第13話
◯
──俺は子供が大嫌いだ。
電車の中でギャーギャー騒ぐ。
道の真ん中で泣き出す。
やたら臭い。
わけのわからない日本語で大人を揶揄う。
何を考えて生きてるのかわからない。
どう接すればいいか正解が不明。
できるものなら、子供とは一生関わりたくないと思っていた。
──美紀子が子供が欲しいと言った時は。
さすがに正気か疑った。
「あなたとの子供が欲しいの」
「そしたら人生が楽しいと思う」
新居に引っ越しした三日目あたりに、美紀子と子供について真剣に話をした。
マッチングアプリでたまたま出会った美紀子は、あまりおしゃべりが得意な方じゃなかった。
デートの時は俺がいつも話しかけていて、美紀子は頷くか会話を合わしてくれることが多かった。はにかんだ笑顔が可愛くて、俺は美紀子が反応してくれるのを期待して、いつもくだらないジョークを飛ばしていた。
自分の意見をあまり言わない美紀子が。
唯一、俺にお願いをしたこと。
二人の子供を作ることだった。
「わかった」
「作ろう」
俺は即承諾した。
美紀子は笑顔で俺にハグしてくれた。
──正直嫌だった。
子供は苦手だし、子育てをする自信なんてない。
だけど、この場で子供をいらないなんていったら。
美紀子に愛想を尽かされて、離婚されるかもしれない。
それが怖くて、子供をいらないと言えなかった。
その日から、義務化されたセックスをすることが増えた。
夫婦のセックスが嫌になる日が来るなんて、夢にも思わなかった。
妊活をしてから一年が経った。
美紀子が子供ができにくい体らしく、不妊治療が必要だと産婦人科クリニックでつげられたらしい。
最悪、今年できなかったら人工授精に切り替えよう。
そう美紀子に提案され、俺はよくわからないまま承諾した。
子供ができるとはどういう感覚なのだろうか。
あんな得体の知れない生き物を相手に、毎日を過ごさないといけないのか。
「子供ができたら大変だぞー」
「自分の時間なんてなくなるからなぁ」
会社で先輩パパの上司が、笑顔で脅かしてきた。
ただでさえ仕事で大変な時期なのに、子供なんてできて自分の時間がなくなるなんて勘弁してくれ。
できるなら、妊活を諦めてくれることを期待していた。
だが、子作りのためにバカ高い漢方薬を飲んだり代謝をよくする運動に勤しむ美紀子を見る度、当分は妊活を諦めないだろうと察し、ひっそりとため息をついていた。
「邦雄さん!」
「できたよ!」
会社から家に帰ると、妊娠検査キッドで線が二つ出たと報告してくれた。
100パーセントかわからないが、検査キッドで表示された場合は、ほぼ妊娠が確定するらしい。
正直、マジかと思った。
「これからパパだね」
「三人で頑張って行こうね!」
笑顔で美紀子が俺に言った。
そうだね。
と、返事をするしかなかった。
いよいよ逃げることができなくなった。
電車通勤する時、五歳くらいの女の子とその父親らしき親子が、隣の席に座ったことがある。
女の子は父親におやつが食べたいとせがんで、父親は疲れ切った表情で我慢しろと娘に言った。娘は我慢できずに「食べたい食べたい!」と駄々を捏ね、父親がいい加減にしろといって怒り、娘を無理やり抱っこして電車を降りた光景を目の当たりにしたことがある。
──あれが俺の未来か。
会社で任された仕事が難しく、家に帰っても仕事のことを考えているこの状況で、あんな没コミュニケーションで本能で生きているような生き物の面倒を見ないと考えると、俺の人生終わったなと絶望するしかなかった。
妊娠が確定してからの生活も大変だった。
美紀子の悪阻がかなりひどく、臭いがつく食べ物は生理的に受け付けられなくなっていた。
夜中は必ずトイレに駆け込んで嘔吐し、昼も立ってられないほど眩暈がひどかった。
妊娠しているせいで薬も飲めないとのことで、美紀子は孤独に耐えるしかなかったようだった。
子供を妊娠している影響で、情緒も不安定になったようで、ちょっとしたことで怒りを爆発させることもしょっちゅうだった。
そうまでして子供を産みたいものなのか。
口にはしなかったが、俺には理解ができなかった。
出産当日。
予定日の三日遅れで、ミナミは産まれた。
破水してから28時間後。
午後二時五分に、2800gでミナミが産まれた。
頭が茄子のように長い赤ちゃんとして、俺は娘と出会った。
──感動はなかった。
破水してから病院に付き添った28時間……情緒が不安になった美紀子に理不尽に罵倒され続けて耐えた地獄の時間だった。
やっと終わった。
やっと解放される。
それが正直な感想だった。
娘が産まれて嬉しいというより。
美紀子が死なず、無事だったことに安心した。
「ほぎゃあああああ!」
美紀子とミナミが退院してから一ヶ月後。
里帰り出産が終わった美紀子とミナミが家に戻ってきた。
夜十時からおよそ一時間間隔で、ミナミは夜泣きした。
夜泣きするたび、美紀子は授乳するが、授乳して寝たかと思うとまた起こされる。
ほぼ毎日、これの繰り返し。
美紀子は慢性的な睡眠不足となり、妊娠中以上に俺に八つ当たりする回数が増えた。
首のすわっていない赤ちゃんを抱っこするのは恐怖そのものだった。
抱き方一つ間違えれば、首がぽきっと折れるかもしれない。抱っこのたびに異様なプレッシャーを感じていた。
抱っこをする度、ミナミは号泣した。
父親じゃなくて母親じゃないとダメなようで、俺が辛抱強く我慢して抱っこし続けても、ミナミは永遠に号泣し続ける。
結局、美紀子に恨み節のような文句を聞かされた挙句に、抱っこを交代させられることがいつものパターンとなっていた。
父親なのにそこまで嫌いにならいでいいじゃないか。
こっちは我慢して子育てしてるんだぞ。
ミナミに文句を言いたかったが、言葉がわからない0歳児に全く通じないことがわかっていたので、ただ文句は自分の胸のうちにしまっていた。
そんな日々が続く中、ふとミナミが土曜日に昼寝をしていた時、寝返りを打った瞬間を俺は見た。
寝返りをうつ瞬間、俺の中で何かが弾いた。
産まれたばかりのミナミは、呼吸する寝るか、母乳を飲むだけの、得体の知れない動物のような存在だった。
それが──。
人間のように寝返りを打つことができている。
──成長している。
ミナミが。
赤ちゃんが、人間に近づいている瞬間を目の当たりにして、自分が初めて子供を育てているんだと、初めて実感できた。
それから子育てする毎日が楽しく感じるようになった。
つかまり立ちをして歩く練習をするようになり。
おっぱいを卒乳して離乳食を食べるようになった。
あっという間にミナミは一歳になった。
歩けるようになったミナミと、毎週土日は公園やスーパーに出掛けるようになった。
ミナミが二歳になった頃、初めて「パパ」と呼んでもらえた。
おしめを卒業し、ご飯も食べられるようになった。
喋られる言葉もたくさん増えた。
子供が人間に近づいていくことが、こんなにも面白く興味深く、嬉しいことだと思わなかった。
どうして大人はこんなに苦労をして大変な思いをすることがわかっているのに子供を産んで育てるのか理解ができなかったが、ようやくわかった気がする。
自分の子供が成長する楽しみ──。
ゲームをするよりも、カラオケに行くことよりも、美人の女性とデートをするよりも。
どんな娯楽も勝らない。
気がつけば、自分の興味のすべてが子供に向いていた。
小学生に上がればどんな女の子になるのだろうか。
部活や運動に興味はあるのか。
趣味や好きなものは何になるのだろう。
恋愛もするのだろうか。
そして、好きな男の子ができて、いつか俺に紹介するのか──。
ミナミが幸せになるのなら。
俺はなんだってできる。
高校大学進学でお金がかかるのなら。
何時間でも残業してお金を稼いでくる。
そう思うようになった。
「今日も残業なの?」
仕事中に、美紀子からメッセージが届いた。
何を当たり前のことを聞いてくるんだと俺は思った。
俺は即座に「そうだよ」と返した。
「ミナミの誕生日を忘れたの?」
「今日はパパとお祝いしたいって言ってたよ」
メッセージを見て、俺は後頭部を殴られた感覚がした。
──そうか。
今日はミナミの誕生日か……。
このところ残業続きであたまの中が仕事でいっぱいになっていたせいで、すっかり忘れていた。
俺は急いで美紀子にメッセージを返した。
「ごめん」
「今日は定時で上がるよ」
「待ってて」
俺は上司に言って定時に上がり、会社近くにある百貨店でミナミが好きな幼児アニメのグッズを買った。五千円する高価なおもちゃだが、四歳になる記念だから奮発をした。
ミナミもう四歳か。
子供嫌いの俺が、まさか子煩悩の父親になっているなんて──なかなか感慨深いと感じてしまう。
今日は美紀子が買ったケーキを食べてミナミの四歳の誕生日をお祝いだ。このところ仕事続きだったから、こういうイベントがあるとテンションが上がる。
──────あれ?
おかしいな。
電車に乗ろうとした先の記憶がない。
家に帰ったはずなのに。
誰もいない。
どうしてだ?
「ミナミ?」
「美紀子?」
誰もいないマンションの部屋の中で二人を探す。
──いない。
どうしてだ。
早く帰ってきたつもりなのに、どうしていない?
「ミナミ!」
「美紀子!」
いるはずなのにいない。
部屋の中を探したのに見つからない。
──家にいるはずなのに。
どうして?
頭が痛い。
記憶がぐちゃぐちゃだ……。
どうやって俺は家に帰ったんだ?
どうして2人はいないんだ?
がちゃ。
光が見えた。
「ミナミ!」
「帰ってきたのか!」
玄関に向かって行った。
だが、誰もいなかった。
おかしい。
どうしていない。
──何がどうなってる?
「どうしていないだ?」
「返事をしてくれよ!」
何時間もかけて俺は家の中を探した。
絶対に家の中にいるはずなんだ。
いないはずがない。
だって今日はミナミの誕生日だ。
誕生日を三人でお祝いする約束をしたんだ。
俺はとにかく二人を探した。
何時間も部屋の中をくまなく探して、少しだけリビングでスマホをいじってから休憩し、それから探し始める。
それ以外俺にできることはなかった。
二人を探すことだけが、俺の生きる目的だった。
──どうしてこんな目に遭うんだ。
家族のために俺は仕事をしてきた。
みんなが幸せになるために仕事をしてきたのに。
この仕打ちは一体なんだ。
どうして二人ともいないんだ。
誰もいない寝室で俺は叫んだ。
美紀子とミナミがいないこの部屋は、まるで酸素がなくなった箱のように息苦しく感じる。
少しでも気が緩むと、死んでしまうような息苦しさだった。
ふざけるな。
どうしてこうなったかまったくわからないが。
こんな意味不明な状況で。
ミナミの誕生日を祝えないで。
死んでたまるか。
俺は絶対にミナミの誕生日を祝いたいんだ。
四歳のミナミを。
五歳になるミナミを。
これから歳を重ねて大きくなっていくミナミを。
俺はこれからもずっと見届けたい。
成長したミナミを見てみたいんだ……。
っつ。
あ。
なんだこれは。
立てない。
体に力が入らない。
──わからない。
なんでこうなったかまるでわからないけど。
なんとなく、俺の中でわかったことがある。
俺。
もうダメかもしれない……。
ミナミ。
もう会えないのか。
──ごめん、ミナミ。
四歳の誕生日お祝いできなくて……
────ハッピーバースデートゥーユー。
声が聞こえた。
壁を見ると、ミナミがいた。
ミナミ。
そこにいたのか。
ケーキを囲って美紀子もいた。
なんだ。
二人ともそこにいたのか。
探したんだぞ。
やっと見つけることができた。
赤ちゃんの時のミナミが目の前にいる。
あはは、かわいいな。
そうだった。
ミナミってこんなに小さかったんだよな。
初めてご飯を食べている0歳半年のミナミもいる。
そうだそうだ。
うまく食べられなくて床にお粥を吐いていたんだっけ。
滑り台で遊ぶミナミ。
一緒にかけっこしたミナミ。
この世界に生まれてきて四年も経ったのか。
ミナミ……。
「パパー!」
「ミナミ四歳になったんだよ!」
「もうお姉ちゃんだよ!」
にっこりとミナミが俺に微笑んでくれる。
ありがとうミナミ。
パパに会ってくれて。
この世界で出会えて本当に嬉しいよ。
四歳のお誕生日……。
おめでとう──────ミナミ。
……………。
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