五(終)

 目が覚めた。

 狭い石造りの部屋。

 窓のない壁。

 天井から垂れ下がる蝋燭ろうそくの炎。

 ベッドの上で私は横になっている。

 体は無傷だった。

 夢、だったのか?


 いや。

 手のひらを見ると、まだ感触が残っている。

 母親の手の温度。

 そして背中の傷跡が疼いている。

 扉が開いた。

 灰色のローブの人物。

 フードを被っている。


「おはよう」


 女の声だった。

 母親の声だった。


「よく眠れた?」


 私は起き上がった。

「ここは——」


「塔の中。いつもと同じ場所よ」


 母親は部屋に入ってきた。

 そして、ゆっくりとフードを下ろした。

 疲れた顔。でも、優しい目。


「昨日、大変だったわね」


「昨日?」


「装置から出たでしょう?」


 母親は窓のない壁を指差した。

 そこに小さな文字が刻まれていた。


 C-17実験記録:母体との再会実験、三百六十五回目。被験体、再び覚醒。記憶の保持、部分的。次回実験まで二十四時間

 私の体が冷たくなった。


「これは——」


「あなたは毎日装置に入るの」母親は言った。


「そして毎日同じ夢を見る。塔の崩壊、落下、地面への激突」


「夢じゃない」


 私は言った。


「本当に落ちた」


「ええ」母親は頷いた。「本当に落ちたわ。でも——」


 母親は私の背中を優しく撫でた。

 傷跡のあたりを。


「落下は終わらない」


 私は自分の手を見た。

 震えている。

 いや、震えているのは部屋の方だ。

 床が傾き始めている。

 また——

 また、始まる。


「大丈夫」


 母親は言った。

「私も一緒に落ちるから」


 母親は私の隣に座った。

 そして私の手を握った。

 床が消えた。

 天井が下になった。

 落下が始まった。

 だけど、今回は一人じゃなかった。

 母親が隣にいた。

 同じ速度で、同じ方向に、落ちている。


「これが私たちの日常」


 母親は言った。


「あなたが生まれた日から、ずっと」


 蝋燭ろうそくの炎だけが、相変わらず上を向いて燃えている。

 重力を信じて。

 法則を信じて。

 でも、私たちは——

 私たちは別の法則を生きている。

 落下の法則。

 終わらない落下の法則。


「ねえ母さん」


 私は尋ねた。


「落下教は本当に滅んだの?」


 母親は少し笑った。


「滅んでないわ」


 母親は言った。


「だって」


 母親は私の手を強く握った。


「私たちがまだ落ち続けているもの」


 部屋の中で私たちは落下した。

 窓のない部屋で。

 誰も見ていない場所で。

 でも、確かに——

 私たちは、落ちている。

 そして、それは——

 もう、恐怖じゃなかった。


 蝋燭ろうそくの炎が消えた。

 暗闇の中で母親の手の温もりだけが残った。


「大丈夫」


 母親の声。


「明日も、また始まるから」


「落下が?」


「いいえ」


 母親は言った。


「朝が」


(完)

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落下教が滅んだその日、 U木槌 @Mallet21

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