは、犬小屋の中で膝を抱えてすすり泣く少女を見つめた。

何も言えなかった。

慰めの言葉すら、この空間では意味を持たない。




“少女はこのまま、50年という時間を、ここで生き続けた。”




タケルの目が見開かれる。

(……な、なんだって……?)




“この子は、次元の力をこの小さな身体に宿してしまった。

そのせいで、歳を取ることも、脳が成長することもできない。”

“つまり——常に“幼い感受性”のまま、孤独を味わいつくしていたんだ。”




(そ、そんなこと……耐えられない……!!)




“そう。すごい子だよ。

忍耐強く、誰かが来てくれることをひたすら信じ続けていた。

“”毎日、誰かを “”






その言葉を聞いた瞬間、タケルの目から再び涙が溢れた。


(ま、まさか……その時に……おれが……)


“そう。君だ。

君もまた、次元の裂け目に落ちた、人類史上二人目の——“次元迷子”なんだよ。”


タケルの胸が、強く鳴った。



鼓動が耳の奥で反響し、世界の輪郭が一瞬だけ歪む。




——そして次の瞬間、



目の前の空間が裂け、ひとりの“男”が落ちてきた。


空間を切り裂くような閃光。



その中から現れたのは、紛れもなく自分自身——もう一人のタケルだった。




少女は、反射的にその落下地点へと駆け出した。

小さな足で、息を切らしながら。

その背中には、純粋な“希望”だけが宿っていた。

まるで、長い孤独の果てに見つけた光を追うように。




“君という存在には、この次元を通して、

第二の次元の力を限定的に付与された。”


(……第二……?)




“そう。

だが、この時はまだ僕とのつながりが弱くてね。

この少女以外の存在とは、完全には接続できなかった。”




声が、徐々に不安定になっていく。

まるでノイズのように、文節が途切れながら続いた。




“そして——それは、起きてしまったんだ。”


(起きた……? まさか……)


“そう。現世の召喚だ。”




タケルの脳裏に、断片的なイメージが見えてくる。



赤い空。崩れた東京。



そして——少女が手を伸ばした瞬間。




“この少女は、孤独と…君に残ってほしい一心で、

現実世界を“引きずり込む”という暴挙に出てしまった。”




(……そんな……)




“だが——この次元の構造は、人間も含めた三次元の物質を大量に受け入れられない。

この世界は、もうじき受け入れきれずに、崩壊する。”


タケルの足元が揺れた。

空間全体が呼吸するように膨張し、

無数の赤い粒子が、渦を巻きながら天へと昇っていく。



それはまるで、失われた魂たちが帰る場所を探しているかのようだった。




やがて——人の姿が現れはじめた。

光の粒から形を成し、朧げに立ち上がる。

懐古病の人間たちだ。




“君や少女と違い、現世の人間は、僕との特別なつながりがないままでは、この世界に存在できない。

その代わりに必要だったのが——”




(……悲しい思い出……)




“ご明察。”




声は淡々としていたが、どこかに痛みが滲んでいた。




“この世界に入るには、“誰かに会いたい”という強烈な思念が必要だった。

それが扉を開ける鍵になったんだ。”




タケルの目が、漂う人影に向けられる。

彼らは誰かを見つめ、呼びかけ、

しかし決して届かない。

その姿はあまりにも切なかった。




“だが——『もう満足した』と思った瞬間、その気持ちは消えてしまうだろう?”


(……っ)




“だから少女は本能的に理解してしまったんだ。

“悲しませ続けないと、誰も一緒にいてくれない”ってね。”




タケルの胸が強く疼いた。




“彼女は、たくさんの人を呼び寄せたかった。

けれど、幸福では誰もここにいられない。

だから——悲しみを使って引き止めるしかなかった。”




(……そんな……そんな理屈が……)




“だが…こんな小さな子に、そんな複雑な構造が理解できると思うかい?”




タケルは拳を握りしめた。

小さな身体に押しつけられた“理不尽”が、胸を灼くように痛かった。




少女はただ、誰かと一緒にいたかった。

それだけのために、世界を作り、

その代償として“悲しみ”を燃料にしてしまった。




タケルは呟いた。

「……あの子は、悲しみを与えたかったんじゃない。

 ただ、“孤独を止めたかった”だけ……」




沈黙。


赤い雨が、また静かに降りはじめた。

その一滴一滴が、まるで彼女の涙のように見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る