第2話 最初の要塞戦

 ノルトフェステまでの道のりは、二日を要した。

 グラーツから北へ、山岳地帯へと続く古い街道を行軍する。三百の兵を率いての移動は、思っていたよりも時間がかかった。


 荷馬車が轍にはまり、予備役の老兵が足を痛め、若い兵士が行軍の疲れで顔を青くする。僕は馬上から彼らを見ながら、これが戦争なのだと実感した。歴史書の中では、軍隊は地図上の矢印のようにすいすいと動く。


 だが現実は違う。一人一人が生身の人間で、それぞれに限界がある。


 街道の両側には、まだ雪の残る山々が連なっていた。三月も半ばだというのに、この辺りは冬の名残が色濃い。風は冷たく、吐く息が白く凍る。兵士たちは厚手の外套を羽織り、身を寄せ合うようにして進んでいった。




 二日目の夕刻、ようやくノルトフェステの姿が見えてきた。

 山の中腹に建つ、灰色の石造りの要塞。高い城壁が周囲を囲み、四隅には見張り塔が立っている。


 かつては国境を守る重要な拠点だったのだろうが、今では時代遅れの遺物だ。魔導兵器の発達した現代において、石の壁がどれほどの意味を持つのか。

 要塞の門が軋みながら開き、僕たちを迎え入れた。


 要塞の中庭は、予想以上に狭かった。三百の兵が入ると、ほとんど隙間がない。石畳の地面には苔が生え、壁には蔦が絡まっている。手入れが行き届いていないのは明らかだった。


「リオン・フェルナンド閣下をお迎えします」


 出迎えたのは、要塞の守備隊長だった。ヴァルター・シュミット大尉。五十代半ばの、顔に傷跡のある歴戦の軍人だ。髪は白髪交じりで、軍服の肩章は擦り切れている。けれど、その目には鋭い光があった。


「ご苦労様です、大尉。リオン・フェルナンドです」


 僕は馬から降りて、敬礼した。ヴァルター大尉は一瞬、僕の若さに驚いたような顔をしたが、すぐに表情を引き締めて敬礼を返した。


「閣下、現状を報告します。帝国軍の偵察部隊が、国境線を越えて活動しています。本隊の到着は、恐らく三日以内かと」


 三日。思っていたより早い。


「兵力は?」


「情報部の推定では、一個師団規模。約一万です」


 一万対五百。二十倍の兵力差だ。勝てるわけがない。誰が考えてもそうだろう。けれど、ここで戦わなければならない。少なくとも、時間を稼がなければならない。


「要塞の状態は?」


「城壁は古いですが、まだ堅牢です。食料と水は一ヶ月分。弾薬は......正直なところ、長期戦には耐えられません」


 ヴァルター大尉の言葉は簡潔だった。つまり、籠城は無理だということだ。


「分かりました。作戦会議を開きましょう」




 執務室は狭く、天井が低かった。石の壁からは冷気が滲み出て、暖炉の火があっても寒い。テーブルの上に地図を広げると、ヴァルター大尉と、僕の副官であるエリカ・ブラウン中尉が顔を寄せた。


 エリカは、グラーツを出発する前日に配属された副官だ。二十六歳。黒髪を後ろで結い、眼鏡の奥の瞳は鋭い。

 軍の事務官としての経験があり、地図の読み方から補給計算まで、あらゆることに精通している。

 僕のような素人指揮官には、これ以上ない補佐役だった。


「敵の進路は、恐らくこのグラウベン渓谷を通ってきます」


 僕は地図上の、国境から要塞へと続く谷筋を指でなぞった。


「ここは狭く、大軍が通るには時間がかかる。つまり、補給線が伸びきる」


「では、その補給線を叩くと?」


 エリカが即座に理解した。僕は頷く。


「孫子は言いました。『善く戦う者は、先ず勝つ可からざるを為して、以て敵の勝つ可きを待つ』と。まず自分が負けない状態を作り、それから敵が勝てる隙を見せるのを待つ。正面から戦えば、我々に勝ち目はありません。だから、敵の弱点を突く」


 僕は地図上の別の地点を指した。


「歴史上、補給を絶たれて敗北した軍は数知れません。ナポレオンのロシア遠征もそうです。大軍であればあるほど、補給の重要性は増す。夜間に少数で奇襲をかけ、補給部隊を叩く。敵を混乱させ、進軍を遅らせる」


「危険です」

 ヴァルター大尉が口を挟んだ。


「夜間の山岳戦は、味方も危険に晒されます。それに、敵も警戒するでしょう」


「おっしゃる通りです。だからこそ、やる価値がある」


 僕は大尉を見た。


「敵は、こんな小さな要塞が夜襲をかけてくるとは思わないはずです。油断している今が、唯一の好機です」


 しばらく沈黙があった。暖炉の薪が弾ける音だけが、部屋に響く。


「......分かりました」


 ヴァルター大尉は、ゆっくりと頷いた。


「閣下の作戦に従います。私が夜襲部隊を率いましょう」


「いえ、僕が行きます」


 僕の言葉に、二人は驚いた顔をした。


「閣下、危険すぎます」


「指揮官が前線に出るなど──」


「だからこそです」

 僕は二人を遮った。


「僕は実戦経験がない。兵士たちもそれを知っています。だから、共に戦う姿を見せなければならない。でなければ、誰も僕の指揮には従わないでしょう」


 それに、と僕は心の中で付け加えた。自分で立てた作戦で人を死なせるなら、自分も同じ危険を冒すべきだ。それが、最低限の責任だと思う。


「......了解しました」

 エリカは小さくため息をついたが、頷いた。


「では、準備を進めます」




 その夜、要塞の中庭に五十の兵が集まった。

 全て志願兵だ。夜襲という危険な任務に、誰も強制はしていない。


 だが、ヴァルター大尉が募集をかけると、予想以上の数が手を挙げた。中には白髪の老兵もいれば、まだ二十歳にもならない若者もいる。


 月は雲に隠れて、闇は深かった。風が吹き、城壁の旗が音を立てている。冷たい空気が、肌を刺すように冷たい。


「諸君」


 僕は彼らの前に立った。五十の視線が、僕に注がれる。


「これから、敵の補給部隊を襲撃する。危険な任務だ。だが、成功すれば、敵の進軍を遅らせることができる」


 兵士たちは黙って聞いている。誰も口を開かない。


「正直に言おう。僕は実戦経験がない。歴史書で戦争を学んだだけの、素人だ」


 そこで、何人かがざわついた。当然だろう。こんな指揮官の下で戦いたくはないはずだ。


「だが、一つだけ約束する。僕は諸君を無駄死にさせない。必ず、生きて帰る」


 僕は一人一人の顔を見た。


「共に、生き延びよう」


 短い言葉だったが、兵士たちの表情が少し和らいだ気がした。


「出発だ」

 ヴァルター大尉の号令で、部隊が動き出した。




 夜のグラウベン渓谷は、暗闇に沈んでいた。

 月明かりもなく、道は見えない。だが、それは敵も同じだ。僕たちは、地形を熟知した地元の猟師を先導に、慎重に進んでいった。


 足音を殺し、話し声も封じる。武器は布で包んで、金属音が出ないようにしてある。呼吸すら、大きくしないように気をつけた。


 渓谷の底を流れる川の音が、遠くから聞こえてくる。水が岩を叩く、規則的な音だ。その音に紛れて、僕たちは進む。


 二時間ほど歩いたところで、先頭の猟師が手を挙げた。全員が立ち止まる。


 前方に、明かりが見えた。

 松明だ。幾つもの松明が、渓谷の道を照らしている。そして、荷馬車の列。帝国軍の補給部隊だ。


「二十......いや、三十の馬車」

 ヴァルター大尉が、僕の隣で小声で言った。


「護衛は百程度か。数は多いが、警戒は緩い」


 確かに、兵士たちは油断しているように見えた。まさかこんな夜中に、こんな場所で襲われるとは思っていないのだろう。


「二手に分かれます」

 僕は作戦を確認した。


「大尉が率いる第一部隊が、正面から奇襲をかける。僕が率いる第二部隊は、迂回して馬車を襲う。目標は補給物資の破壊。戦闘は最小限に」


「了解」


 部隊は二つに分かれた。ヴァルター大尉が三十の兵を率いて、正面へ。僕は残りの二十を連れて、側面の崖を回り込む。


 岩場を登るのは困難だった。手がかりが少なく、何度も滑りそうになる。だが、兵士たちは文句一つ言わずについてきた。


 崖を登り切ったところで、下を見下ろした。

 補給部隊が、真下にいる。馬車の荷台には、木箱が積まれていた。恐らく、食料や弾薬だろう。


 その時、渓谷の反対側から、銃声が響いた。

 ヴァルター大尉の部隊が、攻撃を開始したのだ。


「今だ!」

 僕は叫んで、崖を駆け下りた。


 混乱は、一瞬で広がった。


 ヴァルター大尉の部隊が放った一斉射撃の轟音が、渓谷に反響する。硝煙の匂いが鼻を突き、視界が白く霞む。帝国軍の兵士たちの悲鳴が響き、松明が倒れて火の粉が舞い上がった。


 僕は崖を駆け下りながら、全身に緊張が走るのを感じた。心臓が激しく打ち、手の平に汗が滲む。これが戦場だ。歴史書の中の、活字の戦争ではない。生身の人間が殺し合う、現実の戦場だ。


 馬車の列に飛び込む。火が馬車に燃え移り、黒煙が立ち上る。焦げた木材と火薬の匂いが混ざり合い、喉の奥が焼けるように痛い。馬が嘶きながら暴れ、荷物が地面に散乱した。


「火をつけろ! 片っ端から燃やせ!」


 僕は叫んだ。兵士たちが松明を馬車に投げ込み、木箱を斧で叩き割る。中から小麦粉の袋が飛び出し、白い粉が舞った。次の箱からは弾薬が。それも火の中に投げ込む。

 パン、パンと小爆発が起こる。火薬が爆ぜる音だ。


「閣下、撤退を!」


 エリカの声が聞こえた。彼女も、僕と共に来ていた。本当は後方にいるべきだったのだが、断固として同行を主張したのだ。煤で顔が黒く汚れ、髪が乱れている。


「まだだ、もう少し──」


 その時、空気を切り裂く音がして、銃弾が僕の横を掠めた。耳元をかすめ、背後の馬車に命中する音。

 帝国軍が、反撃を始めたのだ。


「撤退!」


 僕は叫んだ。兵士たちが、一斉に退き始める。だが、何人かが倒れた。撃たれたのか、足を踏み外したのか。


「負傷者を!」


 ヴァルター大尉の声が響く。兵士たちが倒れた仲間を担ぎ上げる。僕も、一人の若い兵士の腕を掴んで引っ張り上げた。


 渓谷を駆け上がる。後ろからは、帝国軍の追撃の声が聞こえる。だが、暗闇の中では彼らも動きが鈍い。


 何とか崖を登り切り、森の中へ逃げ込んだ。

 息が切れる。心臓が激しく打っている。だが、立ち止まるわけにはいかない。


 ひたすら走った。

 要塞の明かりが見えた時、僕はようやく安堵のため息をついた。


 要塞に戻ると、夜はもう明けかけていた。

 東の空が白み始め、鳥の声が聞こえてくる。兵士たちは疲れ果てて、中庭に座り込んでいた。


「損害は?」

 僕はヴァルター大尉に訊ねた。


「戦死二名。負傷者五名。残りは全員無事です」


 二名。二人の兵士が死んだ。名前も、顔も知らない。だが、僕の命令で死んだのだ。


「......そうですか」

 胸が重くなった。


「閣下」

 ヴァルター大尉が言った。


「作戦は成功です。敵の補給物資の半分以上を破壊しました。これで、敵の進軍は遅れるでしょう」


「代償が大きすぎます」


「いいえ」

 大尉は首を横に振った。


「戦争です。犠牲は避けられません。それでも、閣下は最小限に抑えた。それだけで十分です」


 最小限。二人の死が、最小限。

 僕は何も言えなかった。


 執務室に戻ると、窓の外がもう明るくなっていた。遠くの山々が、朝日を浴びて赤く染まっている。


 美しい景色だった。

 だが、その美しさが、今はひどく虚しく感じられた。




 朝食を終えた頃、斥候が戻ってきた。


「閣下、帝国軍本隊の情報です」


 若い斥候兵が、息を切らしながら報告した。


「指揮官は、エルヴィン・クライン大佐。帝国南方軍の第三旅団長です。歴戦の軍人で、冷徹な戦術家として知られています」


 クライン大佐。名前だけは聞いたことがある。帝国軍の中でも、実力派の指揮官だと。


「昨夜の夜襲で、大佐は激怒しているとのことです。『辺境の小要塞風情が』と」


 斥候の言葉に、僕は苦笑した。

 そうだろう。帝国軍にとって、ノルトフェステなど取るに足らない障害物のはずだった。それが夜襲を仕掛けてきて、補給物資を破壊した。プライドを傷つけられたのだろう。


「大佐は、今日中に要塞を落とすと宣言しているそうです」


「......そうですか」


 僕は窓の外を見た。遠くに、帝国軍の陣営が見える。テントが立ち並び、砲が並べられていく。


 本格的な攻撃が、始まる。

 夜襲で時間を稼いだが、それももう終わりだ。次は、要塞を守る戦いになる。いや、守り切れるはずがない。


 ならば、どうするか。

 僕は地図を広げ、撤退路を再確認し始めた。

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