冬の嵐
ドアを開けると、どこかで嗅いだことのある懐かしい香りががツンと鼻の奥についた。苦くて、重たい薫り。
「君が京(けい)くん?初めまして、突然ごめんなー」
部屋の中に知らない男がいた。全身真っ黒の服を着た大きな男は、炬燵から這い出てきて間延びした声でそう言った。
机の上には飲み干されたビールの缶が隅に固められている。
僕は家の中に突如現れた得体の知れない人物に驚き身を固くした。
「あはは、すんげー驚いとるわ。美和子さん説明してあげてよ。」
男がそう声をかけると台所の方から母が現れた。柔らかいウェーブのかかった髪をひとつにまとめたいつも通りの母の姿。
「京ちゃんおかえり。とりあえず荷物置いてきなさいよ。」
僕は靴を脱ぎ、スクールバックを片手に立ちあがった。なるべく男と目を合わせないように俯きながら横を通り抜ける。自室に続く襖の扉に手をかける時、一瞬、男の顔を見ると人のよさそうな笑みを浮かべながら会釈をしてきた。僕は戸惑いながらなんとかそれに返すや否や後ろ手で襖を閉める。
母さんが家にまで男を連れてくるなんて初めてだ。父さんは僕が物心着く前に出ていった。僕が覚えているのはその広い背中と、そしていつも吸っていたタバコの薫りだけ。
父親が出て行ってから、確かに母には男の影が常にあった。けれど、いつも長くは続かないようで、家に帰ってくると暗い部屋で泣き崩れている事がよくあった。
「けいちゃん、けいちゃん、私また振られちゃった。どうして私っていつもこうなの?」涙で崩れたアイライン、真っ赤なルージュが溶けて痛々しい。僕はいつもその柔らかい髪を撫でて抱きしめる。
「母さんはいつでもすごく綺麗だよ。大丈夫、きっと次はいい人と出会えるから」
そう言うと母は僕にしがみついて泣くのだ。
「ごめんねけいちゃん、私ってダメな母親だよね。私を一番理解してくれるのはやっぱりけいちゃんだけ、けいちゃんだけいればいい」
僕はそういう母を黙って抱きしめるのだ。そんな時、僕はどうしようもなくこの人が愛しいなと思うのだ、そして、救いようがないなとも。
襖がすっと開いて暗い部屋に隣の部屋からの明かりが差し込む。
「京ちゃん。何やってるの?早く来て」
いつも通り何も変わらない、見慣れた母さんの顔。
僕だけが酷く動揺していた。
僕がブレザーを脱いだだけの制服のまま出てきたことに母さんは驚いたように目を見張った。
「あれ?なんで制服のまま?いっつもジャージに着替えるじゃない?」
「うん。そうだけど...」
「あはは、美和子さん。説明してあげないと京くん気になってそれどころじゃ無いわ。」
男が軽い口調でそう言った。
「な?京くんも気になるよな?おっさん誰やねんって」
僕は見つめられた視線に曖昧に微笑み返す。
母さんは台所から作りたての料理を運んできた。生姜焼き。
机に僕と母さんと男の分の食器が並ぶ。
「京ちゃん何やってるの?炬燵入って。食べるわよ」
僕はさっきからぼーっと自室に続く襖の前に立っていたのだった。
母さんが男の横に座ったので僕は男からなるべく距離をとるべく向かいに腰を下ろした。
布団をかけた振りをして足はこたつの中に入れない。
「京ちゃん」
呼びかけられ僕は母の顔を見た。
「この人はタカシさん。お母さんの仕事先で会ったの」
「...スーパーで?」
母さんは少しきまり悪そうな顔をした後に
「ううん。もうひとつの方、お店で。」
母さんは少し前からスーパーのパート以外にスナックの雇われママをはじめたようだった。その客か。
「京ちゃんが想像しているような関係じゃないわ。この人独りもので家でもろくなもの食べてないって。心配になったから。時々こうやってご飯作って食べさせてあげようと思うんだけどいい?」
いっそ付き合っていると言われたら納得出来た。たかが客にそこまでするか?
男の顔を見るとニコニコと笑顔を浮かべているだけで真意が見えない。
「うん...僕は別に」
「そう!有難う京ちゃん。」
「京くんありがとうね。これから宜しく。」
とって付けたようなきな臭い関西弁を話す奴だ。気に入らない。
僕はその言葉を飲み込むように生姜焼きを口に押し込んだ。
そんな出会いからすぐの事だ。部活が終わって体育館を出ると小雨が降っていた。このくらいなら走って帰れると校門を抜けたところで車から降りてきたこの男に捕まった。
「...何してるんですか?」
「え?迎えに来たにきまっとるやん。乗り、風邪ひくよ。」
「...いいです。近いですし。お気遣い結構です。」
僕がそそくさとその場を立ち去ろうとすると、それより早く動いた男がサッと黒い車の助手席側のドアを開けた。
「...京くんが乗ってくれるまで動かれへん」
男は口元にはいつもの笑みを貼り付けていたが、その目の色は雨空の下でより黒く、得体の知れないものに見えた。
僕はジャージに付いた雫をはらい、一呼吸置いてから車に乗り込んだ。
男は僕がシートに座りきったことを確認するとバタンとドアを閉めた。
「いやぁー良かったわ。京くんが乗ってくれへんかったらシートべったべたになるとこやった」
男は、あははと笑いながら車に乗り込んできた。
男のやたら大きい体のせいでぐっと距離が縮まった。
スポーツバックを抱え直し身を固くする。
「京くんこれ使って。濡れとったら風邪ひくわ。」
男の手にはビニールに入った白いタオルがあった。
「心配せんでも、そこのコンビニで買ってきたなんて事ないただのタオルやで」
僕はよっぽど訝しげな顔をしていたらしい。
「いえ...タオルなら部活で使ってるのがあるのでそれ使います。」
僕はスポーツバックから黄色のタオルを取り出してみせた。
「あは、そうか!ならいいわ。ていうか俺が使うわ結構濡れたでな。」
男は乱雑にビニールを破いて中のタオルを取り出すと服に着いた雫を拭った。
僕も言った手前一応拭く真似くらいはしておくか、と適当に雫を払った。
こんなもんだろうタオルをしまおうとした手を急に男に掴まれた。
「ちょっと貸してみて」
男は僕の手からタオルをもぎ取ると、僕の髪を掻き回すように拭いた。
あまりの衝撃に頭が左へ右へ揺れる。
猛攻がやみ、定まった視界の中であの笑みを浮かべた男がハッキリ写った。
「あはは。ごめんごめん髪の毛べったべたなの気になったで。」
返すわ。と僕の手に黄色いタオルが戻される。
僕は機械式人形のようにギシギシと首を前に戻す。
「さぁ、行こか」
男が車のエンジンを入れる。ワイパーがあまつぶをかきわける。
車は静かに発進し見慣れた道を進んでいく。
途中赤信号で車は止まった。
「あれ?...怒っとる?京くん。」
思いもよらなかった。というふうに男はそう言った。
「髪の毛セットしとったんならごめん。京くんはいっつもサラッサラやもんな髪。なんかしとるん?」
「...セットなんか、してない。なんにもしてない」
僕の声はいささか不機嫌そうに響いた。
「あはは、女子が羨むやろなー。モテるやろ?京くんアイドルとか?目指さんの?」
「...モテてなんかない。...アイドルも、考えたことない」
「へぇー。女の子は近寄り難いんかな?京くんあれや...高嶺の花っぽいもんな。」
ものはいいようだと思った。そんなこと、誰にも言われたこと無い。
というより、こんなに自分に構ってくる人間自体初めてだった。クラスメイトは暗くて無口で面白みのない僕を遠ざける。どうしても話さなきゃならない時は遠慮したように話す。
和泉くんって名字で。僕にだけ敬語で。
僕もそれを当然のように受け入れていた。
男のマシンガントークは留まることを知らない。
「ねぇ、なんでバドミントン部入ろうと思ったの?シングルス?ダブルス?」
どうでもいいでしょ、と喉元まででかかったものをぐっと飲み込む。
「どっちもやります。...入った理由は...」
そこまで言って馬鹿らしくなってきた。
「...理由は?」
「...いや、こんなこと聞いても面白くなんかない。大した理由やないし。」
あははと男は声を出してわらった。
「面白くないなんてそんな訳あるか。俺は京くんのこと知りたくて色々聞いとるんや。京くんにしたらどうでもいいことでも俺にとっては面白いんや」
信号が青になった。男は滑らせるように車を発信させる。窓の水滴が線を引いて後ろに流れていく。
「...アニメで見て。面白そうだなって思ったから。」
「ほーアニメか。題名は?俺知っとるかもしれん」
「言わない。絶対わからんもん」
なんでやーん。俺結構アニメわかるよ。今流行りの魔法のやつとか鬼の奴とかな。
男はひとりで喋り続けている。
その姿に思わず笑みが零れた。自分の話をしてここまで楽しそうに会話を続けられたのは初めてだった。母とですら僕は聞き役に徹していた。
「あはは、京くん初めて笑ったな。」
指摘されても僕は口角を下げることが出来なかった。
「いや。だって全部古いよ。タカシさんの言うアニメ」
「はぁー?古いって。俺はまだオッサンになったつもりはないで?」
そう言って、いい歳のオッサンが唇を尖らせるものだからまた笑いが吹き上がってくる。
それから、静かな雨のようにぽつぽつ軽口が続いた。
また信号が赤になった時、男がポケットから白い箱を取り出した。
「京くん悪いんやけど吸ってもいい?」
そう言って済まなそうに眉を下げる。
「...別に、タカシさんの車なんだから好きなように。」
「ありがとう」
男は慣れた様子でタバコを咥えるとオイルライターで火をつけた。ふーっと煙が吹かれてぶわっとタバコの匂いが拡がる。
嫌な感じではなかった。
しばらく男が煙を吸って吐き出す姿をただ見ていた。
「...ねぇ。それって美味しいの?」
これ?と男はタバコを挟んだ指先を持ち上げる。
「美味いか不味いかって言われるとなー。
なんとも言えんのやけど。」
また信号は青にかわり車がゆっくりと発信する。
「...でもやめられへんのやで好きなんやろうな。」
「美味しくもないのに好き?」
「変やろ?でもそういうもんなんや。やめよ思ってもいつの間にか吹かしとる。魔力があるんやなこれには」
その笑みはいつものヘラヘラとしたものではない。自嘲のようにみえた。
「京くんは一生知らんでもいいよ。」
その言葉がポツリと心に染みを作った。
いつの間にか車は家の前に着いていた。雨は先程とは比べ物にならないくらいの勢いを増している。
「うわー降ってきたわー。こりゃひっさしぶりにまとまって降るかもな。」
男はそう言いながらビニール傘をひろげて車から降りた。助手席のドアが開かれる。
「傘、これもっとき。せっかく乾いてきたのに家入るまでで濡れてまうわ」
「タカシさんは?」
「俺はいいの。気にしんで大丈夫」
僕はスポーツバックを抱えながら車から降りた。その間も男は僕が濡れないように傘をさしてくれていた。体が大きいせいで背中が濡れている。
白い傘の、男が握っているすぐ上の所の柄を握る。
そっと男の手が離れた。
「ついてきてよかったやろ?」
「...うん」
「ほな、またくるわ」
そう言うと男は僕の頭をそっと撫でた。傘の下で、タバコの匂いがほんの一瞬、強くなる。そして男は足早に車に戻っていく。窓ガラス越しにびしょ濡れの男が手を振っていてそれに振り返す。
自然と笑っているのがわかった。
車のテールランプが嵐の夜に滲んで消えた。その残像だけが、いつまでも僕の心の中で揺れていた。
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