第4話 探偵VS探偵?
映画館の自動ドアが開くと同時に、外気に満たされた夜の賑わいが、闇に慣れた彼女たちの視界と鼓膜を襲った。劇場のロビーは、先ほどまで静寂に包まれていた世界とは完全に切り離されている。残響の残る耳には、一斉に鳴り響くスマホの通知音と、映画の結末を早口で語り合う人々の声が、濁流のように押し寄せる。
依玲とマンマンは、他の観客の流れに沿って、ゆるやかにエントランスの外へと押し出された。秋の夜の空気は湿気を帯び、冷たい雨の匂いと、ポップコーンの残り香が混じり合っている。
彼女たちは無意識のうちに、互いの腕を軽く掴み合っていた。それは人混みに流されないための物理的な繋がりであると同時に、先ほどまで共有していた濃密な物語世界から、容赦ない現実へと引き戻されることへの、無言の抵抗でもあった。
駅へと続く道は、ネオンの光に照らされてギラギラと濡れていた。アスファルトの表面は、雨が上がったばかりで鏡面のように反射し、無数の光の筋を、まるで抽象画のように地面に描き出している。
「ううう、マンマン見てよ、これが良いストーリーってやつよ。設定も全て論理的で、伏線もすごく上手く張られてるし、緊張感もバッチリだわ」
マンマンはポップコーンの残骸が入った袋を握りしめながら、依玲の熱弁を聞いている。
「ただ、私はキャラクターのモノローグが嫌いなの。独り言は許せるけど、モノローグって一人称でしょ。登場人物みんながモノローグしたら、まるで作者の分身みたいで、キャラに神秘性がなくなるのよ。特にサスペンスミステリーの題材では、映画のような質感を作るには、できるだけ会話と行動で『事実』、そしてキャラクター同士の『やり取り』を構築しなきゃ」依玲は機会を逃さず、また小説の話を始めた。
「言いたいことはわかるよ。作品のキャラ全員がモノローグするのを見たことがあるけど、本当にあなたが言う通り、そのキャラには神秘性も個性もなくて、ただの原稿読み機に過ぎないんだよね」マンマンは今日校正した人気作品のいくつかを思い出した。
「そうでしょ? モノローグは読者への『敗北宣言』なのよ。作者が描写や対話で表現しきれないから、仕方なく頭の中をそのまま文字にする。それはいけないわ。『ジョジョ』みたいに、読み進めたいと思わせるのは、あの知恵比べの『過程』と『結果』なのよ。せいぜい特殊な敵役とか、物語の必要性がある時だけモノローグがある。そうすることで読者に推理の余白を与え、作品への参加感が生まれるのよ」
二人は、まずアーケードのある商店街を抜けるルートを選んだ。夜九時を過ぎてなお、この道は眠らない。カラオケ店の安っぽい歌声と、居酒屋の戸口から漏れる笑い声、そして立ち飲み屋の前に積み重ねられたビールケースが、雑然とした日常のエネルギーを放出している。
マンマンは、ポップコーンの袋を小さなゴミ箱に押し込む。その動作一つ一つが、彼女の几帳面な性格を物語っていた。彼女の白いスニーカーが、濡れたタイルの上を規則的に進む。依玲はそれよりも半歩遅れ、周囲の光景を貪るように観察していた。
ショーウィンドウに映る彼女たちの姿は、光と影に分かれて不安定に揺らめく。店の照明は、派手な赤や緑のネオンを競い合わせ、歩いている人々の顔を青白く照らし出す。その雑踏を構成するのは、終電に間に合わせようと急ぐスーツ姿のサラリーマン、夜遊びの計画を立てているらしき高校生のグループ、そして小さな子どもを連れた夫婦だった。彼らは皆、自分自身の目的地に向かうことに集中しており、依玲たちの熱を帯びた「物語の議論」など、耳に入らない。
特に印象的なのは、立ち尽くす人々だった。スマホの画面を見つめて、誰かを待っているのだろう。彼らの顔は青い光で統一され、都市の喧騒の中にありながら、孤独な島のようだ。依玲の視線が、一瞬だけそのうちの一人に留まる。彼女の心の中にある「孤独」というテーマが、現実の雑踏の中で具現化されているように感じられたのかもしれない。
彼女たちは道の端を歩きながら、近くの雑貨店の前で話し始めた。店先に積まれた安価なガチャガチャの音が、チープなBGMのように響いている。
「推理といえば、私はロバート・ダウニー・Jr.版のシャーロック・ホームズがかなり好きなんだ!」マンマンは話題を変えた。
「私も! しかも映画の手法が面白い! ホームズはまず予測する。脳内で攻撃のシミュレーションを高速再生するあの描写よ。視覚化されたモノローグ、あれだけは例外的に許すわ!ホームズは現実を予測するけど、実際の結果は必ずしも彼の予想通りとは限らない。映画全体が最後のシーンに向けて布石を打っていて、観客に『本当に予想通りになるのか?何が起こるんだ?』って期待させるのよ! 私はそんな作品を書きたいの!」依玲は話せば話すほど興奮し、声が上擦る。
マンマンは優しく微笑む。「君は興味の幅が広すぎて、どんな話題でもついていける。でも、考えてみれば、それが君の強みなんだ。多くの監督もそういう特質を持っている。固執しながらも妥協し、スポンジのように知識を吸収して吐き出し、牛のように情報を反芻し、探偵のように鋭く観察する」
「実は昨日ちょっと時間をかけて、君の作品を全部読んできたんだ。本当にすごいよ、まさかこんな複雑な話を書き上げるとはね。」マンマンは依玲に、ずっと期待していた通りの反応を返した。
「本当!?わあ!イエス!」依玲は大げさに拳を握りしめ、「ストライク!」と審判のようなジェスチャーをした。
「確かに面白い物語だよ。ただ、一般の読者がついていくのは本当に難しいんじゃないかな」マンマンは静かに付け加えた。
「わかってる…」依玲には自覚があった。
「でも、もうストーリーは変えられない。『バタフライ・エフェクト』を起こして、全体の構造を壊してしまうのが怖いんだ。基本的にね、物語を半分まで書いた時点で、キャラクター全員が生きている人間のように勝手に動き出したの。それぞれの人物設定と立場に合わせて、私の頭の中で勝手に考え、次の行動を取るようになった。執筆スピードは岸辺露伴みたいに飛躍的に上がったわ。だから、余計な時間を家族と過ごしたり、ドラマやゲームをしたりして、無理やり自分を抑えなきゃいけなかった。そうしないと、私の頭の中のインスピレーションが爆発してしまうのよ」依玲は、いかにも中二病的なことを語った。
マンマンは、依玲が自分の創作心境を心から真剣に語っているのを見て、いつもの「中二病」とは違うと感じた。
「羨ましいよ。君が言っているのは、多くの作者が夢見る神の領域、『キャラクターの自律性』だ。これは、君のその頑固な、キャラクターの自白を嫌い、全てを『対話と行動』で表現しようとする書き方が、そのメカニズムを起動させたということだ。欧米でもよく言われる『Show, Not Tell.』、つまり説明するな、見せろ、だね。多くの成功した映像作品のスタイルだよ」
「それにしても、君の物語についていくつか疑問があるんだ。難しすぎるよ。君は日本文学科出身なのに、どうしてそんなにテクノロジー業界に詳しいんだい?」マンマンは首を傾げ、人差し指で顎に触れた。
依玲は非常に反常で、何も答えなかった。真剣な表情を浮かべ、目の前の『読者』の好奇心を、真摯に、そして重く受け止めている。
マンマンは少し気圧された。
商店街を抜けると、大きな幹線道路との交差点に出た。駅はもうすぐ目の前だ。
交差点の信号は長く、待っている人々の集団は、まるで都市が呼吸を整えているように静かだった。人々は、誰もが同じ赤信号と、同じ待ち時間、そして頭上にある「残り〇秒」の数字を共有している。
依玲はふと、この交差点こそが、都市の無関心さを最もよく象徴していると感じた。誰もが同じ規則に従い、同じタイミングで動くが、その心の中で繰り広げられている物語は、完全にバラバラなのだ。
向かい側のビルの巨大な広告画面では、海外のハイブランドのCMが流れている。画面の中のモデルは完璧な笑顔を見せていたが、その下に立っている群衆の顔は、疲労と無関心で無表情だった。
遠くから、電車の通過する低い地鳴りのような音が聞こえてくる。それは、この都市の時間が正確に、そして冷酷に進んでいることを示していた。
「明らかに、君のコアキャラクターである間森は、今の世界時価総額一位のテクノロジー企業、N社のCEOを影で示しているんだろう?あえて言わないけど、ハハ。私が聞きたいのは、どうやってそのデジタルヒューマン技術と、マス…いやスティーブンのマールスの技術を結びつけたんだい?現実の技術を利用して、実現可能な未来を描く手法は、確かに奥深いね」マンマンは読者と編集者の両方の立場で問いかけた。
「ごめん、実はわざわざニュースを調べたら、欧米やアジアではあのN社の話題で狂ったように報道されているのに、日本だけは『時価総額が世界一を突破』だとか、『巨大な国家級AI建設の主導者』といった報道ばかりで、その技術の根幹であるGPUの歴史的、本質的な重要性については一切触れられていないことに気がついたんだ。日本でもこの会社は知られているけど、まるで『技術の黒船』のように突然現れたかのように感じるんだよ」マンマンは珍しく少し興奮気味だった。
依玲の表情は複雑になった。マンマンも彼女の第一段階である「覚醒」を体験し始めているからだ。
「日本だって歴史上、重要な役割を果たしてきたじゃない!もし、あの時SEGAさんがあのことをしなければ…ごめん、ちょっと露骨すぎる?あ、もういいわ、君だってあんなに露骨に書いてるんだから!もし当時、日本がいなければ、この会社は今日のような存在にはなりえなかったのに、日本メディアではほとんど言及されない。それに、彼の個人伝記日本版さえ見つけるのが難しい。これって、もしかして君の執筆テーマである『存在』のインスピレーション源なんじゃない?」依玲はマンマンを見つめた。彼女は第二段階に近づいている。
「マンマンは本当にすごいよ。読み終わったばかりなのに、もうそんなに深く洞察して、さらに裏付けまで調べたんだから。これは確かに難しい題材だわ。特に日本の社会は、N社の技術にほとんど触れない。実は、日本にもこの会社を知っている人はいるよ。私、Xでね、ある日本人のネットユーザーが、10年前に約150万円でN社の株を買って、それが280倍になって4億円になったってシェアしてるのを見たんだ。あ、でも、やっぱり技術については触れられてなかったわ」依玲は答えた。
「たとえ欧米やアジア、特にCEOの故郷である台湾でさえ、どんなに詳細な報道であっても、技術の背後にある哲学、そしてその持続的な発展がもたらす未来についてまで考える人は、本当に少ないのよ!」依玲は少し得意げに言った。その態度は、物語の中で青山剛昌のイースターエッグを解読する主人公の態度とは全く違っていた。
「それから君は、算力テクノロジーの弱点である『エネルギー』も巧みに物語に導入している。そして、マス…マールスのロケット技術。言われてみれば本当に理にかなってるね。月面を太陽光発電基地にするなんて。そして、君が描くアメリカ大統領も、ハハハ、生き生きとしている」マンマンは完全に依玲の物語に心を掴まれていた。
「だけどね、後半はとても重いよ。たくさんの出来事が起きる。もちろん、数少ないアクションシーンも好きだよ。頭脳戦スタイルだし、しかも毎回前の回のラストシーンに繋がっていて、まるで『ナルト』の漫画で使われていた『マッチング・カット、図形接写』のトランジションみたいだ!」マンマンは興奮で言葉が乱れていた。
「君は本当に人類が消滅すると思う?」マンマンは突然尋ねた。
「マンマン、第二段階、『恐れ』へようこそ」依玲は用心深く答えた。
「厳密に言えば、消滅ではない、だよね?でも、でもちょっと受け入れがたいよ。それに、君は一番混沌として恐ろしいプロセスをスキップしたんだろう?」マンマンは後半のクライマックスを思い返した。
「へへ、もし私がまだ書き続ける力があれば、最もダークな部分は第三部に取っておきたいと思ってる。」依玲は直接的な回答を避けた。
「おお!第三部があるの!?もう構想はできてるの?」マンマンはまるで熱狂的なファンように跳ね上がった。
「待って!待って!」依玲は両手のひらを突き出してマンマンを止めようとした。
「君はまず、私の作品を広める手伝いをするべきじゃないの?」依玲は眉をひそめた。
「もちろんするさ!こんなに素晴らしい作品だよ!ただ、君も知ってるだろうけど、誰もが私みたいに領域横断的な作品を受け入れられるわけじゃないからね!」マンマンは自信に満ちた笑みを浮かべた。
「そうだ。」マンマンは突然立ち止まった。
「そういえばさ、君が忘れられないその人、なんで忘れられないの?」依玲の動きは完全に止まり、笑顔も消えた。
信号が青に変わり、人波が一気に駅の入り口へと流れ込む。依玲とマンマンもそれに加わった。
駅の構造物は、コンクリートと鋼鉄でできており、合理性と機能性を極めたデザインだ。この空間に入ると、街の雑多な匂いは消え、代わりに特有の、埃と鉄と消毒液の混じった匂いが鼻につく。
マンマンはただの聞き役として来たわけではない。彼女は物語を掘り出しに来たのだ。望むところだ。私には、出口が必要だ。たぶん、この物語はマンマン以外には誰も読んでくれないだろう。ああ、今こそ、私が一番嫌いなモノローグの時間だ。
依玲は深く息を吸い込んだ。
「簡単に言えばね、大学1年生の時、クラスにいた男の子が、まるで探偵みたいに、私の大好きな工藤新一みたいにかっこよく、私が剣道部に入った理由を言い当てたの。」
「でもね、単純なのは彼で、複雑なのは私の心だった」
「ああ、わかるよ。」
「ごめんね、傷口をえぐっちゃった」マンマンは静かに答えた。
「もしあなたがそれで理解できたのなら、きっとこの物語を裏話まで見届けてくれるわ」依玲はついに心からの笑顔を見せた。
――
小説とは、作者のモノローグとして間違いないと私は思いますが、少しでもキャラの気持ちを考慮できれば、より多くの共感に繋がるのではないでしょうか。
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