第2章: 鍵の誘惑
翌朝、明美はコーヒーの香りに包まれながら、地下室の扉をぼんやりと見つめていた。
扉は廊下の突き当たり、階段の下にひっそりとあった。
木目が黒ずみ、錆びた蝶番が不気味に光る。
鍵穴の周囲には、細かな引っかき傷が無数に刻まれている。
昨夜の物音は夢だったのか、それとも――。
夫は出勤前に、いつものように肩を叩いた。
「変な音がしたら、俺に言えよ。週末にでも点検するさ」。
軽い調子だったが、明美は頷くだけで精一杯だった。
玄関のドアが閉まる音が響き、家中が急に静まり返る。
彼女は一人、扉の前に立ったまま、鍵の束を握りしめた。
不動産屋の言葉が、耳の奥で繰り返される。
絶対に開けるな。前の住人。残したもの。
好奇心と不安が、胸の内でせめぎ合う。
明美は家事を始めようと不安を振り払ったが、掃除機の音さえ、地下室の扉を意識させる。
昼近く、洗濯物を干していると、庭の奥から風が吹き抜け、家の基礎部分が微かに震えた気がした。
地下室は、家の心臓のように脈打っている。
午後、近所の主婦が挨拶に訪れた。
穏やかな笑顔の女性だったが、明美が家のことを尋ねると、急に口ごもった。
「この辺りは、古い家が多いんですよ。でも…その家は、ちょっと特別で」
言葉を濁し、慌てて帰ってしまった。
特別? 明美の不安が、じわりと広がる。
夕方、夫が帰宅する前に、明美は再び地下室の扉の前に立っていた。
鍵を差し込む衝動に駆られ、手が震えた。
鍵穴に金属が触れる瞬間、冷たい空気が指先を這った。
回すか、回さないか。
一瞬の迷いの後、彼女は鍵を抜いた。
まだ、開けられない。夜、夫と並んで夕食を摂りながら、明美は昨夜の物音を話題にした。
夫は箸を止め、眉をひそめた。
「またか。まあ、古い家だ。明日はホームセンターでネズミ捕りを買おう」
笑顔で言ったが、明美の耳には、どこか無理をしているように聞こえた。
就寝前、明美はトイレに立つため廊下に出た。
月明かりが窓から差し込み、地下室の扉を青白く照らす。
すると――今度ははっきりと、扉の向こうから声がした。
くぐもった、囁きのような。
言葉は聞き取れないが、誰かが、明美の名を呼んでいる気がした。
彼女は息を呑み、夫の寝室へ駆け戻った。
だが、扉を閉めた瞬間、声はぴたりと止んだ。
夫の寝息だけが、静かに響く。明美は毛布にくるまり、目を閉じた。
だが、眠りの中でも、地下室の扉が、ゆっくりと開いていく幻影が、彼女を追いかけた。
翌朝、明美は決意した。
夫が出勤した後、彼女は鍵を握りしめ、地下室の扉の前に立った。
もう、逃げられない。鍵を差し込み、ゆっくりと回す。
ガチャリ、という音が、家の静寂を切り裂いた。
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