第2話 魔力なき者
「シリウス」
その音が、自分を指す言葉だと理解するまでに時間がかかった。
何度も何度も繰り返される音。優しい声で呼びかけられるたびに、周囲の大人たちが私を見る。抱き上げられる。微笑みかけられる。そうして少しずつ、この音が自分の名前なのだと分かってきた。
シリウス。
前世の名前ではない。この世界で与えられた、新しい名前だ。
視界が少しずつはっきりしてきた頃、私は自分の家族と対面した。
まず目に入ったのは、大柄で厳格そうな雰囲気を持つ男性だった。濃い茶色の髪に、鋭い目つき。だが私を見る時だけは、その目が優しく緩む。これが父親、ギルベルトらしい。
次に、美しい黒髪の女性。深い青の瞳が印象的で、私を抱く手は温かい。母親、クラリスだ。この人だけは特別だった。私を見る目に、何か探るような光があった。まるで、私の中の何かを感じ取ろうとしているかのような。
そして二人の少年。
一人は落ち着いた雰囲気の、恐らく十歳前後の子供。私を覗き込む目は好奇心に満ちているが、どこか思慮深さも感じられる。長兄のアレクシスだと後で知った。
もう一人は、もっと幼い少年。七、八歳くらいだろうか。私を見るなり目を輝かせて、何やら大声で叫んでいた。後で分かったことだが『戦い方を教えなきゃな!』と言っていたらしい。次兄のロイド。アレクシスが苦笑しながら彼を制していた。
家族との初めての対面は、温かく、そして少し複雑な気持ちを抱かせるものだった。
ある日、父と母が話しているのが聞こえた。この頃には言語も少しずつ理解できるようになっていた。
「鑑定では、魔力量は普通より多そうだという結果だったな」
父ギルベルトの低く厳格な声だった。
「そうなのよ」母クラリスが明るく答える。「そのまま育ってくれれば、私の技術を全部伝えたいわ」
「まだ生まれて間もない。五歳の正式な鑑定時には、更なる成長を見せているだろう」
「それにしても」クラリスが少し心配そうに言った。「あまり泣かない子ね。大丈夫かしら?」
「元気に育っているではないか。おとなしいだけだ」
ギルベルトは穏やかに笑っていたが、クラリスの不安は完全には消えていないようだった。
「ロイドのようにはならなさそうだね」
アレクシスが私を覗き込みながら言った。
「それは良いことだ」ギルベルトが笑う。「一人で十分だ、あんなやんちゃな子供は」
ロイドは不満そうに頬を膨らませていたが、すぐにまた私の方を見て目を輝かせた。
この家族の一員として、私の新しい人生が始まった。ただ前世のことは伝えられる日が来るだろうか…
日々は穏やかに過ぎていった。
三歳になるまで、私は自室から出ることがほとんどなかった。この世界の貴族の慣習らしい。部屋で過ごす時間のほとんどは、メイドのアンナが世話をしてくれた。
アンナは優しい女性だった。二十代半ばくらいに見える彼女は、いつも私に語りかけてくれた。この世界のこと、街のこと、魔法のこと。
二歳になった頃から、私も拙いながら言葉を発するようになった。
「アンナ」
「はい、シリウス様」
「まほう、って?」
不思議なことに、それなりの年齢まで生きた前世の記憶があるにもかかわらず、口から出てくる言葉は幼い子供のそれだった。年齢に引っ張られているのかもしれない。思考は大人なのに、話し方は完全に子供。自分でも奇妙に感じたが、どうすることもできなかった。
「魔法はですね」アンナが優しく説明してくれる。「精霊の力を借りて、不思議なことを起こすことができるんですよ」
「せいれい?」
「そう。火の精霊、水の精霊、風の精霊、土の精霊。それから光と闇の精霊もいらっしゃいます」
精霊の力。
胸の中で湧き出る光は、やはり魔力なのだと確信した。そして魔法というものは、精霊を介して発動するものらしい。
門に注ぎ込んでいる魔力は、いったい何になるのだろう。精霊とは関係があるのだろうか。
私の魔力操作は、日々上達していた。増大した魔力は門に注げる量よりも増えたため溢れていたが、自分の周りに留めておくこともできるようになっていた。完全な制御。湧き出た魔力を、望むままに動かせる。
クラリスは時々、不思議そうな顔で私を見ていた。
「シリウスの魔力……」
小さく呟く声が聞こえた。
「増えたと思ったのに、減ってきてる?」
私は魔力をできるだけ門に注ぎ込んでいた。そして注ぎきれずに留まる部分は、体の周りで循環させていた。だから外から感じられる魔力は、どんどん少なくなっていったのかもしれない。
母の疑問に、私は答えることができなかった。
月日は流れ、私は四歳になった。
門への魔力注入は続いていた。第一の門が閉じてから、第二の門も閉じた。そして今、第三の門に魔力を注ぎ込み続けている。
五歳になる少し前のことだった。
いつものように魔力を注ぎ込んでいると、あの音が聞こえた。
ガチャリ。
第三の門が閉じた。
だが、今回は何かが違った。
胸から湧き出る光が、以前とは質が変わったように感じられたのだ。魔力とは違う、何か別の力。もっと密度が高く、もっと純粋な感じがする。
これは何だろう。
アンナから聞いた話を思い出す。魔法は精霊の力を借りる。ならば、この変化した力は精霊に関係しているのかもしれない。
仮に、これを『精霊力』と名付けておこう。
新しい力の制御は、少しだけ難しくなった。魔力よりも扱いが繊細で、意思に対する反応が鋭い。だが、すぐに慣れた。特に問題はない。ただ、力の質が変わっただけだ。
そういうものだと受け入れて、私は日常を続けた。
一方、クラリスは明らかに困惑していた。
「魔力が……感じられない?」
ギルベルトと話している声が、たまたま聞こえた。
「どういうことだ?」
「シリウスの魔力よ。最初は確かに感じられてたんだけどね。それが徐々に弱くなっていって、今では全く感じられなくなったの」
「病か何かか?」
「分からないわ。でも体調は良さそうなのよ。見ての通り元気だし、食欲もあるし」
「ならば」ギルベルトが考え込むような間を置いた。「五歳の正式な鑑定を待ってからでも良いのではないか。もし何か異常があれば、その時に判明するだろう」
クラリスは少し不安そうだったが、ギルベルトの言葉に頷いた。
私は複雑な気持ちだった。
魔力は確かに存在している。ただ、門を通過して精霊力に変わっただけだ。だが、その精霊力はクラリスにも感知できないらしい。
五歳の鑑定は、少しまずい結果になるかもしれないな。
その日は、あっという間に訪れた。
五歳の誕生日。正式な魔力鑑定の日。
鑑定師と呼ばれる老人が、特別な水晶球を持ってやってきた。この水晶球に手を触れることで、魔力の有無と量が測定されるらしい。
「では、シリウス様。この球に触れていただきたい」
私は言われた通り、小さな手を水晶球に置いた。
球は、何も反応しなかった。
光ることもなく、色が変わることもなく、ただ透明なままだった。
「これは……」鑑定師が首を傾げる。「魔力が、ありませんな」
その言葉を聞いた瞬間、部屋の空気が凍りついた。
クラリスの顔が青ざめる。ギルベルトは眉をひそめる。アレクシスとロイドは、信じられないという顔で私を見つめた。
私自身は、やはりかと納得していた。魔力を感じていたらしいクラリスが感じられなくなったと言っていたんだ、そういうことになるのではと予感はしていた。
精霊力は魔力とは違う。だから、魔力を測定する道具には反応しないのだろう。そういうものだと、冷静に理解した。
だが、家族の反応を見て、胸が痛んだ。
特にクラリスの表情が辛かった。期待していたのだ。大きな魔力を持つ息子のことを。それが完全に裏切られた形になった。
「そんな……」クラリスが鑑定師に詰め寄る。「生まれた時の鑑定では、常人以上の魔力があるって……」
「確かに記録にはそうございます」鑑定師は困惑している。「ですが、現在は完全に魔力の反応がありません。稀にですが、成長過程で魔力を失うケースもあると聞き及びます」
「病気かもしれないわ」クラリスがギルベルトに向き直る。「すぐに調べないと」
ギルベルトは頷き、すぐに手配した。
その後、複数の医師や魔導師が私を診察した。体を調べ、さまざまな質問をし、いくつもの検査を行った。
だが、結論は同じだった。
「健康そのものでございます。魔力がない以外、何の異常もございません」
正式に、私は『魔力なき者』と判定された。
部屋に戻ってから、私は一人で考えた。
精霊力は確かに体の中にある。胸から湧き出て、体を巡っている。制御もできる。だが、それは魔力とは認識されない。
この世界で魔力がないということは、どういう意味を持つのだろう。
魔法が使えない。それは分かる。だが、この精霊力で何かできるのだろうか。
まだ答えは出ない。
ただ一つ確かなのは、家族に心配をかけてしまったということだった。特にクラリスの落胆は深かった。
私は小さな拳を握りしめた。
魔力はなくても、この力があれば何かできるはずだ。まだ分からないだけで、きっと意味があるはずだ。
鑑定から数日が経った。
家の雰囲気は、しかし変わらなかった。いや、正確には家族の私への接し方は何も変わらなかった。むしろ以前よりも優しく、気遣うような雰囲気さえ感じられた。
クラリスは心配そうな表情をしていることが多くなったが、私を見る目には変わらぬ愛情があった。いや、それどころか明らかに自分を責めているような、負い目を感じているような様子が見て取れた。
ギルベルトは表面上は厳格な態度を保っていたが、私と目が合うと少し表情を緩め、時折心配そうに私を見つめることがあった。
アレクシスは優しかった。
「シリウス、大丈夫だよ」
ある日、彼は私の頭を撫でながら言った。
「魔力がなくても、君は僕の弟だ。それは変わらない」
その言葉は嬉しかったが、同時に痛かった。慰めが必要な状況だということを、改めて思い知らされたからだ。
ロイドは最初、ショックを受けていたようだったが、すぐにいつもの調子に戻った。
「魔法が使えなくても、剣があるさ!」
彼は木剣を振り回しながら言った。
「俺が教えてやるから、一緒に強くなろうぜ!」
彼の屈託のない態度は、救いだった。
アンナは変わらず優しかった。いや、むしろ以前よりも気を遣ってくれているように感じた。
「シリウス様、お水をお持ちしました」
「ありがと、アンナ」
「魔力のことは……お気になさらず」
彼女は小さく微笑んだ。
「この世界には、魔力がなくても立派に生きている方々がたくさんいらっしゃいますよ」
その言葉は事実だろう。だが、貴族の子として生まれた私に、同じことが言えるだろうか。世間では魔力なき者は蔑視されると、アンナから聞いたことがある。貴族社会では特にそうだと。
だが、少なくともこの家族は違った。誰一人として私を蔑むような目で見る者はいなかった。
夜、一人になると、私は精霊力の制御を続けた。
第三の門が閉じてから、新たに第四の門を見つけていた。魔力が精霊力に変わっても、門のシステム自体は続いているようだ。
精霊力を第四の門に注ぎ込む。魔力の時よりも、吸い込まれる速度が速い気がする。まるで、こちらの方が門に適しているかのように。
この力は、いったい何のためにあるのだろう。
魔力鑑定で反応しないということは、この世界の一般的な魔法体系とは異なるものなのかもしれない。アンナから聞いた話では、魔法は精霊の力を借りて発動する。だが、私の持つ精霊力は、その魔法とは別のものなのかもしれない。
もしかすると、もっと直接的に精霊と関わる力なのだろうか。
いや、まだ推測の域を出ない。確かめる方法もない。
ただ、この力を育て続けるしかない。いつか答えが分かる日まで。
数週間後、家族会議が開かれた。
私も同席を求められた。まだ五歳の子供だが、話の内容は私に関することだからだろう。
「シリウスの今後について話し合いたい」
ギルベルトが厳かに口を開いた。
「魔力がないことは確定した。だが、それでこの子の人生が終わるわけではない」
「もちろんよ」クラリスが言った。「ただ……」
彼女は言葉を詰まらせた。
「貴族社会には、魔力を持たぬ者を蔑視する者もいるわ」
そう言ってクラリスは私の方を向き、とてもつらそうな表情で言った。
「不便な身体に生んでしまって、本当に申し訳ないわ、シリウス」
その表情が、私の胸に突き刺さった。クラリスは自分を責めている。私が魔力を持たないことを、自分の責任だと感じている。
「クラリス」ギルベルトが厳しい声で言った。「お前の責任ではない。シリウスも何も悪くない。ただそういう運命だったというだけだ」
「分かってるわ、でも……」
「学問を重視した教育はどうでしょう」
アレクシスが提案した。
「魔法が使えなくても、知識があれば役に立てます。領地の経営や、政治的な交渉にも」
「剣術もだ」
ロイドが付け加えた。
「魔法なしでも戦える騎士はいる。俺が教えてやれる!」
ギルベルトは二人の提案を聞いて、ゆっくりと頷いた。
「焦る必要はない。言い方は悪いが三男だ。平穏に暮らせるだろう。……王命がまだ撤回されていないのが気になるが……」
クラリスは黙って俯いていた。
会議の結論として、私には一般的な魔法教育はせず、学問と武術を中心とした教育を施すことになった。
そこからやりたいことを見つければ、その道に進むのもいいだろう、と。
王命とやらが気になったが、話さないということは今聞いても意味はないだろうと頭の隅に追いやった。
部屋に戻ってから、私は天井を見上げた。
複雑な気持ちだった。
家族は私のことを考えてくれている。卑屈にならずに頑張らないとな。
私に力がないわけではない。ただ、それを証明する方法は今のところ思いつかないが。
精霊力を感じながら、私は決意を新たにした。
いつかこの力の意味を理解する。でもできれば早く理解したいな、せめて家族に私の将来について心配をかけないように。
それから、私の新しい教育が始まった。
朝は学問。文字の読み書き、算術、歴史、地理。この世界の知識を詰め込む時間。前世の記憶があるおかげで、理解は早かった。
午後は武術。といっても、まだ五歳だから本格的な訓練ではない。体を動かす基礎運動や、簡単な型の練習程度だった。
ロイドが時々、稽古に付き合ってくれた。
「もっと腰を落として!」
「うん」
「そうそう、いい感じだ!」
彼の指導は荒っぽいが、熱意があった。魔力のない弟を、別の方法で強くしようとしてくれている。
アレクシスは書物を貸してくれた。
「これは領地経営の基礎についての本だ」
「むずかしそう……」
「今は分からなくてもいい。少しずつ読んでいけば、いつか理解できるようになる」
彼の優しさが、胸に染みた。
クラリスは事あるごとに私の体調を気にかけ、何度も謝った。
「シリウス、どこか痛くない? 具合悪くない?」
「だいじょぶだよ、おかあさま」
「本当にごめんなさいね……」
世話はしてくれるし、愛情も注いでくれた。その姿を見るたびに、私の心は痛んだ。
クラリスは悪くないのに。説明のできない力に、私はいらだちを覚えていた。
ギルベルトは変わらず厳格だったが、時々優しい言葉をかけてくれた。
「シリウス、焦る必要はない」
「うん」
「お前にはお前の道がある。それを見つければよい」
その言葉は、プレッシャーでもあり、希望でもあった。
夜、一人の時間。
私は精霊力の訓練を続けた。第四の門への注入は順調に進んでいる。いつか、この門も閉じるだろう。その時、また何か変化が起きるのだろうか。
精霊力を体の周りで循環させる。手のひらに集める。足に集める。頭に集める。全身に広げる。
制御は完璧になっていた。
この力で、何ができるのだろう。
魔法とは違う。だが、何かはできるはずだ。
ある夜、ふと思いついた。
精霊力を、体の外に出してみたらどうだろう。
今までは体の中、あるいは体のすぐ周りで循環させるだけだった。だが、もっと遠くに飛ばすことはできないだろうか。
試しに、手のひらから精霊力を放出してみた。
淡い光が、手のひらから浮かび上がった。
ゆっくりと、空中に漂う。私の意思に従って、部屋の中を移動する。
できた。
外に出せた。
心臓が高鳴った。これは大きな進歩だ。体の外で精霊力を操作できるなら、いつか何か実用的なことに使えるかもしれない。
だが、まだ誰にも見せられない。
この力が何なのか、自分でも理解していないのだから。下手に見せて、また心配をかけたくなかった。特にクラリスを、これ以上苦しませたくなかった。
もっと研究しよう。もっと制御を高めよう。
そして、いつかこの力の正体を突き止める。
窓の外を見ると、月が綺麗だった。
前世では病弱で、外の世界をほとんど知らなかった。だが今、私は新しい世界に生きている。魔力はないかもしれないが、別の力がある。
家族を心配させている。それは事実だ。
せめて心配しなくとも大丈夫だと思ってもらえるように頑張ろう。
この精霊力を使って、何かを成し遂げることがあるかは分からないけど。
魔力がなくても、しっかり生きていけるのだと。
手のひらの精霊力を見つめながら、私は静かに誓った。
必ず、道を見つける。
この力の意味を理解し、家族が何も心配せずに触れ合えるように。
私の戦いは、まだ始まったばかりだった。
*魔力ゼロ(誤診)の公爵家三男に転生したら、魔力が見えたので全力で鍛えてみた件【再構築中】 宙野たまき @sora_tama_igs
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