第13章 白い髪留め

雨が、また降っていた。

防音ガラス越しでも、雨音はどこか軋んで聞こえる。

(まるで、誰かが泣いているみたいだな)




シュンのワークデスクのモニターには、「置換済み」区域の地図。

もはや街の三割が“赤”だった。

昼なのに、窓の外は夕焼けよりも濃い血のような色に染まっている。



街に点在する、大小さまざまな四角い赤色。


——“赤色空間”。



発生から五年。

わかったことは、それほど多くはない。




赤色空間の発生前には、特殊な可視光と似た弱い光線が観測される。

次に“歪み”が起こる。

空間の端がわずかに波打ち、光が鈍く反射しはじめる。

その後、赤く四角い空間が形成され、内部の湿度が急上昇し、やがて赤い雨が降り出す。




雨は、どこからともなく現れ、屋内にさえ降り注ぐ。

降り始めるまでの時間は、空間が大きいほど遅い。




そして——“キューブ”。


直径数センチの赤い立方体。

中心には、光る粒のような“何か”が揺れている。



このキューブこそ、赤色空間が危険とされる理由だった。


キューブは空間内にいる人物の記憶を読み取り、

その記憶をもとに空間ごと再構築を始める。

どんな場所であっても、「思い出の場所」や「記憶の景色」が歪んだ形で再現されるのだ。




現実の空間が“固定”されるまでの時間は、早ければ半日、長くて一日。

一度「固定」された赤い空間は、もはや誰にも破壊できない。


キューブが完全に消えてしまうからだ。




現状赤色空間を元に戻す方法は、キューブの破壊しかない。


そのキューブが消えてしまったら…


——その場所は、もう二度と元に戻らない。




「新宿C-17区域、赤色化の兆候あり。対策班は速やかに展開を。」

無機質な無線の音声が鳴る。

だが、シュンは動かなかった。




今の彼は現場ではなく、“監視”する側。


「本部、対象地点、住民の退避完了。キューブ反応、確認しました。」

部下の声が飛ぶ。



いつものように、現場は冷静に回っていた。


キューブの破壊がうまくいけば、また数日で次元は戻るだろう。

(戻ったところで、俺の何かが変わるわけじゃないが)




シュンはふと、デスクの引き出しを開けた。

中には、白い髪留めが一つ。

娘のものだった。




それを見た瞬間、胸の奥で、静かに何かが軋んだ。

妻のユイがそれを持っていた。

病室で看護師から手渡されたときの記憶が、今も悪夢のようにこびりついている。




「そろそろ帰りましょう? シュンさん。」

ナルミが声をかけた。


「ああ……」

生返事だった。




ナルミもわかっている。

シュンが“家族”を思い出しているときは、決して強く踏み込んではならない。




——けれど、この日のナルミは違った。


なぜだかわからない。

ただ、“もうこのままではいけない”という思いが、喉の奥まで込み上げてきた。




——いい加減にしてほしい。




例え奥さんや子供に恨まれようと、知ったことではない。

(この人には、この人の人生がある。)




「シュンさん。“一緒に”帰りましょう。」


「……先に帰っていてくれ。」


「いやです。一緒に帰りましょう。」




一瞬、シュンはカッとなり、声を荒げかけた。



だが、すぐにナルミの顔を見て言葉を失う。




彼女の表情が、かつてないほど悲しかった。

強く、優しく、そして脆い眼差しだった。




「……」


沈黙。

けれど、ナルミは視線を逸らさなかった。




「……わかったよ。駅まで一緒に帰ろう。」




雨音が、静かに窓を叩いていた。

まるで、二人の会話を包み隠すように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る