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その森林公園は、四方およそ五百メートル、標高八十メートル程度の小さな山に位置している。住宅街の中にポツンと佇むその山は、山頂へと続く遊歩道沿いに運動器具や四阿が配置された、市民憩いの場であった。日の暮れる時間帯になっても、仕事終わりに着替えて走ってきたようなリーマンや犬の散歩をする子供の姿がちらほら見えた。
熊は公園の中の、道を外れた草むらの中に隠れた。灌木の中に伏せ、息を潜めている。彼は、熊の着ぐるみを脱いでいなかった。一人では脱げなかったのである。背中についた着ぐるみのチャックは彼のうなじの下にあって彼には視認できない上、場所がわかったとしても彼の普段より二回りも大きな手はそのチャックを掴めるはずがなかった。チャックはおろか、頭の被り物すら、彼には自力で取り外すことができない。顎から後頭部にかけてピッタリと密着してしまっているのである。着ぐるみの方も、脇の下から腕の先、股の間から足の先までサイズがフィットしていて一切のゆとりがなかった。色々試してみたが、彼は自力で着ぐるみを脱ぐことが不可能であることを悟った。
彼は絶望していた。彼のズボンのポケットに入ったスマートフォンも、どうやら取り出せそうになかったし、こんな姿では誰かに助けを求めることなどできるはずがなかった。道の上で姿を現して、人に近づこうものなら五秒と待たずに逃げられてしまうだろう。仁王立ちしようものなら尚更である。ここ最近は全国で連日、熊の目撃情報が上がり、東北の方では多数の死傷者が出ていると聞く。人々の熊への警戒心が強まっている時勢でもあった。ある程度の冷静さを取り戻した彼だが、下手をすれば殺されるのではないか、と考えつつあった。警察は、こちらが窮迫不正の侵害でもしない限り射殺より先に捕獲を試みるであろう。そうなれば、事情を説明する機会が生まれる。しかし、熊に恐怖を抱いている民間人は、自信の生命を守るために全力で抵抗し、殺される前に殺そうとするかもしれない。こちらの動き如何に関わらず、死に物狂いで。それが一番、熊である彼が危惧すべき事態だった。
深夜まで身を潜めて、自宅に帰ることを彼は計画した。親なら話が通じるはずだ。インターホン越しに声を聞けば自分だと分かってくれるに違いない。深夜になれば住宅街の人通りはほとんどなくなる。誰にも見つからずに、自宅に辿り着ければそれでいいのだ。保険として、ビニール袋なんかを見つけて頭に被ってもいいかもしれない。パッと見て、この熊の頭さえ隠れていれば、少し厚着している恰幅のいい男にこの着ぐるみは見えなくもないはずだ。
あぁ、早く家に帰りたい。いや、仮装パーティーだ。パーティーはもう始まっているだろうか。カウボーイが僕のことを探していたら、少し申し訳ないな。まさかこんなことになるなんて。仮装パーティーを断ればよかったんだ。別に僕は仮装できる服の有無に関わらず同級生とのパーティーなんて初めから行きたくなかった。遠回しに断ろうとして、カウボーイに服がないなんて言ってしまって、それの会話を兵士に聞かれてしまったばかりに、こんな状況になってしまった。全て、僕の自業自得なんだ。あぁ……お腹が空いたなぁ。
彼は厚い着ぐるみ越しに腹をさすりながら、自身の運命を嘆いた。
熊は、お腹を空かせていた。
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