02. 偽物

目が覚めると、視界の先は白で塗り潰されたようにぼんやりしていた。


見覚えのない白い天井、白い壁、白いシーツ。


――ここは……


雄大ゆうだい!……雄大っ!」


母の泣き顔、そのとき俺は何故ここにいて、なぜ母が泣いてるのかしばらく分からなかった。


医師が言う通りに身体を動かそうとしても、自分の力だけでは動かせない。

「痺れがありますか?」


「……っ……う」


言葉を返そうとしても、自分の声じゃないみたいだった。喉の奥から空気が抜ける音が混じり、掠れて音にならない。


医師はそれを察して、優しい声色で言う。

「焦らなくて大丈夫ですよ。声は、時間をかければ戻ることが多いので」


「……ただ、雄大くんは、首の神経を少し痛めているので、しびれが続くかもしれないですね」


母と医師の話し声を遠くで聞きながら、俺は全てに絶望していた。

……ああ、自分は、どこまで神さまに見放されているんだろう。


今思えば、あの日、鷹村たかむらさんの写真に惹かれたのは……あの写真の風景のように、暗がりに天から差す光を渇望していたからだと思う。


安らかな死のイメージ。

こんな場所で綺麗に死ねたら――そう思っていた。


とっくに消えたはずの、首に細く輪のように残る痣を指で撫でる。


そして今、俺は、鷹村さんのアトリエの前に立っている。


駅と住宅街の間に建つ、洒落た外観のコンクリートの建物。一階部分は駐車場になっていて、高級感のある車が並んでいる。

二階はガラス張りで、まるでカフェみたいだ。


俺の横を二人組の女性が通り過ぎ、アトリエの階段を登っていく。

その後に続くようにゆっくり階段を登っていると、さっきの二人を出迎えていた鷹村さんと目が合った。


「雄大くん」

鷹村さんは微笑みながら軽く、胸の前で手を振った。


俺の名前、覚えててくれたんだな。

なんだか少しだけ嬉しくなる。


ワークショップの受講者は、平日の昼間なせいか、ほとんどが母と同じか、もう少し若い女性で、若い男は自分だけだった。


テーマは、身近な風景に感情を乗せた写真を撮ること。


「今風の言葉で言えば、エモい作品を撮ること、かな」

鷹村さんが冗談めかして言うと、室内に笑いが起きた。


感情……俺の感情って何だっけ。

考えていると、無意識のうちに、また首を撫でている。



――ああ、そうだ。

あの体育倉庫の日。


家にたどり着くと衝動的に荷造り紐を首に巻きつけ、ドアノブに引っ掛けた。

多分、正気ではなかったと思う。

じゃなきゃ、そんなこと出来ない。


全部嫌になったんだ。

友人と呼べるものは一人残らずいなくなり、親友だった玲衣れいも、俺が俺の中で何度も消した。


体重を掛けて全力で紐を引くと、苦しいはずなのに、どこか幸せだった。


それなのに――。


神経痛が残り、もう激しい運動は出来なくなった。

高校もやめた。

将来の夢も諦めた。

本当ならそこにあったはずの未来は、全部、消えてなくなった。

それも全部、全部、全部、玲衣のせいだ。


俺がずっと、あの体育倉庫に留まっている間、あいつは逃げるように転校し、のうのうと生きていた。


ある夜、遅く帰った父さんに母が話していた。


「ねぇ、今日玲衣くんのお母さんに会ったんだけど……、玲衣くん、4月から大学生なんだって」


「良い大学に合格したみたいで、私はあえてどこかは聞かなかったけどね……お母さん喜んでた。」


――ふざけるな。


嫉妬でどうにかなりそうだった。

あいつには綺麗な色の将来が待っている。


でも、俺には何もない……。

失うものだけ増えていく。

怒りだ。怒り以外、俺にはなにも残っていない。



「雄大くん?」


ハッとして声の方を見上げると、鷹村さんが穏やかな表情で俺を見ていた。


「雄大くんは、カメラ、持ってないんだよね。僕のを貸すから少し待ってて」

そう言うと鷹村さんはカウンターの方でごそごそと支度をはじめた。


「雄大くんっていうの?」

年配の女性が声を掛けて来て、思わず固まる。


「良いわね、たまには若い子がいると新鮮だわ」


「鷹村先生、私たちみたいなおばちゃんにも熱心に教えてくれるから、みんなでもう何度も参加してるの」


俺は言葉が出なくて、それが恥ずかしくて俯いた。


「緊張しないで、楽しんで作品、撮りましょうね」


優しそうな笑い方。

鷹村さんの周りには優しい人ばかり集まっている。

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