日もすっかり沈んだ暗闇の中、熊は仰向けに寝転んで、考えていた。熊について、である。


 熊を殺すなんて可哀想だ、と主張する人がいる。確かにそうかもしれない。自分が熊の姿になった今でこそ理解できる考えといえよう。出会い頭に突然人間に殺されるなんて、嫌だ。きっと熊も食べ物を求めて人里に降りてきたのだ。彼らは生きているだけに過ぎない。彼らの生存は認めざるを得ない。


 しかし彼らは人を殺している。熊は人里に降りてきて、自身の生存のために人を殺し、生きている。それも、彼らの生存、彼らの生き方だと言って認めなければならないのだろうか。確かに、生き物の生き方というものは本来、自由だ。


 仮に、熊が可哀想だとか言って、彼らの生き方を——つまり自身の生存のために人を殺すというやり方を——許容するのであれば、人が自身の生存のために熊を殺すことも許容すべきであろう。生き物の生き方が自由であるならば。だから、“許容する場合”、熊が可哀想だと言うことと熊を殺すなと言うことは筋が通らない。


 彼らの自身の生存のために人を殺すというやり方を“許容しない”のであれば、やはり熊を排除せねばならない。向こうが人間を殺そうとしている以上、それを許容しない、すなわち阻止するためには直接的にしろ間接的にしろ熊を排除しなければならない。排除に関して、最も直接的手段は殺害である。最も間接的な手段は山林に人の手を入れ、熊が繁殖できない環境に変えてしまうことである。


 しかし彼らは熊を殺すな、とだけ言う。熊の生き方を許容していながら、人間の生き方を許容していない。不思議な人間もいたものだ。


 ただ生きようとしているだけの熊を殺すのは可哀想だと言う人の前に僕が現れて、その人とその家族を殺して金品と食べ物を奪ったとしても、その人は僕を恨まないでいてくれるだろうか。と彼は考えた。だって、僕も生きるために必死なんだ。そんな僕を、人を殺そうとしたからと言って殺すなんてあまりにも可哀想だろう?


 そんな理屈が通るか!と彼は自問自答した。人が死んでいるんだぞ。現実で。熊に人が殺されているんだ。熊を可哀想だと思えるのに、人間は可哀想だと思わないのか?生命が生命を奪う環境を許容しないなんていうのは、その時点で矛盾が生じている。熊は既に人を殺しているのだから、生命が生命を奪う環境を許容しないのであれば、それも阻止しなければならない。熊が人を殺さないようにするには、人を殺す熊を駆逐する必要があるはずだ。捕獲することもできるが、キリがない。山の中で増えた熊は何匹でも山を降りてくる。そして、人里に降りてきた熊を苦労して捕まえたところで、一体誰が世話をすると言うのだ。莫大な金をかけて、保護した熊の世話までしてなんの利益がある?生命が生命を奪う環境を許容しないという一点にしか、貢献しないではないか。だから殺すしかないのだ。殺すしかないということは、生命が生命を奪う環境を許容しないという前提を否定することだ。破綻しているのだ。そもそも地球上の環境は生命が生命を奪うことで成り立っているのだから、それを否定するなんて不可能だ。そんなものお気持ち表明でしかない。熊は人の思想信条に関わらず人を殺す。ライオンはシマウマを食う。人間も家畜を殺して食う。そうやって成り立っているのだ。人間がみんなで家畜を殺すのをやめて、野菜と果物だけを食べましょうと言い出したとしても、その野菜と果物は、他の生物から奪ったことにはならないのか?人間が自然の植物を、生きるために採集して、そのせいで飢えて死んだ動物は、人間が殺したことにはならないのか?自然から採集を行わず、人工的な農場を作ればいい?牧場の土地を農場に変えればいい?なら、牧場を農場に変えてしまったとして、より大規模な農場を人間の手で作ったとして、その農場で育つ作物が、本来他の植物のためにあるはずだった水や養分を大地から吸い上げて、そのせいで他の植物が枯れてしまう可能性は考えられないのか?そうして植物が枯れてしまったことによって変わってしまった生態系ではどれほどの命が奪われるか想像できるないのか?既に自然界は、植物が草食動物に食われ、草食動物が肉食動物に食われ、肉食動物がより上位の肉食動物に食われ、最上位の肉食動物が死ぬと、その死体が土へと帰り養分が植物に吸い上げられる、という風に循環して成り立っているのだ。生命が生命を奪うことでバランスが保たれているのだから、一個人の趣味嗜好を超えて、生命が生命を奪う環境を許容しないなんていう考えは、地球の生命の、バランスそのものを変えてしまうとは考えられないのか?


 つまるところ、人間が自身の安全を守るために熊を殺すことは、なんの問題もないのである。経済活動が絡み始めると、話は込み入るだろうが、今は、その話はしていない。


 熊は人間を殺す。自身の生存のために。だから人間も熊を殺す。自身の生存のために。しかしながら、現在こうして熊による被害が多発しながら日本人はなす術がない。政府が個人から武力を取り上げたからだ。警察が武器の所持に関して、規則でキツく縛り上げた結果なのだ。それ自体は正しい。個人が武器を持ち自身の安全と生存を守る社会では、人は熊よりも人に殺されることになってしまうだろう。公共の秩序の維持という点で個人から武力を取り上げ、規則で縛り上げることは理にかなっている。取り上げた上で、武力が必要な状況に際しては政府が個人を守るのである。凶悪犯罪発生の折には警察と司法が悪を打ち砕き市民を守る、そのようにされてきた。しかし現在、警察は人里に現れた熊に対応できていない。警官が所持する拳銃では熊を殺すことはできない。警察は市民の避難誘導等に徹する。熊の駆除については猟友会などの専門家に駆除を任せる。任せるが、自由に撃たせない。警察の指導から外れて射撃した場合は銃を取り上げた上逮捕する。そういった状況になってしまっている。個人から武力を取り上げるだけ取り上げておいて、警察として発揮すべき有効な武力が発揮されていない、という状況に置かれているのだ。仮に市民が熊に対抗するために非合法の武装組織を結成した場合、警察が総力を上げてその組織を取り締まることは想像に難くない。おそらく、熊に対してのものとは比べ物にならないほどの熱意をもって武装組織を取り締まることだろう。おかしな話だ。


 そこまで考えたところで、熊は、普段使わない頭を使ったこともあって、うとうと眠り込んでしまった。

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