第3話 撤退戦の勝利

 夜襲の翌朝、帝国軍の砲撃が始まった。

 最初の一発は、要塞の城壁に命中した。轟音が耳を劈き、石が砕ける音が響く。衝撃で足元が揺れ、城壁の破片が雨のように降ってきた。僕は反射的に身を伏せた。


 二発目、三発目と続けざまに砲弾が飛んでくる。一発が見張り塔の近くに着弾し、爆発の熱風が顔を撫でた。硝煙と石の粉塵が混ざり合い、視界が白く霞む。


「伏せろ!」


 ヴァルター大尉の怒鳴り声が響く。兵士たちが城壁の陰に身を隠した。


 僕も石壁の影に身を寄せながら、遠くの帝国軍の陣営を見た。砲列が並び、一斉に火を吹く。白煙が立ち上り、轟音が谷間に反響する。一万の軍勢が、この小さな要塞を包囲している。


「閣下、このままでは城壁が持ちません!」


 若い兵士が叫んだ。フリッツという名だったはずだ。二十歳にもならない、グラーツの仕立て屋の息子。恐怖で顔が青ざめている。


「分かっている。だが、まだ耐えろ」


 また砲弾が飛んでくる。城壁の一部が崩れ、土煙が上がった。


「撃ち返せ!」


 ヴァルター大尉が命じた。要塞の旧式砲が火を吹く。だが、射程距離が足りない。砲弾は帝国軍の陣地の手前に落ち、土を跳ね上げただけだった。


「くそっ、届かない!」


 砲手の老兵ハンスが悔しそうに吐き捨てた。五十を過ぎたベテランだが、旧式の砲ではどうにもならない。


 砲撃は、一時間以上続いた。

 城壁のあちこちが崩れ、見張り塔の一つが半壊した。負傷者が次々と運ばれてくる。僕は執務室の窓から、その惨状を見ていた。


 これが、戦争だ。

 圧倒的な兵力差。一方的な砲撃。為す術もなく、ただ耐えるしかない。


 勝てるわけがない。


「閣下、敵の先鋒部隊が射程距離に入ります」


 ヴァルター大尉が報告に来た。顔には疲労の色が濃い。昨夜の夜襲から、ほとんど眠っていないはずだ。僕も同じだが。


「砲撃は?」


「まだです。恐らく、布陣を整えてから一斉に攻撃してくるでしょう」


 執務室の窓から、遠くの帝国軍の陣営が見えた。テントが次々と張られ、砲が設置されていく。整然とした、訓練された軍隊の動きだ。


「勝てませんね」


 僕は率直に言った。


「正面から戦えば、一時間も持たないでしょう」


「......はい」


 ヴァルター大尉は、苦渋の表情で頷いた。


「ならば、撤退します」


 撤退。その言葉を口にした時、執務室にいた将校たちが一斉に顔を上げた。


「撤退、ですか?」


 エリカが訊ねた。その声には、驚きと同時に、どこか安堵の響きがあった。


「ええ。この要塞を守り切ることは不可能です。ならば、兵を温存して後退する。グラーツまで撤退し、王国本国からの増援を待つ」


「しかし、要塞を放棄すれば──」


「批判されるでしょうね」


 僕はヴァルター大尉を見た。


「臆病者、敗北主義者。色々と言われるでしょう。でも、構いません。僕の目的は、勝つことではなく、生き残ることです」


 沈黙が降りた。暖炉の火が、パチパチと音を立てている。


「閣下」


 ヴァルター大尉が、ゆっくりと口を開いた。


「私は、四十年近く軍人をやってきました。多くの戦場を見てきました。そして、多くの仲間を失いました」


 大尉の目が、遠くを見ている。


「名誉のために戦い、勝利のために死んでいった者たちを、たくさん見ました。でも......生きて帰った者の方が、結局は幸せだったのだと、今になって思います」


 大尉は僕を見た。


「閣下の判断を、支持します」


「ありがとうございます」

 僕は頭を下げた。


「では、撤退の準備を。日没後に要塞を出ます。帝国軍が夜間攻撃をしてこないうちに、できるだけ距離を稼ぎます」




 夕刻、要塞の中庭に全兵士が集まった。

 彼らの顔には、疲労と不安が浮かんでいる。昨夜の夜襲で二名を失い、負傷者も出た。そして今、圧倒的な敵を前にして、誰もが自分の命の危険を感じているだろう。


「諸君」


 僕は彼らの前に立った。夕日が西の空を赤く染めていて、その光が石壁を照らしている。


「これより、要塞を放棄し、グラーツへ撤退する」


 ざわめきが起きた。当然だろう。守るために来た要塞を、戦わずして放棄するのだから。


「臆病だと思うかもしれない。だが、僕は諸君を無駄死にさせるつもりはない」


 僕は一人一人の顔を見た。


「ここで戦えば、確実に全滅する。敵は一万、我々は五百に満たない。勝てるはずがない」


 風が吹いて、公国旗が音を立てた。


「だから、撤退する。生き延びる。そして次の機会を待つ。それが、今僕たちにできる最善の策だ」


 しばらく沈黙があった。そして、一人の老兵が声を上げた。


「閣下、我々は閣下についていきます」

 他の兵士たちも、頷いた。


「ありがとう」

 僕は、心からそう言った。


「では、出発の準備を。日没と同時に、要塞を出る」




 日が沈み、暗闇が訪れた。

 要塞の門が、静かに開かれる。松明は最小限に抑え、できるだけ音を立てないように兵士たちが外へ出ていく。


 僕は最後に、要塞の執務室に立った。二日間だけ使った、この狭い部屋。暖炉の火はもう消してあり、冷気が満ちている。


 机の上には、地図が広げたままになっていた。ノルトフェステ、グラウベン渓谷、グラーツ。僕が通ってきた道、そしてこれから戻る道。


 窓の外を見た。砲撃で傷ついた城壁、崩れた見張り塔、中庭に散乱した瓦礫。夕日が、その全てを赤く染めている。


 この景色を、記憶に残しておきたかった。


 ポケットから小さなスケッチ帳を取り出す。グラーツを出る時、荷物に忍ばせておいたものだ。鉛筆で、素早く要塞の輪郭を描いた。城壁の線、塔の形、遠くの山並み。


 たった数分の、粗いスケッチだ。だが、これで十分だ。いつか、この要塞を取り戻す時まで、この絵が記憶を繋ぎ止めてくれるだろう。


 スケッチ帳を閉じ、ポケットにしまった。

 この要塞を、守り切れなかった。


 だが、兵士たちは生きている。それだけで、十分だと思いたい。


「閣下、時間です」


 エリカが扉のところに立っていた。


「ええ、行きましょう」


 僕は執務室を後にした。振り返らなかった。振り返れば、何か言い訳をしたくなりそうだったから。




 撤退は、予想以上に困難だった。


 夜道を、五百近い兵士が移動するのは容易ではない。松明を最小限にしているため、足元が見えず、何度も誰かが転んだ。荷馬車の車輪が石に引っかかり、立ち往生する。


 だが、文句を言う者は誰もいなかった。皆、必死だった。後ろからは、帝国軍が追ってくるかもしれない。一刻も早く、距離を稼がなければならない。


 山道を下り、平原へ出た。

 そこで、僕は部隊を止めた。


「大尉、ここで囮部隊を編成します」


「囮、ですか?」

 ヴァルター大尉が訊ねた。


「帝国軍は、明日の朝には要塞が空だと気づくでしょう。そうなれば、追撃してくる。だから、彼らの追撃部隊を引きつける囮が必要です」


 僕は地図を広げた。月明かりの下で、地形を確認する。


「この森を使います。騎兵部隊を囮にして、敵を森の中へ誘い込む。そして本隊は、別のルートでグラーツへ」


「危険です。囮部隊は、帝国軍に追いつかれるかもしれません」


「だから、僕が囮部隊を率います」


 僕の言葉に、エリカが反対した。


「閣下、それは──」


「大丈夫です。僕は逃げるのが得意ですから」


 冗談めかして言ったが、本心でもあった。戦うことよりも、逃げることの方が僕の性に合っている。歴史書で学んだのも、華々しい勝利よりも、巧みな撤退戦の方が多い。


「エリカ中尉、本隊の指揮は大尉に任せます。あなたは、補給と兵站の管理を」


「......了解しました」

 エリカは渋々頷いた。


 夜明け前、僕は五十の騎兵を率いて、本隊と別れた。


 馬に乗り、森の中を進む。朝霧が立ちこめていて、視界が悪い。だが、それは隠れるには好都合だ。


 森の入り口で待った。


 日が昇り始めた頃、遠くから馬蹄の音が聞こえてきた。

 帝国軍の追撃部隊だ。


「来たぞ」

 僕は騎兵たちに合図した。


 森の縁に姿を現し、帝国軍に見えるようにする。敵の先頭が、僕たちに気づいた。号令が響き、追撃が始まる。


「逃げろ!」

 僕は叫んで、馬を走らせた。


 森の中へ。枝が顔を掠め、根が馬の足を引っ掛けそうになる。だが、構わず走る。後ろからは、帝国軍の騎兵が追ってくる。


 森を抜け、開けた場所に出た。そこには、崖があった。


 下を見ると、川が流れている。高さは......十メートルほどか。


「閣下、まさか!」

 部下の一人が叫んだ。


「飛び降りるしかありません!」


 僕は馬から降りて、崖の縁に立った。

 後ろからは、帝国軍が迫ってくる。選択肢はない。


「飛び降りろ!」


 そう叫んで、僕は崖から身を投げた。

 一瞬の浮遊感。そして、冷たい水が全身を包んだ。




 川の流れに身を任せ、下流へと流された。

 冷たい。息ができない。だが、必死に岸へ泳いだ。


 何とか岸に這い上がると、他の騎兵たちも次々と上がってきた。全員ではない。何人かは、流されてしまったようだ。


「数を確認しろ!」


 僕は叫んだ。兵士たちが、互いを確認し合う。


「四十三名、無事です!」


 七名が行方不明。だが、死んだとは限らない。流されて、下流で上がったかもしれない。


 そう思いたかった。


 崖の上を見ると、帝国軍の騎兵たちがこちらを見下ろしていた。だが、彼らは追ってこなかった。この崖を飛び降りるリスクを冒すほど、僕たちに価値はないということだろう。


「引き上げます」


 僕たちは、ずぶ濡れのまま、グラーツへの道を急いだ。




 グラーツに到着したのは、それから三日後だった。

 城門が開き、僕たちを迎え入れてくれた時、ようやく安堵のため息が漏れた。


 公爵城の中庭には、すでに本隊が到着していた。ヴァルター大尉とエリカが、僕たちを出迎えてくれた。


「閣下、ご無事で!」


 エリカが駆け寄ってきた。その目には、安堵と非難が入り混じっている。


「ええ、何とか」


 僕は馬から降りた。全身がずぶ濡れで、泥だらけだった。


「損害は?」


「囮部隊から、七名が行方不明です。本隊は、全員無事にグラーツへ到着しました」


 七名。また、失った。


「......そうですか」


 胸が重い。だが、それでも、五百近い兵士の大半を生きて帰すことができた。要塞は失ったが、兵は温存できた。


「閣下」

 ヴァルター大尉が言った。


「見事な撤退戦でした。歴史に残るでしょう」


「そんな大げさな」

 僕は苦笑した。

「ただ逃げただけです」


「いいえ」

 大尉は首を横に振った。


「全滅を避け、兵を生かして帰す。それこそが、真の勝利です」


 真の勝利。


 僕には、そうは思えなかった。要塞を失い、兵士を何人も失った。これが勝利のはずがない。


 だが、それでも。

 生き残った兵士たちの顔を見ると、少しだけ、救われた気がした。


 彼らは生きている。それだけで、意味があるのかもしれない。


 そう思いたかった。

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