私は装置のパネルに手を伸ばした。


「待って」母親が言った。「まだ、何も説明していない」


「説明なんて、いらない」


 私は答えた。指がボタンに触れる。冷たい金属の感触。


「あなたを出す。それだけだ」


「でも、そうしたら……」


「地面に落ちる。分かってる」


 私は母親の目を見た。


「それが普通なんでしょう?」


 母親の目から涙が一筋流れた。それは円筒の内側を伝って、下へ、下へと落ちていった。

 重力に従って。


「あなたは」母親は言った。「落下教が何だったのか、知らないのね」


「知らない」


「なら知る権利がある」


 母親は円筒の中でゆっくりと体を回転させた。まるで水中で踊るように。そして背中を見せた。

 ローブの背中が、大きく裂けている。

 その下に――

 何もなかった。

 翼の跡すらなかった。ただ、滑らかな背中。肩甲骨が普通に突き出ているだけ。


「落下教は」母親は言った。「嘘だった」


 上空の大地が、さらに迫る。もう建物の影が塔の屋上を覆い始めている。


「人間は飛べない。翼なんて生えない。それは誰もが知っている真実」


 母親は再びこちらを向いた。


「でも人は信じたがる。特別になれると。重力から解放されると。だから落下教は生まれた。人々に飛べるという幻想を売るために」


「羽根を食べさせて?」


「そう。羽根には特殊な神経毒が塗られていた。それを摂取すると平衡感覚が破壊される。上下が分からなくなる。重力の方向が、めちゃくちゃになる」


 私は自分の手を見た。まだ羽根の感触が残っている気がした。


「それで、落下の感覚を」


「錯覚させる。地面に立っていても、落ちているように感じる。逆に、本当に落ちていても、浮いているように感じる」


 母親は円筒の壁に手をついた。


「私は教団の創設者だった」


 風が、吹いた。

 どこから吹いているのか分からない風。それとも、建物が動いているせいで空気が流れているだけか。


「二十年前、私は娘を産んだ。あなたよ」


 母親の声が震えた。


「でも、産んだ直後、医師が言ったの。この子には重大な欠陥があると」


「欠陥?」


「脳の一部が形成されていなかった。平衡感覚を司る部分。三半規管との接続が、生まれつき壊れていた」


 私の頭の中で何かがカチリと音を立てた。


「つまり……」


「あなたは生まれた時から落ち続けている」


 母親は言った。


「立っていても、座っていても、寝ていても。あなたの脳はいつも落下を感じ続けている。それがあなたにとっての普通」


 屋上の床が傾き始めた。いや、床は傾いていない。私の平衡感覚がまた狂い始めているだけだ。


「医師は言ったわ。この子はまともに生きられないと。常に吐き気と目眩に苦しめられる。恐怖で心が壊れるかもしれないと」


 母親の手が円筒の内側で震えた。


「だから、私は決めた。あなたの『欠陥』を祝福に変えようと」


「落下教を——」


「そう。落下を、恐れるものじゃなく求めるものにする。永遠の落下を完璧な境地にする。そういう世界を作れば、あなたは欠陥じゃなく、選ばれし者になれると思った」


 上空の大地が塔の屋上スレスレまで迫った。


「でも間違っていた」


 母親は言った。


「人々は本当に信じてしまった。落下が救いだと。地面が敵だと。そして……」


 母親の目が下にいる無数の人影を見た。


「実験体たちが、本当に飛ぼうとした。塔から飛び降りた。一人、また一人」


 私も下を見た。

 地面にいる無数の私——いや、私じゃない。

 あれは飛び降りて死んだ実験体たちだ。

 全員私と同じローブを着せられて。全員、私と同じ顔をしていると信じ込まされて。


「あなたのクローンだと彼らに教えたの」母親は言った。「神経毒でそう信じ込ませたの。自分が完璧な落下者の複製だと」


「でも、なぜ……」


「あなたを守るため」


 母親は叫んだ。


「あなた一人を実験するわけにはいかなかった。失敗したらあなたが死ぬ。だから他の人間で試した。あなたと同じ条件を作り出して。誰かが成功すれば、その方法であなたを救えると思った」


 建物が悲鳴を上げた。

 石が砕ける音。金属が軋む音。


「でも誰も成功しなかった。みんな地面に落ちて死んだ。だから、最後に……私が装置に入った」


 母親は円筒を叩いた。


「あなたのために永遠に落ち続けることにしたの。私が落ち続ける限りあなたは一人じゃない。同じ感覚を共有する人間が、世界に一人いる」


 上空の大地が塔に触れた。

 接触の瞬間、世界が白く染まった。

 音が消えた。

 全ての音が一瞬で吸い込まれた。


 そして、

 時間が引き伸ばされた。

 一瞬が永遠になった。

 その引き伸ばされた時間の中で、私は理解した。


 母親は間違っていた。

 でも間違い方が正しかった。

 人は飛べない。

 でも落ち続けることはできる。

 落ち続けることを、選ぶことができる。


 私は装置のボタンを押した。

 解放ボタン。

 円筒が音を立てて開いた。

 母親が外に転がり出る。二十年ぶりに固い床に触れた。


「だめ!!」母親が叫んだ。


 でも私はもう装置の中にいた。

 円筒が私を包む。

 透明な壁が視界を歪ませる。

 外の世界が水の中のように揺らいで見える。

 母親が必死に装置を叩いている。


「出なさい! お願い! あなたまで——」


 でも私は笑った。

 初めて、心から笑った。


「ありがとう」


 私は言った。聞こえているのか分からないけれど。


「でも、もう大丈夫」


 装置が作動した。

 体が浮き始めた。いや、沈み始めた? 区別がつかない。

 でもそれでいい。

 私は生まれた時からずっと落ち続けていた。

 立っていても、落ちていた。

 歩いていても、落ちていた。

 眠っていても、落ちていた。

 それは、恐怖だった。


 でも今、

 装置の中で本当に落ち続けながら、

 初めて恐怖じゃなくなった。

 なぜなら、これは私が選んだことだから。

 外で上空の大地が塔に激突した。

 建物全体が粉々に砕け散る。

 石が、金属が、すべてが崩れ落ちる。


 でも装置だけは無傷だった。

 装置は崩壊の中をゆっくりと落下していく。

 本当の落下。

 物理的な落下。

 私の中にあった落下と、外の世界の落下が初めて一致した。


 円筒の外で母親が落ちていくのが見えた。

 灰色のローブが風になびいている。

 彼女はもう装置を掴んでいなかった。

 ただ、私を見つめながら一緒に落ちている。

 地面が近づいてくる。

 無数の私たちが立っている地面。

 いや……彼らも落ちている。

 全員が、同じ方向に、同じ速度で。

 地面も、私も、母親も、全てが。


 そして私は理解した。

 落下教は間違っていなかった。

 ただ気づいていなかっただけ。

 私たちは最初から永遠に落ち続けていた。

 地球という惑星が宇宙という虚空を永遠に落下している。

 重力は地面に引っ張る力じゃない。

 重力は共に落ちる理由だ。


 母親が円筒に手を伸ばした。

 私も内側から手を伸ばした。

 ガラスを挟んで手のひらが重なった。

 温度は感じない。

 でも、確かに、

 触れている。


 地面が目の前に迫った。

 激突の瞬間。

 私は目を閉じなかった。

 見届けた。

 この落下の、終わりを。

 いや、

 始まりを。

 なぜなら、地面に着いた瞬間、

 また落下が始まるのだから。

 地球は止まらない。

 宇宙は底がない。

 私たちは永遠に——

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