第49章 残酷な希望

「……やだ……やだ……やだぁぁぁぁ!!!」


少女の、泣き叫ぶ声だった。

その叫びは、壁を突き抜け、心臓を握り潰すように響く。




「うるっせぇんだよ! オラぁッ!」




怒号。

素行の悪そうな男が、小さな子供にためらいもなく蹴りを浴びせていた。




(な、なんだこれは……? おれは一体、何を見ている……!?)




タケルは言葉を失った。

自分の身体があるのかすら曖昧だ。

まるで、誰かの記憶の中を“亡霊”としてさまよっているようだった。




目の前で、少女が虐待されている。


男は四十そこそこに見えた。

黒髪は伸びかけの七三分け、寝癖と整髪料が混じって油っぽい。

煙草のヤニが染みついた指でピースをくわえ、

白いランニングに腹巻き、膝の伸びきったジャージのズボン。

——威勢だけは昔のまま、そんな腐った男の顔をしていた。


少女は床に丸まり、震えていた。

泣くのを止めようと、唇を噛み、声を押し殺している。

だが男の怒りは止まらなかった。




髪を掴まれ、顔を無理やり持ち上げられる。


「そんなにテレビが見たかったらよ、違う家に行け!

俺はいいからよ。言うことも聞けねぇ悪い子は、おうちにはいられねぇんだよ。わかるか?なぁ!」


「ごめ……ご、ごめんなさい……ごめんなさい……」

「聞こえねぇよ!」

「ごめんなさいぃ!!!」


——バチンッ!!




平手の音が部屋に響いた。

少女は床に突っ伏し、泣き叫ぶ。



「うわぁああーーーん!!!」




(なんだこいつ……!!こ、この野郎……!!)




タケルの怒りは限界を超えていた。

拳を握りしめても、身体は動かない。



叫ぼうとしても、声が出ない。


まるで“この記憶”が、彼を拘束しているかのようだった。






次の瞬間、視界が白く染まると




さらに少女の記憶の本流が流れてくる。




「おい。正座しとけ。」


「う、うん…へへ。わたしちゃんとできるよ。」




少女はふすまの中で正座を強いられている。


男は舌打ちで答えた。




バンッ!!



と、ふすまが音を立てて閉じられ、空間は闇に沈んだ。

少女の視界が一瞬にして黒く塗り潰される。


隣の部屋から、低く押し殺した声が聞こえる。


「ねぇ、あの子かわいそうだよ……」

女性の声だ。

けれど、すぐに男の怒鳴り声がかぶさった。


「いいんだよ。どうせ俺のじゃねぇ」

「……あいつが勝手に生んだんだ。誰の子かわかったもんじゃねぇ。バカだしな。」




少女の小さな身体が、ふるっと震える。



闇は怖い。


でもそれ以上に

“自分がいらない存在”だと、あの声がはっきり教えてくれるから——




「こわい……こわいよ……」

少女は、声にならない声でつぶやく。


でも、すぐに小さな唇が、かすかに動いた。



「……だいじょうぶ。ちゃんと、がまんすれば……また、ママ、戻ってくるから……」




違う。戻ってこない。

それは、子どもにだけ残された“都合のいい希望”だった。


少女は、狭い空間の暗闇で、小さく泣く。




”泣き声が聞こえたら怒られる。”



誰も来ないことを知りながら、

それでも、心のどこかで——扉の向こうを待っていた。




タケルは、少女のあまりの健気さに涙が止められなかった。

小さな身体で、こんなにも耐えて、笑おうとしている。

それなのに——この地獄は、終わる気配すら見せてくれない。




少女は日に日に痩せていった。

肩の骨が浮き、手首は細く、まるで折れてしまいそうだった。




「あら、今日はお父さんとお買い物?」

道端で声をかけてきたのは、近所のおばちゃんのように見える女性だった。


「あ、あの……わたし、ね……」


少女が必死に返そうとした瞬間、男の舌打ちが響く。

「チッ」


その音ひとつで、少女の顔は青ざめた。



タケルは息を詰める。

次に何が起こるか、もう知ってしまっている。


家に帰ると、いつもの“しつけ”が始まる。




「てめぇがちゃんと答えねえから、ご近所様ににらまれるだろうが!! ああ!?」

「ごめんなさい! ごめんなさい!!」




殴打の音。

その重さは、幼い体から聞こえていいものではなかった。




「ううう……」

「おい。正座。」

「うぅぅ……」

「正座ぁ!!!」




少女は震える足で、必死に正座をした。

その姿は、抵抗ではなく、生きるための祈りのようだった。




やがて——一時間の正座が終わる。

だが、終わりは救いではなかった。

男は少女を風呂場に連れて行き、冷たい水を浴びせた。

悲鳴はあげない。ただ歯を噛みしめる。



「濡れたまま、出るな。」



その命令を守り、少女は夜まで浴室の隅で震えていた。


少女がこっそりと部屋に戻ると、


男は布団にくるまり、いびきをかいて眠っていた。



床に座り込んだ少女の膝には、痣と血の跡が重なっている。

鼻血。涙。冷たい息。



少女は寝床を与えられず、部屋の隅に小さく座っていた。

両腕を抱きしめ、かすれた声でつぶやく。




『……ごめんなさい……わるいこで、ごめんなさい……』


その視線の先、壁には鉛筆で書かれた落書きがあった。

“ともだち”という、ぎこちないひらがなの文字。

その文字の下には、小さな笑顔のシールが数個貼られていた。




(……もう、やめてくれ……)


タケルは拳を握った。

この記憶が幻だとわかっていても、心が壊れそうだった。

怒りも、悲しみも、何も届かない。



そして、


水——いや、濁った川。



季節は冬。


雪が降り積もっている。

その川辺に、少女がいた。

痩せた身体。擦りむけた頬。


冷たい水の中に膝上まで浸からされ、ぶるぶると震えている。




「ほら、泳げ。泳げるようになりたいって言ったんだからよ。責任とって俺にやる気を見せろ。」




低く濁った男の声。

極限まで醜い“父親”の姿。

その声から放たれる圧力だけで、少女が小さくなっていくのがわかる。




「だって……こわい、やだ……パパ、やだよ……」


男の目がギラっと見開かれる


「お前が!」


男は、少女の服を強引に引き寄せ


「やりたいって言ったんだろうが!」


少女の小さな身体が、水の中へと投げ捨てられた。




バシャァン——




川面が泡立ち、赤い光を反射して砕ける。

小さな手が、水面を何度も叩いた。

助けを求めるように、掴めるはずのない“空気”を掴もうとしている。




「……はっ、はぁっ……!」



苦しげな表情。

必死に息を求めて口を開くが、吸い込むのは水だけだった。


喉の奥まで流れ込む冷たさ。

胸をかきむしり、足をばたつかせる。

その動きが、少しずつ、弱く、細くなっていく。




「やめろ……やめろ……!」



タケルは歯を食いしばった。

血が滲むほどに拳を握りしめ、全身を震わせる。




「こんな……こんな小さな子に……!」

「これが……これが“人間のやること”かよッ!!!」




怒号が虚空に響いた。

世界が、その叫びに反応するように、波紋を広げる。




——その瞬間。




少女の身体が、淡い光に包まれた。


(……!? この光……!)


タケルは目を見開く。

あの光だ。

——日本橋で見た、あの“始まりの光”と同じ。




水面がまばゆく輝き、泡が消え、

少女の姿がゆっくりと光に消えていく。



身体と白が溶け合うように、

彼女の輪郭が、痛みの中で優しくほどけていった。




やがて——視界は暗転した。

全ての音が遠ざかり、世界が黒く塗り潰されていく。



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