愛しい呪い

静かな部屋には、古い時計の秒針がカチカチと時を正確に刻む音だけが響いていた。放課後の化学準備室はいつも静かで、こうして一人机に座っていると、まるで外の世界とは別の時間が流れているような錯覚に陥る。ふと、机に設置されている水道の先に水滴が付いている事に気づき、何となくその水滴を指先で払う。その時、ふわりとコーヒーの匂いが鼻先に香った。

「やっぱり、和泉いたんだ」

「森先生...」

先生はふっと笑うと僕のすぐ横に丸椅子をズリズリと引っ張ってきて腰掛けた。

「いやー職員会議が長引いちゃってさ、マジ今年の学年主任、話がなげーんだよな」そう言って、缶コーヒーを傾ける。

「クラスでも、あの先生は話が長いって...実は影で言われてます」

「ははは、やっぱりな」

そう言いながら先生は白衣の胸ポケットの中から白い箱を取り出す。金色の輪のついた安っぽいパッケージ。とん、と軽く箱の底を叩き、一本を取り出すと慣れた様子でライターで火をつけ、ふーっとが重たく息を吐いた。コーヒーの香りが一瞬で苦いタバコの薫りに打ち消される。

その姿に思わず身体の動きが止まる。脳裏に煙を纏った男の姿が描き出される。全ての音が一瞬遠くなった。

「おい、おーい和泉」

はっ、と煙が晴れ現実に引き戻される。

「どうしたんだよ、固まって」

先生が訝しげに僕を見つめる。

「いえ、なんでもないです...」

「...あっそ、お前って時々ここじゃないどこかに行く時あるよな」

「ここじゃない、どこか?」

「...分かってないなら別にいいよ」

先生はそう言ってまたふーっと煙を吐いた。しばらく沈黙が流れる。

「そういえば...先生って左利きなんですね」

「え、ああ、まあそうだな」

先生はタバコを挟んだ左手をなんとなしに見つめている。そこで、はとその薬指にいつもはまっているはずの銀色に輝く指輪が無いことに気づいた。僕がその事を口にしようとする前に先生はパッと僕の右手をすくい上げる。

「和泉は右利きか」

「...はい」

「和泉の指は細くて白くて綺麗だな」

先生は僕の右手をその左手でつーっとなぞった手のひらから指の腹、爪。

「先生の手は大きくて男らしいですね。」

その手を取り自分の手と合わせる。先生の手は熱く湿っていた。

先生がタバコを口から離した。顔が近づいてくる。

僕はその顔を冷静に見つめていた。ふわりと薫るタバコの匂い。先生の胸ポケットから白い箱が覗いていた。僕はさっとそれをつまみ上げる。

「体に悪いので没収です。」

「...いまキスする雰囲気だったよね?」

不満げな声。

「先生が禁煙できたら」

「はは、お前だけだよ俺の体を気遣ってくれるやつなんて」

先生は嫌味っぽく微笑んだ。

「子供ができたらさ、俺なんてただの付属物だよ...」

僕はそのポつりと零れたつぶやきに返す言葉が見つからなかった。

「俺がここで煙草吸ってること、2人だけの秘密な」

先生が薄く微笑む。

「はい...秘密です。誰にも」

カーテンを揺らす風がいっそう強く、窓から吹き込む。僕は森先生から奪った白い箱の感触を確かめるようにぎゅっと握った。


化学準備室を出た僕は学校から飛び出すように駅に向かった。帰りの電車に飛び乗って、カバンの中に忍ばせた白い箱を取り出す。

白く安っぽいパッケージ。待ち望んだ物。早く、早くこの薫りに包まれたい。

駅を出て家路を急ぐ。アパートのペンキが禿げて酸化した鉄がむき出しになった階段を駆け上がる。同じように年季の入った、重い金属製のドアを開けた。安アパートのさびたドアは閉める時も開ける時も不快な音を轟かせる。母はパートに行ったらしい。玄関に赤色のヒールは無い。机の上には走り書きのメモと1000円札が残されていた。

『今日も遅くなります。ごめんね。夕ご飯適当に買ってきてね』 そのメモを静かに裏返す。

はげて逆だっている畳の上を靴下で歩いて、立て付けの悪い窓を開けた。

冬の冷たい刺すような空気が鼻の粘膜をツンと刺激する。

足元に置いたカバンからあの白い箱を取り出した。その中の一本を取り出し、口にくわえ火をつける。じりっとタバコの先に赤い火が灯った。僕は口の中に含んだ煙を逃がすようにふーっと大きく息を吐く。途端、部屋の中があの煙草の匂いで満たされた。目を閉じるとまるであの人がいたあの日々が戻ってきたようだ。煙草の先から白い煙が薄く立ち上る。吸うことはしない。ただその煙をぼーっと見つめるだけで、これ以上ないほど満たされた気分になる。

この瞬間の為だけに今を生きている。そんな感情すら覚える。


こんな不毛で、情けない、行為をはじめたのはほんの数ヶ月前。部活終わりに使わなくなった道具を整理するように頼まれて、たまたま物置として使われている古い部室を訪ねた時だ。作業を終えて建物を出ると、ふわりと懐かしい薫りがした。その匂いに惹き付けられるよう、建物の裏手に回ると、そこには、一時期だけ部活で一緒だった井口の姿があった。その手には細いタバコがある。井口がふーっと息を吐く。立ち上る煙が、井口の姿を朧気にし、一瞬、黒い、大きな背中と重なる。僕の足は自分とは関係なく、花の薫りに引き寄せらせる蝶のように動いていた。

井口は突然目の前に現れた黒い影に、ぱっと顔をあげる。そしてこちらの姿を認めると吸っていた煙草を地面に押し付けた。途端、煙が晴れ、井口の訝しげな顔が良く見えた。

「...お前、確か和泉京か...なんの用だよ」

煙の匂いが次第に周りの空気に溶けてくると、冷静な思考が戻ってくる。

「...先輩、こんな所で煙草吸ってたんですね」

そう言うと井口はちっと舌打ちをし、髪をかきあげた。

「なんだよ優等生、チクる気か?はっ、勝手にやれよ」

その顔を冷静に見つめ返す。その時、僕の中にある考えが浮かんだ。

「...いいえ、チクりません。その代わり、僕にその煙草くれませんか?」

「は?なんでだよ」

「...チクられたくないんでしょ」

井口は大きくため息を着くと、そのズボンのポケットから少しひしゃげた金色の箱を取り出し、俺の手のひらに乗せた。

「なんだよ、お前も吸うのかよ」

井口のその言葉に僕は曖昧に微笑み返す。

「安心してください。僕もあなたから煙草を貰ったなんて言いふらされたく無いので絶対にチクりませんから」

そう言って、僕はそのタバコを自分のポケットに入れ、井口に背を向けた。

「お前が吸うとか、なんか想像つかんわ」

俺の背中に向けて井口がポつりと呟いた。僕はその言葉に振り返らず足をはやめた。


家に帰って、カバンから取り出したそれはタバコに疎い自分でも聞いた事があるような有名な銘柄のものだった。金色で光沢がある外箱は、随分上品な装いだと思った。あの白い箱の安っぽいパッケージしか知らなかったから。

封を切り1本取り出す。タバコを自分で持ったのは初めてだった。

コロコロと指と指の間で転がす。

しばらくして、火をつけてみようと思った。

ライターを探すと台所の食器棚の中にあった。

普通の使い捨てライター。

なんとなくの知識で黒いボタンを押してみる。が、力いっぱい押しても火がつかない。

裏に貼ってある説明書きを読む。

どうやら、このヤスリというものを回しながら点けるらしい。

あの人はオイルライターを使っていた。それを運転しながら片手で簡単に操って見せた。僕はあの大きく燃え上がる火が怖かった。指が燃えるんじゃないかって。そんな俺の心配をよそに、あの人はライターの蓋をいつも乱雑に閉めるのだ。

ジュッ

「...っ!!」

じりっとした熱さに指先を焼かれた。驚いてライターを落としてしまう。

馬鹿だ。ライターを横にむけたから火が上に上がってきたんだ。

あのヒトがあんなに簡単につけていたから油断していた。

もう一度今度は縦に持ってつけてみる。炎は少し揺れたあと赤く真っ直ぐ輪郭を維持した。

タバコをくわえる。あの人がやっていたように先端を火に近づけて息を吸う。

ジジっと紙のやけるにおい。点いた!と感じた。先端から煙が立ち上りはじめる。

もう一度息を吸い込んだ。すると、煙が喉に入ってきて、思わず咳き込む。涙まで一緒に出てくる始末だ。

背中を丸め、肺に入った煙を必死に追い出そうと空気を吐く。咳が収まったあとも、もう一度これを咥えようだなんて思えなかった。バカな事を。頭の中の冷静な部分がそう言った。消そう。そう思って水道から水を出そうとして押し留まった。

指の間で短くなっていくタバコを見つめ灰が長くなってきたらシンクに落とす。煙がゆっくりと立ち上る。


不思議と安心した。満たされていた。

吸って、煙とニコチンを肺に入れるより自分にはこのタバコの赤黒い火を見ながら立ち上る煙を嗅いでいるのが好きだと思った。我ながら気持ち悪い、変だ。


それ以来、母が仕事で帰ってくるのが遅い時を狙ってそんな行為をするようになった。

馬鹿なことと思っても火をつければ心は休まった。その時間だけが僕を現実からあの日々に、連れ去ってくれた。しかし、次第に、その薫りが、あの人のものとは少し違うことに違和感を覚えた。あの人の吸っていた煙草と比べると井口が吸っていたものは甘すぎる。井口から奪った煙草の本数も少なくなってきたそんな時だ、たまたまプリントを化学準備室に届けるのを手伝った時、そこの主の森先生がタバコを吸っていた。

先生は俺たちが入って来たことに気づき慌ててタバコの火を揉み消した。

「わーモリセン、タバコすってるー校長に言いつけようかな~」

一緒にプリントを運んでいた女子がからかうように言った。

「ちょいちょいマジ勘弁、いや、お前らの前ではすってないっしょ?」

僕はヘラヘラと笑う森先生の白衣の胸ポケットばかりを見ていた。白い箱、金色の丸の輪郭が見えた。

あのタバコだ。と僕は思わず飛び上がりそうになった。

「和泉もこの事はオフレコで、な?」

先生オフレコとか死語ー

いや、オフレコって略語だから!off the recordで正式な言葉だから!

そんな軽口が耳に入ったが気にできなかった。ただ、その白い箱を手に入れたい。という気持ちが僕の中を占めていた。

次の日から、僕は森先生に積極的に接触を図った。授業中は穴が空くほど見つめてやり、必ず一人でいる時に質問に行った。

そのうち、先生の方からも、なにかあると必ず僕を手伝いに来させるようになった。

僕はわかりやすく先生に近づこうとした。先生の方も満更ではないと雰囲気でわかった。元々、自分を見る目がその他大勢の生徒とは違うと感じていたのだ。そのうち、先生は僕の前では遠慮せずに煙草をつけるようになっていた。2人だけの化学準備室、煙に満ちた部屋で僕たちは黙ったまま、ただ近くにいるだけのこともあれば、なんてことない会話をすることもあった。僕はあまりお喋りな方ではないので先生の話を聞くことが多かった。

僕は、先生の左手で静かに煙をくゆらせる煙草をみつめながら、いつも機会を伺っていた。

その煙草を手に入れる日を。

そして今、ようやく自分の手元に待ち望んだ薫りがある。


窓の外に逃げる煙を見ながらつい思いを巡らせていたら灰が畳に落ちてしまった。慌てて靴下を履いた足で擦る。畳には少し黒い跡がついたがこれくらいならバレることはないだろう。

短くなったタバコを消し、灰皿替わりのブリキのペンケースに投げ入れ蓋を閉じる。白い箱の中身を見る。まだ半分以上はありそうだ。でも、これが無くなったら?途端に心許なくなる。


いや、心配はいらないか。森先生がタバコをやめることはないだろう。あの人は奥さんも子供までいる人だから。俺の忠告も忘れて、今頃コンビニで白い箱の番号を言っているに違いない。無くなったらまた、奪えばいい。なんなら、キスをしてもいい。あの薫りのするキスなら悪くないはずだか。


この薫りは毒だ。

はじめて嗅いだ時からもう僕の肺胞の一つ一つにまで染み入って記憶してしまった。

忌々しい...愛おしい香りの呪いだ。

それでも僕は、火を灯し続ける。あの薫りが僕の中から消えないように。

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