四
私は装置のパネルに手を伸ばした。
「待って」母親が言った。「まだ、何も説明していない」
「説明なんて、いらない」
私は答えた。指がボタンに触れる。冷たい金属の感触。
「あなたを出す。それだけだ」
「でも、そうしたら……」
「地面に落ちる。分かってる」
私は母親の目を見た。
「それが普通なんでしょう?」
母親の目から涙が一筋流れた。それは円筒の内側を伝って、下へ、下へと落ちていった。
重力に従って。
「あなたは」母親は言った。「落下教が何だったのか、知らないのね」
「知らない」
「なら知る権利がある」
母親は円筒の中でゆっくりと体を回転させた。まるで水中で踊るように。そして背中を見せた。
ローブの背中が、大きく裂けている。
その下に――
何もなかった。
翼の跡すらなかった。ただ、滑らかな背中。肩甲骨が普通に突き出ているだけ。
「落下教は」母親は言った。「嘘だった」
上空の大地が、さらに迫る。もう建物の影が塔の屋上を覆い始めている。
「人間は飛べない。翼なんて生えない。それは誰もが知っている真実」
母親は再びこちらを向いた。
「でも人は信じたがる。特別になれると。重力から解放されると。だから落下教は生まれた。人々に飛べるという幻想を売るために」
「羽根を食べさせて?」
「そう。羽根には特殊な神経毒が塗られていた。それを摂取すると平衡感覚が破壊される。上下が分からなくなる。重力の方向が、めちゃくちゃになる」
私は自分の手を見た。まだ羽根の感触が残っている気がした。
「それで、落下の感覚を」
「錯覚させる。地面に立っていても、落ちているように感じる。逆に、本当に落ちていても、浮いているように感じる」
母親は円筒の壁に手をついた。
「私は教団の創設者だった」
風が、吹いた。
どこから吹いているのか分からない風。それとも、建物が動いているせいで空気が流れているだけか。
「二十年前、私は娘を産んだ。あなたよ」
母親の声が震えた。
「でも、産んだ直後、医師が言ったの。この子には重大な欠陥があると」
「欠陥?」
「脳の一部が形成されていなかった。平衡感覚を司る部分。三半規管との接続が、生まれつき壊れていた」
私の頭の中で何かがカチリと音を立てた。
「つまり……」
「あなたは生まれた時から落ち続けている」
母親は言った。
「立っていても、座っていても、寝ていても。あなたの脳はいつも落下を感じ続けている。それがあなたにとっての普通」
屋上の床が傾き始めた。いや、床は傾いていない。私の平衡感覚がまた狂い始めているだけだ。
「医師は言ったわ。この子はまともに生きられないと。常に吐き気と目眩に苦しめられる。恐怖で心が壊れるかもしれないと」
母親の手が円筒の内側で震えた。
「だから、私は決めた。あなたの『欠陥』を祝福に変えようと」
「落下教を——」
「そう。落下を、恐れるものじゃなく求めるものにする。永遠の落下を完璧な境地にする。そういう世界を作れば、あなたは欠陥じゃなく、選ばれし者になれると思った」
上空の大地が塔の屋上スレスレまで迫った。
「でも間違っていた」
母親は言った。
「人々は本当に信じてしまった。落下が救いだと。地面が敵だと。そして……」
母親の目が下にいる無数の人影を見た。
「実験体たちが、本当に飛ぼうとした。塔から飛び降りた。一人、また一人」
私も下を見た。
地面にいる無数の私——いや、私じゃない。
あれは飛び降りて死んだ実験体たちだ。
全員私と同じローブを着せられて。全員、私と同じ顔をしていると信じ込まされて。
「あなたのクローンだと彼らに教えたの」母親は言った。「神経毒でそう信じ込ませたの。自分が完璧な落下者の複製だと」
「でも、なぜ……」
「あなたを守るため」
母親は叫んだ。
「あなた一人を実験するわけにはいかなかった。失敗したらあなたが死ぬ。だから他の人間で試した。あなたと同じ条件を作り出して。誰かが成功すれば、その方法であなたを救えると思った」
建物が悲鳴を上げた。
石が砕ける音。金属が軋む音。
「でも誰も成功しなかった。みんな地面に落ちて死んだ。だから、最後に……私が装置に入った」
母親は円筒を叩いた。
「あなたのために永遠に落ち続けることにしたの。私が落ち続ける限りあなたは一人じゃない。同じ感覚を共有する人間が、世界に一人いる」
上空の大地が塔に触れた。
接触の瞬間、世界が白く染まった。
音が消えた。
全ての音が一瞬で吸い込まれた。
そして、
時間が引き伸ばされた。
一瞬が永遠になった。
その引き伸ばされた時間の中で、私は理解した。
母親は間違っていた。
でも間違い方が正しかった。
人は飛べない。
でも落ち続けることはできる。
落ち続けることを、選ぶことができる。
私は装置のボタンを押した。
解放ボタン。
円筒が音を立てて開いた。
母親が外に転がり出る。二十年ぶりに固い床に触れた。
「だめ!!」母親が叫んだ。
でも私はもう装置の中にいた。
円筒が私を包む。
透明な壁が視界を歪ませる。
外の世界が水の中のように揺らいで見える。
母親が必死に装置を叩いている。
「出なさい! お願い! あなたまで——」
でも私は笑った。
初めて、心から笑った。
「ありがとう」
私は言った。聞こえているのか分からないけれど。
「でも、もう大丈夫」
装置が作動した。
体が浮き始めた。いや、沈み始めた? 区別がつかない。
でもそれでいい。
私は生まれた時からずっと落ち続けていた。
立っていても、落ちていた。
歩いていても、落ちていた。
眠っていても、落ちていた。
それは、恐怖だった。
でも今、
装置の中で本当に落ち続けながら、
初めて恐怖じゃなくなった。
なぜなら、これは私が選んだことだから。
外で上空の大地が塔に激突した。
建物全体が粉々に砕け散る。
石が、金属が、すべてが崩れ落ちる。
でも装置だけは無傷だった。
装置は崩壊の中をゆっくりと落下していく。
本当の落下。
物理的な落下。
私の中にあった落下と、外の世界の落下が初めて一致した。
円筒の外で母親が落ちていくのが見えた。
灰色のローブが風になびいている。
彼女はもう装置を掴んでいなかった。
ただ、私を見つめながら一緒に落ちている。
地面が近づいてくる。
無数の私たちが立っている地面。
いや……彼らも落ちている。
全員が、同じ方向に、同じ速度で。
地面も、私も、母親も、全てが。
そして私は理解した。
落下教は間違っていなかった。
ただ気づいていなかっただけ。
私たちは最初から永遠に落ち続けていた。
地球という惑星が宇宙という虚空を永遠に落下している。
重力は地面に引っ張る力じゃない。
重力は共に落ちる理由だ。
母親が円筒に手を伸ばした。
私も内側から手を伸ばした。
ガラスを挟んで手のひらが重なった。
温度は感じない。
でも、確かに、
触れている。
地面が目の前に迫った。
激突の瞬間。
私は目を閉じなかった。
見届けた。
この落下の、終わりを。
いや、
始まりを。
なぜなら、地面に着いた瞬間、
また落下が始まるのだから。
地球は止まらない。
宇宙は底がない。
私たちは永遠に——
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