地下室の住人
をはち
第1章: 新しい住まい
佐野明美は、夫の転勤を機に、郊外の古びた一軒家へと移り住んだ。
家は予想外に広々としており、家賃も破格に安かった。
築五十年は優に超える木造の建物は、庭の雑草が膝まで伸び、剥げた壁のペンキが、風雨にさらされた年月を物語っていた。
それでも、夫婦二人には十分すぎる空間だった。
不動産屋の男は、鍵の束を渡す際に、妙に真剣な顔で告げた。
「地下室の鍵は、絶対に開けないでください。前の住人が残したものですから」。
その言葉は、ただの注意事項のように聞こえた。
明美は軽く頷き、すぐに荷物の山に目を移した。
引っ越し業者の喧騒、埃っぽい空気、開封待ちの段ボール――
そんな日常の雑事が、好奇心を掻き立てる余裕など与えなかった。
午後遅く、ようやく荷解きが一段落した。
夫はリビングでビールを飲みながら地図を広げ、明美はキッチンで夕食の支度に追われていた。
古い家特有のきしみ音が、時折床板から響く。
窓辺のカーテンが風に揺れ、外の街灯がぼんやりと庭を照らす。
すべてが新鮮で、どこか懐かしい。
夜が更け、ベッドに入る頃。疲労が体を重く沈め、明美はすぐに眠りに落ちそうになった。
夫の寝息が規則正しく響く中、ふと――
地下室の扉の方角から、かすかな物音がした。擦れるような、くぐもった響き。
まるで何かが、ゆっくりと動いているかのよう。
明美は目を覚まし、耳を澄ました。
夫は気づかず眠り続け、「古い家だからね」と朝に笑っていた言葉を思い出す。
きっと、ネズミか、風のせいだろう。
だが、心の奥底に、冷たい棘のような不安が、静かに刺さり始めた。
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