第7話 旧会社 暗黒の決算

旧本社・19:20。

窓の外はもう真っ黒で、ブラインドの隙間からのぞく街灯が、紙の山の端だけをオレンジにしていた。


決算ルームと書かれた会議室のドアは開けっぱなし。中からはプリンターのぬるい風と、Excelが無言で固まっている時のあの気まずい沈黙だけが漏れてくる。


「……また#N/Aになりました」

「さっきまで出てただろ」

「はい。でも今は出ません」

「どこ触った」

「何もしてません。Enter押しただけです」

「それ、何もしてないとは言わない」


机の上には、印刷しては失敗した紙が散っていた。右端が全部ちぎれたみたいに消えている。


「A4横にしたら、蟻の行列になりました」

「余白ゼロで」

「だからゼロは怖い」


ゼロは怖い、という謎の宗教がここでは成立していた。


一番奥で、神宮寺 誠が腕を組んで見ていた。

昨日のデスマッチのときより、目の下が少し落ちている。


けど、昨日までは顔に出さなかった“焦り”が今日はもう隠せてない。


「……お前、F9は」

「Fってどの列ですか」

「列じゃない、上の……」

「これですか?」


若手がF1を押してヘルプが開き、さらに重くなる。


「やめろ、そっちじゃない」

「でも説明は読みやすいですよ」

「説明読んでる時間がないから今ここにいるんだろ」


会計の女性が別の机から駆けてくる。


「すみません、これ、昼食代が3,000万円で計上されてます」

「……は?」

「いつのまにか、途中から3,000が3,000,000になって……」

「0が三個増えてるじゃないか」

「数字が後ろに行くの、見えなかったんです」

「見えなかった、じゃない……」


神宮寺がそこで言葉を切る。


(……あのときも“見えなかった”から通したんだ。で、怒られたのは見てた若手だけだ)


会議室の隅では、総務の年配がPCを前に固まっていた。


「16:00って夕方6時じゃないのか」

「それは18:00です」

「でも“16”で“ゆうがた”って読むだろ」

「読みません」

「じゃあこの“16:00〆切”って何時に出せばいいんだ」

「16:00です」

「……4時?」

「4時です」

「もう終わってんじゃねえか」

「そうです」

「なんでそんな早い時間にするんだ……」

「Excelが使えないからです」


そこで二人とも黙る。


表計算のシートを開き直した若手が叫んだ。


「シートの罫線が消えました!」

「どこ押した!」

「知りません! 右クリックして塗りつぶししようとしたら、斜め線が出て……」

画面には、真ん中からバッテンが入ったセルが並んでいる。

「表を塗りつぶしたかっただけなんです」

「塗りつぶしを選ぶな、こっちの罫線でやれ!」

「罫線はどこですか!」

「ホームに──」

「ありません!」

「挿入に──」

「図形が出ました!」

「図形で罫線を引くな!」


神宮寺はこめかみをおさえた。


(Excelが使えないから紙に戻す、って昨日まで俺が言ってたのに。実際に紙に戻したら、今度は紙をスキャンして本文に貼るっていう別の地獄が始まった。“戻す”って言えば全部安全になるわけじゃなかったんだ。……分かってたくせに)



19:38 別室。

監査が待っていた。

テーブルには、昨日の公開検証の通告の控えがそのまま置かれている。


「神宮寺さん」

「分かってる。間に合っていない」

「ええ。特にここ」


監査はペン先でなぞる。


・昼食代の異常値(3,000万円)

・契約台帳の並べ替え後に所在不明の行

・時間外/休日勤務の計上日がズレている

・監査質問に耐えられる根拠リンクがない


「人が足りない、では説明できないレベルです。操作の段階で間違っている」

「分かってると言った」

「じゃあ、助けを呼んでください」


監査が言うと、神宮寺は一瞬だけ眉をひそめた。


「灰原たちを」


沈黙。


(昨日の今日で、そんなにすぐ頼れるか?

 俺はあいつをクビにしたんだぞ。

 あいつはそれでも“対策”を持ってきた。俺がやったのは、あいつを追い出したことだ。それで今、“戻ってくれ”と言うのか)



19:55 決算ルームに戻ると、さらに状況は悪くなっていた。


「契約の並べ替えをしたら、重要契約の行がいなくなりました!」

「いなくなったってなんだ、人じゃないんだぞ」

「一番上に置いたら、フィルターで隠れたみたいで……」

「フィルターを外せ!」

「どこですか!」

「“データ”の──」

「“データ”がありません!」

「“ホーム”の右の──」

「画面がせまくて出てません!」

「画面を広げろ!」

「画面の広げ方が分かりません!」


……ここまで来るともう笑えない。

Excelができないんじゃなくて、ウインドウの広げ方が分からないところから決算をしている。

これでは、いくら人を持ってきても同じ穴に落ちる。


神宮寺はとうとう首を横に振った。


「……無理だ。ここまで崩れていると、うちのやり方では拾いきれない」


その言葉を聞いて、経理が一斉にこちらを見た。


「じゃあ、どうするんですか」

「呼ぶ」

「誰を」

「昨日勝ったやつらを」


20:10 神宮寺のデスク。

スマホを開き、連絡先の「ハ」あたりで一度指が止まる。


(本当は、こうなる前に呼びたかった。でも“あの子”のときは、俺は呼ばなかった。呼ばなかった結果、あの子は一人で矢面に立って、飛んだ。だから今度は、呼ぶところまで持っていく)


指が「灰原」の名前に触れる。

けど、すぐには押さない。

その代わり、lineを開いて打つ。


⭐︎ ⭐︎ ⭐︎

旧本社決算、式崩れ・行方不明・根拠不足が同時多発。明日で良い。支援に来られるか。

条件は前回と同じ。ブラックボックス禁止・仕様公開・ログは個人名。

⭐︎ ⭐︎ ⭐︎



送る前に一度だけ消した。


“明日で良い”というところを、“できれば明日で”に書き換えた。助けを乞うのに、少しだけ意地が残っていた。



20:12 新会社・フロア。

俺のPCに神宮寺からのメッセージが入る。

灯とつむぎとリリは、まだ残っていて、右クリック検定のジングルを録音して遊んでいたところだった。俺はすぐに三人に見せる。


「来たよ」

灯「旧本社、崩れたんですね」

つむぎ「“行がいなくなりました”って、Excelでいちばん聞きたくないやつ……」

リリ「“明日で良い”って書いてあっても、明日で良くないパターンの文面じゃん」


俺は返信を書く。



⭐︎ ⭐︎ ⭐︎

行きます。

ただし条件は三つ。

1. 俺をクビにした時の発言は公開で訂正すること

2. 仕様は全社に公開すること

3. “誰でもできる”を“誰も困らない”に定義し直すこと

⭐︎ ⭐︎ ⭐︎



送信。

数分して、神宮寺からシンプルな返事が返ってきた。


⭐︎ ⭐︎ ⭐︎


……分かった。やる。


⭐︎⭐︎⭐︎


その「……」の三点リーダーに、昨日ちらっと見せた悲しい過去の尾っぽがまた覗いていた。


(あの時に、こういう対応をすればよかったんだよな)


そんな後悔を、今度は手順化させるつもりなんだろう。




21:00 旧本社・決算ルーム。

「行が戻りました!」

「どこだ!」

「フィルター外しました!」

「やっとか……」

「でも罫線がポロポロです!」

「それは明日、来る」

「誰がですか」

「Excelができるやつらがだ」


部屋の空気が、初めてそこだけ少し明るくなった。Excelができるやつら──昨日まで“怠け”呼ばわりしてた相手を、今度はちゃんとそう呼んだ。それで十分だった。


この夜のうちに、旧本社の“紙に戻す派”と“見える自動派”は、ようやく同じところを見ることになる。


「戻す」でもなく、「押すな」でもなく、「押す前に中身を理解する」で一致した。


あとは、明日三人が来て、紙の山をExcelに“生まれ変わらせる”だけだ。


暗黒の決算は、ここでいったん底を打った。

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