【完結】生き残ることを第一にしたら、英雄になっていた男の戦記 〜辺境の知将リオン〜
蒼井するめ
第1話 開戦の報せ
古い紙の匂いが、静かに鼻腔をくすぐる。
グラーツ図書館の三階、西側の窓際。午後の陽光が斜めに差し込んで、積み上げられた本の背表紙を柔らかく照らしている。
埃の粒子が光の筋の中でゆっくりと舞い、まるで時間そのものが可視化されたかのようだ。
窓の外からは市場の喧騒が微かに聞こえてくるが、この厚い石壁に守られた空間では、それもまた遠い世界の出来事のように思える。
僕の手元にあるのは、クラウゼヴィッツの『戦争論』の古い写本だ。革装丁の表紙は手垢で黒ずみ、ページの端は何度も繰られた痕跡で波打っている。「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」という有名な一節のところに、前の持ち主が引いたであろう赤い線が残っていた。
僕はこの一節に、あまり感銘を受けない。政治の継続というには、戦争はあまりに多くのものを破壊してしまう。人の命も、街も、日常も。そして本も。歴史を紐解けば、アレクサンドリア図書館のように、戦火で失われた知識がどれほど多いことか。
ふと顔を上げると、窓ガラス越しにサヴォワールの街並みが目に入った。石造りの建物が密集し、赤茶けた瓦屋根が幾重にも連なっている。教会の尖塔が空を突き、その風見鶏が午後の光を反射して鈍く輝いていた。遠くには山並みが見え、その向こうはもうアルデンハイム帝国の領土だ。
穏やかな、平和な風景。
この平和が、もうすぐ終わることを、僕はまだ知らなかった。
図書館の静寂を破ったのは、階段を駆け上がる足音だった。
革靴が石の段を叩く乾いた音が、螺旋階段を通じて反響してくる。慌ただしい足音だ。普段この図書館に来る人々は、もっと静かに歩くものだが。
「リオン様!」
息を切らした声が、三階の読書室に響いた。
振り返ると、従者のアルフレッドが階段の踊り場に立っている。五十を過ぎた小柄な男で、普段は落ち着いた物腰なのだが、今日は顔が紅潮し、額には汗が浮かんでいた。
司書のマルティン老人が眉をひそめているのが見える。図書館で大声を出すなど、あってはならないことだ。
「どうした、アルフレッド。そんなに慌てて」
僕は本に栞を挟みながら、できるだけ穏やかな声で応じた。
「公爵様が、お呼びです。すぐに城へ戻るようにと」
アルフレッドは肩で息をしながら、言葉を継いだ。
「帝国が......アルデンハイム帝国が、王国への全面侵攻を開始したそうです」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
全面侵攻。開戦。戦争。
頭の中で、その言葉がゆっくりと意味を結んでいく。そして僕は、開いていた本をそっと閉じた。革の表紙が触れ合う、小さな音が静寂の中で妙に大きく響いた。
「......そうか」
他に言うべき言葉が見つからなかった。困ったな、と心の中で呟く。本当に、困ったことになった。
サヴォワール公爵城は、グラーツの街を見下ろす丘の上に建っている。もともとは三百年ほど前に築かれた国境要塞で、代々のフェルナンド家当主がそれを居城として使ってきた。厚い石壁、狭い窓、そして冷たい石の床。装飾こそ施されているものの、本質的には戦うための場所だ。
大広間に足を踏み入れると、すでに何人もの将校と貴族が集まっていた。長いオーク材のテーブルを囲み、広げられた地図を険しい顔で見つめている。蝋燭の明かりが揺らめき、彼らの影を壁に映し出していた。
僕が入っていくと、何人かが視線を向けたが、すぐに興味を失ったように議論に戻った。
当然だろう。僕はリオン・フェルナンド、サヴォワール公爵家の三男。長男のヴィクトルは騎士団を率い、次男のエミールは外交官として王都に出仕している。
僕は......何もしていない。強いて言えば、図書館で歴史書を読み、たまに風景画を描いているだけだ。二十四歳にもなって、これといった功績もない。
「リオン、来たか」
テーブルの上座から、父の声がした。
レオポルド・フェルナンド公爵。六十二歳。白髪交じりの髪を後ろに撫でつけ、鷲のような鋭い目でこちらを見ている。軍人として幾つもの戦場を経験してきた男の目だ。
その視線には、期待も失望もない。ただ必要だから呼んだ、という事務的な響きだけがあった。
「はい、父上」
僕は一礼した。父の隣には、軍務卿のシュナイダー伯爵がいる。分厚い軍服を着込んだ老将で、その顔には深い皺が刻まれていた。
「帝国が動いた」
父の言葉は簡潔だった。
「ヴォルフガング・フォン・シュタール元帥率いる南方方面軍が、国境を越えて侵攻を開始した。兵力は推定で八万。我がサヴォワールは最前線となる」
周囲の将校たちが、重苦しい沈黙の中で頷いている。誰かが咳払いをした音が、石壁に反響した。
八万。途方もない数字だ。サヴォワール公国の常備軍は、せいぜい五千。予備役を動員しても、倍にはならない。
王国本国からの増援を待つにしても、この辺境の地に到達するまでには時間がかかるだろう。その前に蹂躙されてしまう可能性が高い。
「国境の要塞、ノルトフェステには、すでに帝国軍の前衛が迫っている。守備隊は少数だ。増援を送らねばならん」
父は地図の上の一点を指差した。サヴォワールとアルデンハイム帝国の国境、山岳地帯にある小さな砦の印だ。ノルトフェステ。「北の要塞」という意味の名を持つ、古い防衛拠点。
「リオン」
父が僕の名を呼んだ。
「お前に、ノルトフェステ守備隊の指揮を任せる」
一瞬、耳を疑った。周囲の空気が変わったのを感じる。
「......は?」
「聞こえなかったか。お前に、辺境守備隊の指揮を任せる。三百の兵を率いて、明日の朝に出発しろ」
周囲の将校たちが、一斉に視線を向けてきた。驚き、困惑、そして......同情。ああ、そういうことか、と僕は理解した。これはお飾りだ。三男坊に箔をつけるための、名ばかりの任命。実際の指揮は経験豊富な副官に任せるのだろう。僕はただ、そこにいればいい。邪魔にならない程度に。
それとも、もっと悪い意味かもしれない。万が一、僕が戦死しても、公爵家には長男も次男もいる。影響はない。
参ったな、と思った。本当に、参ったな。
だが、断る理由もない。というより、断れば非国民の烙印を押されるだろう。戦時に、公爵家の息子が戦場を拒否するなど、あってはならないことだ。
「......承知しました、父上」
僕はそう答えた。自分の声が、妙に遠くから聞こえる気がした。
父は満足そうに頷き、すぐに次の議題に移った。補給路の確保がどうの、王国本国への連絡がどうの。僕のことなど、もう頭にないらしい。
会議の間、僕はずっと地図を見ていた。ノルトフェステの位置。そこから帝国領への距離。グラーツまでの退路。頭の中で、歴史書で読んだ様々な戦いが蘇ってくる。
カンナエの戦い、アウステルリッツ、ワーテルロー。全て、終わった戦いだ。歴史の一ページに過ぎない。けれど今から僕が向かうのは、まだ結果の見えない、現在進行形の戦場だ。
面倒なことになった。本当に、面倒なことになった。
会議が終わり、城を出た僕は、もう一度図書館へ向かった。
夕暮れ時のグラーツの街は、いつもと変わらぬ様子だった。石畳の道を人々が行き交い、パン屋の窓からは甘い香りが漂ってくる。
子供たちが路地で遊んでいる声が聞こえた。戦争が始まることを、彼らはまだ知らないのだろう。明日になれば、街中に触れが出回るはずだが。
図書館の扉を開けると、マルティン老人が受付の椅子に座っていた。七十を超える齢だが、背筋はまだしっかりしている。眼鏡の奥の瞳が、僕を見た。
「リオン様」
老人の声は穏やかだったが、その目は全てを悟っているようだった。
「戦争ですか」
「ええ」
「あなたも、行かれるので?」
「どうやら、そのようです」
マルティンは深い皺の刻まれた顔で、静かに頷いた。そして立ち上がると、書棚の一角に向かい、一冊の本を取り出した。
「これを」
差し出されたのは、小さな革装丁の本だった。『マルクス・アウレリウスの瞑想録』。
「戦場でも、時には心を静める時間が必要です。お持ちになってください」
「ありがとうございます」
僕は本を受け取った。革の手触りが、掌に馴染む。
「必ず戻ってきなさい。ここには、まだあなたが読んでいない本がたくさんあるのですから」
その言葉に、僕は思わず小さく笑ってしまった。
「ええ、約束します。戦争なんかより、本を読んでいる方がずっと良いですからね」
窓の外では、夕日がサヴォワールの街を赤く染め始めていた。教会の鐘が、六時を告げる音を響かせている。平和な風景。当たり前の日常。
明日には、この街を離れなければならない。ノルトフェステへ。戦場へ。
僕はもう一度、窓の外の景色を目に焼き付けた。赤い屋根の連なり、石畳の道、遠くに見える山並み。全て、守るべきものだ。たとえ僕がお飾りの指揮官だとしても、この景色を守ることに意味はある。そう思いたかった。
図書館を出る時、マルティン老人が小さく手を振った。僕も手を振り返して、扉を閉めた。
背後で、静寂が戻っていくのを感じた。
自室に戻ると、窓辺に立てかけてあった未完成の絵が目に入った。
グラーツの街並みを描いたものだ。石畳の道、赤い屋根の家々、遠くの山並み。一週間前に描き始めて、まだ半分ほどしか仕上がっていない。教会の尖塔のあたりは下絵のままで、細部を描き込む時間がなかった。
画布の前に座り、筆を手に取る。だが、絵の具をつけることはせず、ただ筆先で空を撫でるように動かした。
明日には、この街を離れる。ノルトフェステへ。見たこともない要塞へ。そして、戦場へ。
帰ってこられるだろうか。
その答えは、誰にも分からない。だからこそ、この景色を記憶に刻んでおきたかった。絵として、形として残しておきたかった。
窓の外では、夜が深まりつつあった。街の灯りが、暗闇の中で温かく輝いている。誰かの家の窓から漏れる光、街灯の柔らかな明かり、遠くの酒場から聞こえる笑い声。
平和な夜。
この平和が、どれほど脆いものか、僕は歴史書で学んできた。戦争は、全てを破壊する。街も、人も、日常も。そして、こうした小さな幸福も。
だから、守らなければならない。
たとえ僕がお飾りの指揮官であっても。たとえ戦術の才能がなくても。少なくとも、部下の命を守ることはできるはずだ。無謀な突撃を命じず、無駄な犠牲を出さず、生き延びることを優先する。
それが、僕にできることだ。
筆を置き、画布から目を離した。絵は、帰ってきてから仕上げよう。その時まで、この景色が変わらずにありますように。
そう願いながら、僕は明日の出発に備えて、荷物の準備を始めた。
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