第3章: 鍵の囁き
扉が開く寸前、明美は鍵を抜き、廊下の壁に背中を押しつけた。
鍵穴が錆び付いて、鍵が回りきらなかった。
息が荒い。金属の冷たさが掌に残る。
夫の出張は三日間。家の中は自分一人きりだ。
電話を手に取り、不動産屋の番号を押す。呼び出し音が長く続き、ようやく繋がった。
「地下室について、もう少し詳しく伺いたいんですけど」
相手は一瞬、沈黙した。
「…ああ、あの鍵ですか。前の住人が、ちょっと変わった方でしてね。
趣味のコレクションを残してあるだけです。開けなければ問題ありません」
「でも、音が――」
「古い家ですから、隙間風の音でしょう。気にしないでください」
曖昧な笑い声が途切れ、通話は終わった。
明美は受話器を握ったまま、地下室の扉を見下ろした。
嘘だ。風ではない。
夜が降りる。夫の不在を告げる留守番電話の声が、家中を冷たく満たす。
明美はリビングのソファに座り、テレビの音を大きくした。
だが、地下室からの物音は、容赦なく割り込んでくる。
ドンドン。
最初は壁を叩くような響きだった。次第に、扉全体が震え始めた。
振動が床を伝い、足の裏にまで届く。
「開けて…」
声だ。はっきりとした、掠れた女の声。
「開けて…」
明美は立ち上がり、廊下へ出た。
月明かりが扉を白く浮かび上がらせる。鍵穴の周囲の傷が、まるで爪で掻きむしったように深くなっている気がした。
彼女は工具箱を引っ張り出し、ドライバーとペンチを握った。
震える手で鍵穴に差し込み、こじ開けようとする。
金属が軋む。汗が額を伝う。だが、鍵はびくともしない。
まるで、向こう側から押さえつけられているかのようだった。
「開かない…!」
声が笑った。くすくすと、喉の奥で。
明美は工具を投げ出し、床に座り込んだ。
涙が頬を濡らす。夜は果てしなく続き、物音は次第に遠のいていった。
疲れ果て、ソファでうとうととしながら、明美は朝を迎えた。
目覚めると、ダイニングテーブルに――鍵が置かれていた。
昨日のものとは違う。
古びた真鍮製で、柄の部分に奇妙な刻印が彫られている。
明美は息を呑んだ。
誰が? いつ? 窓は施錠され、玄関のチェーンロックもかかったままだ。
夫はまだ帰らない。
彼女は鍵を掴んだ。冷たく、重い。指が自然と鍵穴へ向かう。
「開けて…」
今度は、すぐ耳元で囁かれた。
息がかかるような、湿った響き。
明美は立ち上がり、地下室の扉へ歩み寄った。鍵を差し込む。ガチャリ。
回した。
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