七本目の蝋燭ろうそくが燃え尽きる直前、扉が蹴り開けられた。


 灰色のローブの人物——今度は走ってきた。息が荒い。フードが乱れて初めて顔の一部が見えた。

 顎だけ。

 それは私の顎だった。


「逃げろ」


 男の声だった。

 声は、私ではない。


「何から?」


「地面が来る」


 私は立ち上がった。足が、久しぶりの重みに耐えきれず震えた。


「地面は下にあるんじゃ……」


「違う」男は遮った。


「地面はいつも上から来るんだ。下から来るんじゃない。地面がこちらに向かって落ちてくる」


 窓のない部屋の壁が突然震えた。

 石が軋む音。それとも建物が悲鳴を上げているのか。


「塔が崩れるの?」


「違う」男は首を振った。


「塔は崩れない。塔の中で私たちが落ちるんだ——上に」


 意味が分からない。けれど、体は理解した。背中の傷跡が激しく疼き始めた。


「早く」男は私の腕を掴んだ。


「最上階に行かないと」


「最上階? 地面が来るなら下に逃げるべきじゃ」


「地面から逃げるには、もっと落ちるしかない」


 男は私を引っ張った。部屋を出る。廊下。螺旋階段。上へ、上へ。

 走りながら、壁に刻まれた文字が目に入った。


 実験記録第四十七日目:被験者C-17、三度目の羽根摂取後、重力感覚の逆転を報告。地面への恐怖が空への恐怖に転換。成功の兆し

 実験記録第九十八日目:被験者A-03、覚醒せず。身体は塔の最下層で発見。外傷なし。死因:落下の完遂

 実験記録第二百十三日目:全被験者に共通の幻覚——地面に立つ自分自身を観測。自己の分裂か、あるいは——


 文字はそこで途切れていた。誰かが、続きを爪で削り取ったように。

 階段を上がるほど空気が薄くなっていく気がした。いや、濃くなっている? 区別がつかない。ただ、呼吸が苦しい。


「あなたは誰?」


 走りながら私は尋ねた。


「C-17」男は答えた。「君と同じだ」


「私もC-17?」


「全員がC-17だ」


 階段の踊り場に、また灰色のローブの人物が立っていた。今度は動かない。ただ、壁にもたれて立っている。

 近づくと——フードの下が、空洞だった。

 顔がない。首から上が、まるで煙のように揺らいでいる。


「あれは?」


「失敗作」男は言った。「地面に着く前に消えてしまった」


 私たちは、その横を通り過ぎた。すれ違う瞬間、空洞の中から声が聞こえた気がした。


「うらやましい」


 建物が、また揺れた。今度はもっと激しく。天井から石の破片が降ってくる。


「もうすぐだ」男が叫んだ。


 最上階の扉が見えた。重厚な木の扉。表面に羽根の模様が彫り込まれている。

 いや、翼だ。

 人間の背中から生えた、歪な翼。


 扉を開けた。

 そこは、屋上だった。

 初めて空を見た。

 灰色の空。雲ひとつない、完璧に均一な灰色。上も下も区別がつかない。空が地面で、地面が空のような——

 いや、よく見ると空の遥か彼方に何かが見えた。

 大地。

 巨大な灰色の大地がゆっくりとこちらに向かって落ちてきている。

 私たちがあの大地に向かって落ちている?


「これが完璧な落下」


 男が呟いた。


「地面も、私たちも、同時に落ち続ける。だから永遠に着かない。だが……」


 男は屋上の縁に向かって歩いた。


「誰かが止まれば落下は終わる」


 屋上の縁から下を覗き込んだ。

 塔の下に、地面があった。

 灰色の大地。無数の人影が、こちらを見上げている。

 全員、灰色のローブを着てフードで顔を隠している。

 そして全員が、ゆっくりとフードを外し始めた。

 一人、また一人。

 全員の顔が私だった。

 何百、何千という私が、地面に立って塔の上の私を見上げている。


「あれは——」


「観測者」男は言った。「落ちなかった私たち。地面を選んだ私たち」


 男は、屋上の中央を指差した。

 そこに巨大な装置があった。金属とガラスでできた複雑な機械。中心に透明な円筒が据えてある。

 その中に人が入っている。

 灰色のローブ。でも、この人物は動いている。円筒の中で、まるで水中にいるかのようにゆっくりと手足を動かしている。

 顔は見えない。フードが深すぎて。


「あれが最初のC-17」男は言った。「最初の実験体。完璧な落下を達成した、唯一の成功例」


 私は装置に近づいた。

 円筒の表面に文字が刻まれている。

 落下循環装置:被験者を無限落下状態に維持する。地面への到達を回避しつつ落下感覚を持続させる。理論上、被験者は永遠に落ち続ける。


「でも」私は言った。「あの人は、閉じ込められているだけじゃ……」


「違う」男は首を振った。


「あの人の中では、本当に落ち続けている。終わらない風の中を、永遠に」


 円筒の中の人物がゆっくりとこちらを向いた。

 フードの奥、暗闇の奥に何かが光った。

 目だ。

 私の目だ。

 そして声が聞こえた。円筒の中から装置の隙間を通って。


「助けて」


 女の声だった。

 私の、声だった。


「出して」


 建物がまた大きく揺れた。

 上空の大地がさらに近づいている。もう表面の凹凸まではっきりと見える。岩と、干からびた土、そして……。

 人骨。

 無数の人骨が大地の表面に散らばっている。


「選ばなきゃいけない」


 男が言った。


「装置を止めてあの人を解放するか」


 男は、屋上の縁を指差した。


「それとも自分が装置に入るか」


「どういう意味?」


「装置は一人しか維持できない。もし装置を止めれば塔は落下をやめる。地面が私たちに追いつく。全員——」


 男は下にいる無数の私たちを指差した。


「あの観測者たちも含めて、全員が地面に激突する」


「じゃあ、私が装置に入れば?」


「あの人が解放される。でも、今度は君が永遠に落ち続ける」


 私は円筒の中の人物を見た。

 その人物も私を見ていた。

 そして、ゆっくりと手を上げた。

 円筒の内側からガラス面に手のひらを押し付けた。

 私も同じように手を上げた。

 ガラスを挟んで私たちの手が重なった。

 温度を感じない。ただ、脈拍だけが伝わってくる気がした。

 同じリズム。

 同じ、心臓の音。


「あなたは誰?」


 私は尋ねた。

 円筒の中の人物は答えなかった。

 ただ、ゆっくりとフードを下ろした。

 顔が見えた。

 それは、私じゃなかった。

 女性だった。年齢は三十代半ばくらいか。疲れ切った顔。頬はこけて目の下に深いくまがある。

 でも、目だけは——目だけは、まだ生きていた。


「私は」女性は言った。「あなたの母親」


 世界が止まった。

 いや……加速した?

 分からない。

 ただ、全身の血液が、一瞬で凍りついたような感覚。


「母親?」


「ごめんなさい」女性は言った。「あなたをここに残して」


 建物の揺れが臨界点に達した。

 上空の大地が、もう目の前まで迫っている。

 男が叫んだ。


「決めろ! 今すぐ!」


 私は——

 私は……何も決められなかった。

 ただ、円筒の中の女性を見つめた。

 母親。

 私には母親の記憶がない。

 でも、今この瞬間……この女性を見ている今……

 背中の傷跡が激しく疼いた。

 そして、理解した。

 この傷は——

 翼を切り取られた跡だ。

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