第9話 地層掘削オペレーシ
旧本社・午前10時。
決算の部屋は紙とPDFの印刷でいっぱい。机の上にはこんなファイル名が並んでた。
• 決算_ほんとにこれ.xlsx
• 決算_ほんとにこれ(2).xlsx
• 決算_ほんとにこれ(本社).xlsx
• 決算_ほんとにこれ(本社最新版).xlsx
どれが本当に「本社最新版」なのか、誰も言えない。これを今日は下から順番に掘っていく。だから「地層掘削」。
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1. まずは“怖くない”を作る
灯が一番前にA3を置く。書いてあるのは5行だけ。
1. 上から読む
2. 左から読む
3. 書いてある言葉をそのまま列名にする
4. ないものは「ない」と書く
5. いきなり貼らないで、戻れるようにしてから貼る
灯「今日は“貼る前に戻る”を先にやります。これが“戻れる道”です」
おじさん「戻るってなんですか」
灯「Ctrl+Zです。間違えたら元に戻ります」
おじさん「どこ押すんですか」
灯「ここです。見ててください。はい、戻りました」
実際に戻るのを見せると、旧本社の人の顔がちょっとほぐれた。
「じゃあ押しても死なないんですね」「死なないです」
まずこれを信じさせるのが大事。
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2. 紙の言葉をExcelにする
つむぎが次に出すのは「翻訳表」。名前はこう。
《紙にこう書いてあったら、Excelではこうする表》
次はつむぎ。A3にでっかくこう書いてある。
⭐︎ ⭐︎ ⭐︎
紙に「日付」って書いてあったら、Excelで「日付」って書く。
「部署」「部門」「課」ってバラバラに書いてあったら、全部「部門」にする。
「氏名」「担当」「申請者」ってバラバラに書いてあったら、全部「申請者」にする。
「金額」「合計」って書いてあったら、とりあえず「金額」に入れておく。後で揃える。
「備考」「特記事項」って書いてあったら「備考」にする。空でも「空でOK」と書いておく。
⭐︎ ⭐︎ ⭐︎
つむぎ「この表にない言葉が紙に出てきたら、ここに行を足してください。勝手に“その他”にしないでください。 “その他”が増えるとあとで分かりません」
経理の若手「今日これ、全部手で入れるんですか」
つむぎ「今日はそうです。今日そろえれば、明日からは“この表に合わせて出してください”って言えます。今日が一番しんどい日です」
“今日が一番しんどい”ってはっきり言うと、覚悟してくれる。ふんわりさせない。
3. ボタンはおとなしくさせる
リリが共有PCにUSBを挿す。画面に出たボタンは、いつものピカピカじゃない。
角がちょっと丸いだけの、地味なグレーのボタン。
おじさん「これ…押しても大丈夫なやつ?」
リリ「大丈夫なやつです。押したときに0.1秒だけふわっと光ります。『押せたよ』って知らせるだけで、すぐ消えます。
0.3秒光ると“何が始まる!?”って固まる人がいたので短くしました。
送信したり別のところに勝手に送るボタンは、横に『送る』って文字が出ます。書いてないやつは絶対送りません。」
女性社員「前に押したら100枚出たやつありましたけど……」
リリ「今日は“100枚出るやつ”は持ってきてません。“この表をきれいにするだけ”“この列を揃えるだけ”のボタンだけです」
ここでまた旧本社の人の顔が一段ほぐれる。
「勝手に送らない」「光っても一瞬だけ」「何するか書いてある」——この3点でだいたい怖くなくなる。
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4. 掘り始める
ここまでで準備完了。
俺「じゃあいちばん古い紙から入れていきます。上にある“最新版”は後です。上にあるやつほど崩れてるからです」
みんな笑う。分かってるからだ。
作業の流れは単純。
1. 紙を見る
2. 翻訳表を見て、どの列に入れるか決める
3. Excelに入れる
4. 入れたところを薄い色で塗る(こわくない色で)
途中でいつものやつがくる。
「『テキストを列』が見つかりません!」
「じゃあ今日は私がやります。場所だけ見ててください」灯が横からやって見せる。
「右クリックって右手でタッチすればいいんでしたっけ」
「今日はマウスです。右のボタンです」
「おぉ〜」
午前中で、紙の分はほとんどExcelになった。
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5. 神宮寺が確認に来る
昼を回ったころ、神宮寺が見に来た。昨日と違って、今日は怒る役じゃない顔だった。
「進んでるか」
「進んでます。いま“紙のぶん”が終わって、“PDFを本文に貼ったぶん”を起こすところです」
「そこまでやるのか」
「昨日、神宮寺さんが『できるように書く』って言ったので。書かれてないぶんは、こっちで書きます」
神宮寺は翻訳表をじっと見た。
「支払先」「請求元」「検収日」「確認者:○○」ってちゃんと日本語で書いてある。
それを見て、ちょっとだけ表情がゆるんだ。
(これがあの時あったら、あの子に“全部”って言わずに済んだ)
っていうのが顔に出てた。けど今回は言わないで飲み込んだ。
俺「社内放送、聞きました。『一人しか触れないのはやめる』を『みんなが触れるのは推奨する』に変えてくれてたやつ」
神宮寺「ああ。あれが俺の側でできるとこまでだ」
俺「じゃあこっちもやります。“怒鳴らなくていいやつです”ってみんなに言っておいてください」
神宮寺「……言う。今度は言う」
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6. 見えるようにして終わる
夕方。
リリが作ったダッシュボードを映す。シンプルな棒グラフで、入った日付だけ色がつく。入ってない日は白い穴になる。
リリ「ここ、白いところが“まだExcelにしてない紙がある”場所です。明日になるとここが黄色になります。さらに遅れると、ここに“誰が止めてるか”名前が出ます」
「えっ名前出るの?」
リリ「でも怒らないでください。ここで怒る人がいたら、その人のほうがルール違反です」
「怒るほうがルール違反」
「いいなそれ」
「そんな会社で働きたかったんだよなぁ……」
部屋の空気がやっと“普通の会社の夕方”に近づいた。
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7. 今日の終わり
夕方5時。
翻訳表には新しい行がいくつも増えていた。
・コピー代 → 経費区分
・勤怠・遅刻・早退 → 勤怠
・その他(本当にその他のときだけ)
灯は差し戻しテンプレを50部配り終わり、
つむぎは「ここまでは紙」「ここからはスキャン」とシートに太い線を入れ、リリは“怖くないボタン”の色をもう一段だけ落とした。
神宮寺は壁の翻訳表を見上げて言った。
「これ、作った人の名前、残しておけ」
「残してます。右下です」
灯/つむぎ/リリ/灰原
と小さく入っている。
「そうか……そういう話だったな」
“誰が作ったか見えるようにする”って、昨日自分が言ったことを、今日はちゃんと受け取っていた。
これで、“静かな決算”に入る準備ができた。
次は「何も起きない決算日」がくる。ここまでが掘る編。次で音が止まる。
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