第8話 救援要請と条件
朝。新会社のフロアはまだ冷たくて、PCのファンだけが小さく回っていた。
昨夜、神宮寺から来たメッセージは、未読ではなく既読で止まっている。つまり「逃げないで読むだけは読んだ」状態だ。
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旧本社決算、式崩れ・行方不明・根拠不足が同時多発。
できれば明日で。
条件は前回と同じ。ブラックボックス禁止・仕様公開・ログは個人名。
神宮寺
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「“できれば”って書いてるけど、できればじゃないですね」
灯がマグを持ったまま覗き込む。
「“できれば”って書く人は、“今すぐ来てくれ”って内心で言ってる人」リリが頷く。
つむぎはA4を持ってきて、さらっと言う。
「向こう、フィルター外すのに5分かかってました。もう限界です」
俺は頷いて、ホワイトボードを三分割した。
1. 行く/行かない
2. 行くなら何を持っていくか
3. 行くなら何を飲ませるか(条件)
「まず一つめ。行く/行かない」
「行かない、は無しでしょ」灯が即答する。
リリはくるっと椅子を回して、
「でもこのまま行くと“ただの便利な道具”って思われるコースだから、先に条件ほしい」と付け足した。
「じゃあ二つめ。行くなら何を持っていくか」
俺はマグネットで四つ並べる。
・《右クリックの学校(出張版)》
・《紙→Excelマッピング表》
・《差し戻しテンプレ “怒ってない版”》
・《見えるグラフ(役員でも分かる)》
つむぎがすぐ手を挙げる。「紙→Excelマッピングは私やります。旧本社の伝票って『日付』って書きながら中身は年月日+シリアル+名前が混じってるので、そこを全部列に落とす日本語の表を作ります」
灯も続く。「じゃあ“怒ってない版”差し戻し、私が。『受領しました。ありがとうございます』を一番最初に表示するようにして、直すべきところは一行ずつその下にわかりやすく記載されるようにします。あっちは長文で戻すと読む前に固まるので」
リリがノートPCをパタンと閉じて言った。
「私は“怖くないボタン”を旧本社向けに作り直すね。押したときに一瞬だけチカッて光るやつ、0.3秒だと“うわっ”てなる人いたから0.1秒にする。色もグレー寄りにして『これは確認のボタンです、勝手に何かしません』って見た瞬間に分かるようにする。あそこ、キラキラしてるだけで『なんか勝手に動きそう』って顔してたから」
「それ大事だな。UIでビビらせたら、また“やっぱり人力で”に戻るし」
「で、三つめ。行くなら何を飲ませるか」
ここがいちばん大事だ。
俺はホワイトボードに大きく三本線を引いた。
① 公開での訂正
② 仕様の全社公開
③ “誰でもできる”の定義変更
「①は、前に向こうで言われたやつの取り消しです」
「“お前しか触れないものを作るな”ってやつですね」つむぎがすぐ言う。
「そう。それを“みんなで触れるように作るならやっていい”って向こうの口で言い直してもらう。これがないと、また『灰原のやり方は特別だから』ってところに戻る。特別じゃない、公開して標準にするのが正解だって言わせる」
「②は、せっかく作ったやつを神宮寺の机の中だけにしない。前もそうだけど、あの人のところだけにあると、また誰かが辞めたときに『あの人が持ってたやつが』になる。だから全社で見える場所に置く」
「③は、“誰でもできる”って言葉の中身を変える。今の旧本社は“誰でもできる=説明しなくていい”で使ってる。だからできなかった人が出たらその人が悪者になる。そうじゃなくて、“誰も困らないようにしておくこと”を標準にする**。つまり“戻れる”“やり直せる”“どこで間違えたか見える”を先に用意する」
ここまで言ったところで、モニターの端に通知が点いた。
旧本社・総務から全社向けの下書きが流れてきたのだ。
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【告知案】
・「自分だけが触れる仕組みはやめろ」という言い方は不正確だった
・ 以後は「みんなが再現できる仕組みは推奨」とする
→ 本日 15:00 社内放送で告知予定
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灯がぱっと顔を上げる。
「訂正する気ありますね、これ」
つむぎも頷く。
「言葉を“禁止”から“推奨”に変えるんだ……」
リリは「社内放送でやるの、いいなー。『ボタンは怖くありません』って社内放送で言わせたい」と笑った。
俺はすぐに神宮寺に返信を書く。
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下書き見た。
こちらの条件とほぼ一致。
サポートは問題ない
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十数秒で返ってきた。
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今度は守る。ありがとう。
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その「今度は守る」の一行に、あのデスマッチで見せた“誰かを落とした記憶”がちゃんと残っていて、でも今回はそれを仕組みに変えるつもりなんだってのが分かった。
15:00。
旧本社のスピーカーから、少し歪んだ神宮寺の声が流れる。
「……これまで『一人しか触れないExcelはやめろ』と伝えてきたが、“みんなが触れるように設計されたExcel”は推奨する。“できないからダメ”ではなく、“できるように書く”に改める。以上。」
拍手はなかった。でもざわめきもなかった。
“あの時の言い方は間違いだった”を会社が言い直しただけで、今日は成功だった。
「じゃ、行こっか」
「はい」
「はいです」
「よーし、“怖くないボタン”お披露目タイム」
こうして、“一度切った会社を、条件つきで助けに行く”準備が整った。
ざまぁで始まった話が、ここでようやく「じゃあ回るようにしよう」にひっくり返る。
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