第40章 もう帰らなくても大丈夫


タケルが目を覚ますと、

そこは見知らぬアパートの一室だった。




「な……っ!?」



反射的に体を起こす。

心臓が暴れるように脈打つ。




周囲を見回しても、まったく見覚えがない。

自分が寝転がっていたのは、

乾いたフローリングの上だった。




横にはベッドの上で布団が乱雑に丸まっており、

反対には、小さな座椅子とローテーブルが置かれている。

テレビはなく、壁紙は薄く剥がれかけている。

生活感はあるのに、どこか“人の気配”がしない。




(……なんだここ……誰の部屋だ? あの赤い世界は?)




タケルはゆっくりと立ち上がり、天井を見上げた。


——そこで、息が止まった。


そこに“天井”はなかった。

あるのは、透明なガラスのような膜。




その向こうで、赤い雨が絶え間なく降り続いている。

雨粒が膜を叩くたびに、かすかに光がにじみ、

部屋の中に血のような赤が滲み込んでいた。




「……うそだろ」


声が震えた。



現実のようで、現実ではない。

まるで“赤の世界”が現実の形を借りて、

タケルを迎え入れたようだった。




冷たい汗が背中を伝う。

部屋の空気が、妙にぬるい。

呼吸するたび、

湿った鉄の匂いが喉にまとわりついた。




(……戻ったんじゃない。

 あの子が——生み出したのか?)




「あ。タケル、おはよう」




その声に振り向いた瞬間、息をのんだ。

少女が、赤い雨の中からこちらへ走ってくる。

雨粒が跳ねるたびに血のしぶきのように光った。




乾いたアパートの中から見るその姿は、

まるで血の海を渡ってくる亡霊のようだった。




「……これはいったい……」




少女は靴のまま、ためらいもなく部屋の中に入ってきた。

床に赤い足跡がいくつも残る。




「あのね、私がお願いしたの。

“こっちに来て”って。そしたらね——来てくれたの!」




「来てくれた……?」



タケルの喉が乾く。




「うん、人も来るの。わかるんだよ!」




ゾクリと背筋に冷たいものが走った。

(つまり、“帰れないから、向こうをこっちに呼んだ”ということか?)




タケルは言葉を失った。

こんなことを五歳の子どもが説明できるはずがない。

だが、彼女の表情には、確信しかなかった。




(“人も来る”って……どういう意味だ?)




少女は無邪気に笑った。

「これで、タケルは帰らなくてもいいんだよ!」


その笑顔が、ほんの少しだけ歪んで見えた。




「私がお願いしてね、こっちに“全部呼んでもらう”の」




その目は真剣だった。

何の疑いもなく、

まるで遊びの延長として“世界の法則”を書き換えようとしている。




タケルは言葉を失った。

理解が、恐怖に追いつかない。




赤い雨が、ガラスの天井を打つ音を強めていく。

それは、世界が軋みながら変質していく音にも聞こえた。




——赤い世界と、現実世界。

交わってはいけない二つの層が、

いま、ゆっくりと溶け合い始めていた。




そのとき、外から叫び声が響いた。


「だめだ!! ソウタ!! そのまま進んじゃだめだ!!」


「!?」




久しぶりに聞く“他人の声”。

タケルは思わず身を乗り出した。




赤い雨が降りしきる中を、

彼はためらいもなく外へ飛び出した。

足元の水たまりが血のように弾ける。




そこには、

まるで救助隊のような服を着た男がいた。

ヘルメット、酸素ボンベ、通信機。

だが、すべてがどこか歪んで見える。




「おい!! あんた!! 大丈夫か!? 落ち着け!!

 ここは危険な場所じゃない!!」




タケルは叫んだ。

だが男は、彼を見ていない。


まるで別の方向、別の“世界”を見ているようだった。




「ソウタぁ!!」


(な……この人、俺が見えていないのか!?)




「おい! しっかりしてくれ! あんた、どこから来たんだ!!」

タケルは男の両肩を掴み、激しく揺さぶった。




その瞬間、男がふっと笑った。

「よかった……ソウタ……よかった……」


虚ろな声。

焦点の合わない瞳。

まるで別の空間に存在する“何か”と会話しているようだった。




そして——

ハッと気づく。


男の足元近くで、四角い“箱”がかすかに脈動するように光っていた。

まるで心臓の鼓動のように、赤い光が淡く明滅している。

空気が熱を帯び、周囲の赤い雨の粒がその光に照らされて、血のような輝きを放った。






少女の言った通り、それからも次々と“人”が現れ始めた。

草原のあちこちで、点々と、まるで過去の断片が投げ込まれたかのように。




だが、彼らはみな同じだった。

こちらに目を向けることもなく、ただ赤い箱の前に立ち、何かを話しかけ続けている。



その声は届くが、意味はどこか欠けている。

破れた録音のように、同じ言葉を繰り返しているようでもあった。




タケルは何度も呼びかけた。

肩を叩き、前に回り込んでも、彼らの瞳は虚空を見つめたまま動かない。

彼等の世界に“こちら”という概念は存在しないのかもしれない。




——彼らは、生きているのか? それとも、幻なのか?


やがて一週間ほど経ったころだった。

“ソウタ”と呼びかけていた最初の男の輪郭が、淡く揺らめき始めた。

赤い霧が立ち上がり、肉体が溶けるように散っていく。

残された箱だけが、ぽつりと光を放ちながら、静かに脈打っていた。



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