時の架け橋

明(めい)

時の架け橋

         1


孫娘は臨月を迎えている。だが、曾孫の顔は見られない。


「どけよじじい。とろとろ歩かれたら、邪魔なんだよ」


人ごみの多い銀座通りを歩いていると、後ろから声が聞こえてきた。


背中を押され、あ、と思ったときには足がもつれた。


私は前のめりに倒れ、地面に手をついてしまった。かぶっていた帽子が外れ、風に吹かれて数メートル先まで転がっていく。


声の主は、ふん、と私を見下ろし、通り過ぎていった。スーツ姿がさまになっている中年男性だった。


人間の性質は、すっかり変わってしまった。


今や十代、二十代の若者どころか、中年までがこんな風になってしまったのだから、日本の未来は先が思いやられる。


「大丈夫ですか」


転んだ私を見ていたのだろう。近くにいた若い女性の二人組が駆け寄ってきて、私を助け起こしてくれた。そのうちの一人が帽子を取りに走っていき、私のところへ戻ってくる。


「お怪我はないですか」


見るとかさついた掌の皮が破れ、出血していた。


「血が出ているじゃないですか。手当てしないと」


「いえ、大丈夫です。大した怪我じゃないですよ。ありがとう」


世の中、嫌な人間ばかりじゃない。私は帽子を受け取り、会釈をしてその場を去った。


今出会った女性たちも、背中を押した男性も、私にとってはただこの時代を生きる風景に過ぎない。


百年後には、ここを歩いている誰もが死んでいる。


時代も、すっかり変わってしまった。


見納めのつもりで、私はかつて妻とよくデートをした界隈を散策していた。


妻や会社の同僚と時間を分かち合った店は、ほとんど残っていない。


これ以上うろついてもろくなことがなさそうだ。早く帰ろう。


とぼとぼと、地元の駅に舞い戻った。静かな神社の境内に腰を下ろす。


非常に疲れているが、まだ体力は残っている。


さわさわと、風に吹かれて木が揺れる。木漏れ日が綺麗だ。太陽の暖かさだけは、何年たっても変わらない。


この世に生を受けてから、私は九十年という月日を駆け抜けてきた。


若い頃は必死で働き、会社の再建に私は人生の大部分を費やしてきたが、定年退職して三十年経った今、日本の景気はうなぎのぼりだ。


だが、私のような老いぼれはもう、今の時代を生きる若い世代には邪魔なのだろう。昔はずっと景気が低迷していたという。


「草木さん」


名前を呼ばれて振り返ると、近所に住む秀子さんが立っていた。


私よりも十歳年下だ。


「お参りですか」


「ええ、散歩がてら。骨粗しょう症だとお医者さんから言われてしまいまして。太陽の光を浴びて、足腰を鍛えているんです。草木さんはなにをしているんです?」


秀子さんは私の隣に座った。近所に住む人間も、世代が代わった。


誰しも寿命には勝てない。同年代の仲間は次々に葬式をあげていき、近所づきあいのある人間は、今や秀子さんだけになってしまった。


「銀座に行ってきた帰りです。途中、『どけよじじい』なんて言われてしまいましてね」


「まあ」


「歳を感じますよ」


すりむいた掌を見てみる。血は止まっていた。


「なにをおっしゃいますか。お互い、長生きしましょうよ。お孫さん、臨月でしょう? 男の子? 女の子?」


「まだわからんのですよ。孫は産むまで楽しみにしておくと言っておりましてね。孫

も、とうとう三十を超えてしまいました」


「早く曾孫の顔を見たいんじゃありませんか」 


口元に片手を当て、静かに笑う。若い頃はおてんば娘で有名だった秀子さんは、上品に歳をとった。


「今日は孫が夕飯を作ってくれるそうで。楽しみです」


「いいじゃありませんか。娘さん、お孫さんご夫婦に囲まれて暮らして、草木さんは幸せ者です」


「最後の晩餐ですよ」


「え?」


秀子さんは不思議そうな顔をした。


私は立ち上がり、秀子さんに笑いかけた。 


「秀子さんとも、今日でお別れですな」


私は帽子を取り、軽く会釈をした。


         2


孫娘は歌を唄いながら、当たり前のようにフライパンを電気で熱している。


ガスを使っている家庭は、今ではあまり見かけなくなってしまった。


「今日一日歩き回って、疲れたんじゃない?」


妻の康子が微笑み、私にお茶を差し出した。


八十八歳。今日、一緒に銀座へ連れて行きたかったが、康子は腰を悪くしている。長距離を歩くのは辛いだろうと思って、家に置いてきた。


「帰りに秀子さんに会ってね、お別れを言ってきたよ」


「そう」


さらっとした返事が返ってきた。康子も、私への諦めがついたのだろう。私は康子に


入れてもらったお茶を飲んだ。滑らかな舌触りだった。


「君の淹れる緑茶を飲むのもこれが最後だな」


「なんなら、今から何杯でも入れてさし上げますよ」


静かに、私達は笑い合った。孫娘には聞こえない。


流れてくるテレビのニュースでは、火星旅行から帰還した日本人が、興奮した様子でインタビューに答えていた。


高額ではあるが、人間が火星にまで行ける時代になってしまった。


そうした時代の恩恵を受けて、延命、という選択をした私を、家族の誰もが不思議なほど自然に受け入れてくれた。


康子だけが、最初は渋い顔をしていた。


コールドスリープが、数年前、日本でも実現したのだ。


マイナス百九十六度で人間は冬眠状態に入る。そして数百年後に目覚める。


四十年ほど前は、人体を完全に冷凍するのは難しいといわれていたが、アメリカの研究施設が近年、急速な成果を遂げたのだ。


しばらくは、余命を宣告された者だけが、延命という名目で人体冷凍保存を許されていた。それが、今では一般人にも時間旅行として楽しめるほどになった。目覚める時間まで選べるようになった。


明日、私は一時的な眠りにつく。百年後に目覚める。近所の人間は、私が時を渡ることを知らない。


体はまだ丈夫だが、私はいつ死んでもおかしくない年齢だ。仮にあと三年生きられるとして、その三年を百年後の日本で過ごそうと思っている。


さようなら。


今ここにある全てのものに別れを告げて、百年後の日本を見てみたいと願う。


「いい匂いがしてきましたよ。みんな、そろそろ帰ってくる時間でしょう。今晩は楽しみましょうね。みんなと一緒に」


最後の晩餐だ。肉の焼く音が聞こえる。孫娘は、私の好物のサーロインステーキを作ってくれている。


ただいま、と息子が仕事から帰ってきた。


続いて、ああ、お腹すいた、と出かけていたお嫁さんの美子も帰ってきた。


三十分経って、孫婿も帰宅した。


その頃にはもう、食卓にご馳走が並べられていた。大きなお腹で、孫娘がたった一人で作ってくれたのだ。


メインはステーキ、小皿にはサラダや味噌汁、酒のつまみなど、テーブルに入りきらないほどの料理が並んでいる。本当に、いい匂いだ。


みんなと向かい合って席に着く。


夕食の時間は、いつもみんな、ばらばらだった。こんな風に家族全員揃って御飯を食べるのは何年ぶりだろう。


みんなに囲まれたこの時間も、過ぎ行く風景の一つだ。


「それじゃとにかく、乾杯しましょうか」


全ての支度を終えて、最後に席についた孫娘が言った。


ワインやジュースで乾杯をする。グラスをあわせる音がする。なんの乾杯なのか、明日私が無事眠りにつくことへの乾杯なのか、よくわからない。みんな心のどこかでわかっていて、誰も口にはしない。ひとつだけわかるのは、私のために今宵、みんなが集まっているということだ。


グラスを口にして、それぞれに語りだす。今日会社で起きたこと、出先での面白い事件があったこと。私はひとつひとつ、丁寧に頷く。誰も、私のことには触れない。


過ぎ行く風景の一つに過ぎないのに、私はこのみんなに囲まれたざわめきの中で、ふわりとした感覚に襲われていた。


順繰りに顔を見る。息子、美子、孫娘、孫婿、そして康子。


酒が回っているのか、居酒屋にいるときのような、その場の雰囲気に飲まれているのか。みんな笑っている。


ふと、思った。


目の前の別れを自ら望んだはずなのに、どうしてこんな気持ちになるのだろう。真心を込めて作られた夕飯に目を落とす。みんなが集まった食卓の中に、私への静かな愛が存在していることを知る。


愛は明日、消滅する。百年後に、今いる面子で食卓を囲むことは、もうない。 


顔をあげると、康子と目が合った。


生き別れるのと、死に別れるのはどちらが辛いだろう。


寂しさの滲んだ瞳で、康子は私に微笑んだ。  


         3


晩餐はお開きになり、皆それぞれ明日への眠りについた。

 

夜も更けた。康子も眠ってしまった。この静かな時間を、ただ一人で穏やかに過ごそうと思った。


薄型のテレビを消音にして、ぼんやりと画面を眺める。深夜番組の内容は、頭に入ってこなかった。


「ねえ」


声がして私は振り返った。青白い顔をした孫娘が、壁に寄りかかるようにして立っていた。


「どうした」


両手でお腹を抱えている。


「なんだか、陣痛が始まったみたい」


その場に崩れるように、孫娘は屈みこんだ。予定日は、まだ三日先だった。


孫娘は痛みに耐えている表情で、呼吸を繰り返している。


「痛い、痛い……」 


悲鳴のような声に、穏やかな気分は、一気に動揺に変わった。冷や汗が吹き出てくる。


康子の時も、美子の時もそうだった。陣痛に苦しむ女性を見るのは、いつまでたっても慣れない。


頭の中は、パニックになっていた。どうすればいいのかわからなくて、康子を叩き起こした。次々と家族が起きてきて、美子が冷静に救急車を呼ぶ。


女はこういう時、強いと思う。単純に家族を起こすことさえ抜け落ちていた。


「痛い。痛いよ」


孫娘の顔は、苦痛に歪んでいる。孫婿が孫娘の手を握り締め、必死に激励している。


救急車がやってきた。家族に体を支えられて救急車に乗ろうとしたとき、孫娘が私の顔を見た。


「おじいちゃん……おじいちゃんが眠るまでに、産むからね」


消え入りそうな声で言った。そのとき、孫娘が私を想ってくれていることを悟った。


愛は、消滅しないと考え直した。子孫が残る限り、愛は永遠に続く。


康子と息子以外は、みんな救急車に乗って行ってしまった。


家の中は、再び静かになった。時計を見る。針は午前二時を示していた。


私は午前十時に眠る。その間八時間。無事に曾孫が産まれることを確認できるだろうか。機械で、曾孫の画像を送ってもらえるだろうか。


不安と期待が心の中で混ざりあう。無事に産まれてくれ。そう願わずにはいられなかった。


眠れずに夜が明けた。私のもとへ、連絡は一度も入らなかった。


孫娘は今、新たな命を誕生させるために頑張っている。私はこれから、登録先の企業へ行って、眠りにつこうとしている。


午前九時になった。まだ連絡は来ない。


とうとう私の出発する時間になった。息子の車に乗せてもらう。康子と一緒に。


私はそっと、康子の手を握った。本当は今日、家族全員に見送られて、安らかな眠りにつくはずだった。


たった三人しかいない車の中には、沈黙が流れていた。私は開いた窓から入ってくる風に吹かれながら、一人一人の家族の顔を思い浮かべた。


康子と一緒に歩いてきた六十余年。一人前になるまで息子に翻弄され続けた三十年。


そして孫娘の笑顔に癒された三十年。


「すまない」


自然とそんな言葉が出た。六十年連れ添った康子を放って、育ててきた家族を置いて、たった一人、時間の旅をしようと選択した私の胸の中に、少しのほろ苦さが残る。


康子はそっと手を握り返してきた。


いいのよ。


握り返した手は、そう言っていた。私は康子の手に安らぎを覚えた。康子に許されているのだと、安堵する。


車は、企業の駐車場に到着した。黒服を着た企業の人間が二人、迎え出てくる。


溜まりかねて、私は息子に病院先にいるはずの孫婿と連絡をとってもらった。


「まだ……でも、もう少しで生まれるそうです」


電話を切って、息子は言った。


ああ、と溜息を漏らす。出産には間に合わなかった。


「草木さん、時間です」


企業の人間が、腕時計を見る。


康子とも、息子とも、永久に別れる時が来た。私は康子を強く抱きしめた。


「さようなら、父さん」 


息子とも、抱き合った。


孫娘は自然分娩を望んだ。だが、時代は変わる。人も変わる。世代も変わる。


それに応じて自然の摂理も変わるのだろうか。変えてはいけないことを、私はしようとしているのだろうか。


企業の人間に案内される。康子と息子に見送られ、自動ドアを潜る。何度も何度も、私は振り返った。康子は瞳に涙を溜めていた。


曾孫の顔は見られない。


だが、曾孫の子供は見られるだろうか。愛は消えない。目覚める百年後に、昨日すりむいた掌の傷も、太陽の温かさも、私の子孫も残っている。


それは確かに、私が現在いまを生きていたという証になる。


時代が変わったことも、曾孫の顔を見られなかったことも、康子を置いていくことも、ただ嘆くのではなく、未来を生きる糧にしよう。


百年後の未来が楽しみだ。例えば、AIが町を歩いているのかもしれない。


火星に生活圏ができるのかもしれない。生活は今よりも更に便利になるのかもしれない。曾孫の子供は、その時どんな生活を送っているのだろうか。曾孫の子供に、昨夜食卓にいた家族のことを語れるだろうか。


今はただ、安らかに、深い眠りにつこう。

                             「了」



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