三
七本目の
灰色のローブの人物——今度は走ってきた。息が荒い。フードが乱れて初めて顔の一部が見えた。
顎だけ。
それは私の顎だった。
「逃げろ」
男の声だった。
声は、私ではない。
「何から?」
「地面が来る」
私は立ち上がった。足が、久しぶりの重みに耐えきれず震えた。
「地面は下にあるんじゃ……」
「違う」男は遮った。
「地面はいつも上から来るんだ。下から来るんじゃない。地面がこちらに向かって落ちてくる」
窓のない部屋の壁が突然震えた。
石が軋む音。それとも建物が悲鳴を上げているのか。
「塔が崩れるの?」
「違う」男は首を振った。
「塔は崩れない。塔の中で私たちが落ちるんだ——上に」
意味が分からない。けれど、体は理解した。背中の傷跡が激しく疼き始めた。
「早く」男は私の腕を掴んだ。
「最上階に行かないと」
「最上階? 地面が来るなら下に逃げるべきじゃ」
「地面から逃げるには、もっと落ちるしかない」
男は私を引っ張った。部屋を出る。廊下。螺旋階段。上へ、上へ。
走りながら、壁に刻まれた文字が目に入った。
実験記録第四十七日目:被験者C-17、三度目の羽根摂取後、重力感覚の逆転を報告。地面への恐怖が空への恐怖に転換。成功の兆し
実験記録第九十八日目:被験者A-03、覚醒せず。身体は塔の最下層で発見。外傷なし。死因:落下の完遂
実験記録第二百十三日目:全被験者に共通の幻覚——地面に立つ自分自身を観測。自己の分裂か、あるいは——
文字はそこで途切れていた。誰かが、続きを爪で削り取ったように。
階段を上がるほど空気が薄くなっていく気がした。いや、濃くなっている? 区別がつかない。ただ、呼吸が苦しい。
「あなたは誰?」
走りながら私は尋ねた。
「C-17」男は答えた。「君と同じだ」
「私もC-17?」
「全員がC-17だ」
階段の踊り場に、また灰色のローブの人物が立っていた。今度は動かない。ただ、壁にもたれて立っている。
近づくと——フードの下が、空洞だった。
顔がない。首から上が、まるで煙のように揺らいでいる。
「あれは?」
「失敗作」男は言った。「地面に着く前に消えてしまった」
私たちは、その横を通り過ぎた。すれ違う瞬間、空洞の中から声が聞こえた気がした。
「うらやましい」
建物が、また揺れた。今度はもっと激しく。天井から石の破片が降ってくる。
「もうすぐだ」男が叫んだ。
最上階の扉が見えた。重厚な木の扉。表面に羽根の模様が彫り込まれている。
いや、翼だ。
人間の背中から生えた、歪な翼。
扉を開けた。
そこは、屋上だった。
初めて空を見た。
灰色の空。雲ひとつない、完璧に均一な灰色。上も下も区別がつかない。空が地面で、地面が空のような——
いや、よく見ると空の遥か彼方に何かが見えた。
大地。
巨大な灰色の大地がゆっくりとこちらに向かって落ちてきている。
私たちがあの大地に向かって落ちている?
「これが完璧な落下」
男が呟いた。
「地面も、私たちも、同時に落ち続ける。だから永遠に着かない。だが……」
男は屋上の縁に向かって歩いた。
「誰かが止まれば落下は終わる」
屋上の縁から下を覗き込んだ。
塔の下に、地面があった。
灰色の大地。無数の人影が、こちらを見上げている。
全員、灰色のローブを着てフードで顔を隠している。
そして全員が、ゆっくりとフードを外し始めた。
一人、また一人。
全員の顔が私だった。
何百、何千という私が、地面に立って塔の上の私を見上げている。
「あれは——」
「観測者」男は言った。「落ちなかった私たち。地面を選んだ私たち」
男は、屋上の中央を指差した。
そこに巨大な装置があった。金属とガラスでできた複雑な機械。中心に透明な円筒が据えてある。
その中に人が入っている。
灰色のローブ。でも、この人物は動いている。円筒の中で、まるで水中にいるかのようにゆっくりと手足を動かしている。
顔は見えない。フードが深すぎて。
「あれが最初のC-17」男は言った。「最初の実験体。完璧な落下を達成した、唯一の成功例」
私は装置に近づいた。
円筒の表面に文字が刻まれている。
落下循環装置:被験者を無限落下状態に維持する。地面への到達を回避しつつ落下感覚を持続させる。理論上、被験者は永遠に落ち続ける。
「でも」私は言った。「あの人は、閉じ込められているだけじゃ……」
「違う」男は首を振った。
「あの人の中では、本当に落ち続けている。終わらない風の中を、永遠に」
円筒の中の人物がゆっくりとこちらを向いた。
フードの奥、暗闇の奥に何かが光った。
目だ。
私の目だ。
そして声が聞こえた。円筒の中から装置の隙間を通って。
「助けて」
女の声だった。
私の、声だった。
「出して」
建物がまた大きく揺れた。
上空の大地がさらに近づいている。もう表面の凹凸まではっきりと見える。岩と、干からびた土、そして……。
人骨。
無数の人骨が大地の表面に散らばっている。
「選ばなきゃいけない」
男が言った。
「装置を止めてあの人を解放するか」
男は、屋上の縁を指差した。
「それとも自分が装置に入るか」
「どういう意味?」
「装置は一人しか維持できない。もし装置を止めれば塔は落下をやめる。地面が私たちに追いつく。全員——」
男は下にいる無数の私たちを指差した。
「あの観測者たちも含めて、全員が地面に激突する」
「じゃあ、私が装置に入れば?」
「あの人が解放される。でも、今度は君が永遠に落ち続ける」
私は円筒の中の人物を見た。
その人物も私を見ていた。
そして、ゆっくりと手を上げた。
円筒の内側からガラス面に手のひらを押し付けた。
私も同じように手を上げた。
ガラスを挟んで私たちの手が重なった。
温度を感じない。ただ、脈拍だけが伝わってくる気がした。
同じリズム。
同じ、心臓の音。
「あなたは誰?」
私は尋ねた。
円筒の中の人物は答えなかった。
ただ、ゆっくりとフードを下ろした。
顔が見えた。
それは、私じゃなかった。
女性だった。年齢は三十代半ばくらいか。疲れ切った顔。頬はこけて目の下に深いくまがある。
でも、目だけは——目だけは、まだ生きていた。
「私は」女性は言った。「あなたの母親」
世界が止まった。
いや……加速した?
分からない。
ただ、全身の血液が、一瞬で凍りついたような感覚。
「母親?」
「ごめんなさい」女性は言った。「あなたをここに残して」
建物の揺れが臨界点に達した。
上空の大地が、もう目の前まで迫っている。
男が叫んだ。
「決めろ! 今すぐ!」
私は——
私は……何も決められなかった。
ただ、円筒の中の女性を見つめた。
母親。
私には母親の記憶がない。
でも、今この瞬間……この女性を見ている今……
背中の傷跡が激しく疼いた。
そして、理解した。
この傷は——
翼を切り取られた跡だ。
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