第12章 ナルミ
2025年。
冬の風が街を刺すように冷たかった。
消防庁特殊救助隊・第七機動分隊。
今日は現場へ出るのは別の部隊だった。
机の上には、食べかけのコンビニ弁当と冷めた缶コーヒー。
デスク脇のジャンパーは、肩口が少し擦れている。
長年使い続けてきた証だ。
「シュンさん、またコンビニ弁当ですか?」
声をかけたのは、若い女性隊員——ナルミ。
この職場でもっとも美人と評判で、天真爛漫な笑顔が印象的だった。
男性からの誘いが絶えず、一部では「小悪魔」と呼ばれている。
中には、根拠もなく「不倫狙い」などと陰口を叩く者もいた。
だが彼女はそんな噂など意に介さず、いつも飄々としていた。
シュンの方を見て、書類を胸に抱えながら柔らかく笑う。
「ナルミか。ああ。さすがにもう味の違いもわからなくなってきたよ。」
「だったら、たまには外で食べに行きませんか?」
軽い冗談のように聞こえる声。
だがその瞳の奥には、ほんの少しだけ本気の色が宿っていた。
「いや……さすがに二十七歳の女の子と飯なんか行ったら、奥さんにどやされるよ。」
「私なら“たまには羽伸ばしてこーい”って送り出しますけどね?」
軽口の中に、“引きさがらないぞ”という強い意志があった。
(この子は、なぜ俺に執着するんだろう)
ナルミのお誘いは、今に始まったことじゃない。
初めて会ったのは、彼女が二十三歳の春。
まだ本部の通信班に所属していた頃だった。
赤色空間の出現が増え始め、
連日、警報と報告が飛び交っていた時期だ。
彼女は端末越しに、現場の声を記録していた。
シュンの声も、その中の一つだった。
“シュンさんは本当に冷静で、強い人だと思いました。”
後になって彼女がぽつりとそう言ったことを思い出す。
現場を離れてからの自分が、彼女の目にどう映っているのかはわからない。
だが、あの頃からずっと——彼女は同じ距離で、自分を見ていた気がする。
(あの時の俺を知っている唯一の人間、か……)
シュンは缶コーヒーを手に取り、
冷えた苦味をひと口、喉へ流し込んだ。
「……気が向いたら、おれから声を掛けるよ。」
「あ、それ、絶対誘う気ないやつー。」
ナルミが笑う。
笑っているのに、どこか切なげだった。
空気が悪くならないための配慮だろうか。
ナルミは話題を変えた。
「それにしても……止まらないですね。赤色化現象。」
「ああ。今年だけでもう二十か所だったか。ただ、キューブの捜索が明確に目的化されたおかげで、破壊成功率は上がってきてる。」
「でも、まだ“完全な収束”には程遠い……ってことですよね?」
「そうだな。空間の規模が小さい場合はキューブもすぐに見つかるからいいけど——」
シュンは手元の報告書を指で軽く叩いた。
「ただ、広範囲型になると最悪だ。
都市部に発生すれば、周辺ビルが丸ごと赤く染まる。
どの階層にあるかもわからない。
セキュリティで封鎖されたフロアをぶち破っても、
そこにキューブがある保証はない。」
「……今も残ってる“赤”のほとんどが広範囲空間ですもんね。」
「正直……お手上げ状態だ。」
シュンの声が低く落ちた。
短い沈黙。
PCから漏れるファンの音が、やけに耳に残る。
「なぜ、東京だけなんでしょうか。」
「わからない。」
言葉を切って、シュンは報告書を閉じた。
「でも……それでよかったのかもしれないな。」
「え?」
「もし全国に広がってたら、この国はもう立ち直れなかっただろう。」
ナルミは何かを言いかけて、結局、黙った。
部屋の空気が少し重くなる。
シュンはモニターの光に照らされた指先を見つめる。
もし、この世界に神がいるのなら、
この現象にもきっと何か意味があるのだろう。
——そう思いかけて、すぐにやめた。
(そんなものは最初からいやしない。)
それは、シュンにとって唯一確かな真理だった。
信じるものを、とうに失った男の、静かな信念。
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